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安祥城の城跡は、現在安祥城址公園として整備され、本丸跡には大乗寺があります。安祥山了雲院大乗寺は、延徳元年、安祥城主・松平親忠が勢誉愚底上人を開山として創建されました。安祥合戦と享保の火災で荒廃しましたが、安祥城址に移転再建後は城跡のお寺として知られています。市指定史跡安祥城址昭和36年10月1日指定安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一説には、室町時代の永享年間(1429~1441)、志貴荘の地頭和田親平によるともいわれます。江戸時代に記された「三河物語」には、岩津城(岡崎市)を本拠としていた松平信光が、文明8年(1476)ころに安城城を奪い取ったとの記述があります。このとき信光は、きらびやかに仕立てた踊りを安城の「西野」で行い、城内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされます。...安祥城(2)大乗寺
愛知県安城市の安祥城(あんじょうじょう)は、永享12年(1440)、畠山一族の和田親平が築城したといわれ、別名を森城といい、天守を持たない平山城でした。文明年間、松平信光が本拠地として以来、岡崎に移るまで徳川四代の居城となりました。現在城跡は安祥城址公園として整備され、本丸跡に大乗寺、二の丸跡に八幡社、周囲に堀や土塁などが残っています。愛知県安城市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。三河国碧海郡(あおみのこおり)周辺(現愛知県碧海(へきかい)郡)を支配していた和田親平が1440年(永享12)に築城したとされる。その後、1471年(文明3)に、岩津城(岡崎市)の松平信光(のぶみつ)が謀略を用いて無血落城させ、以後4代にわたって松平氏の居城となった。この4代を安祥松平氏という。安祥松平氏4代の松平清康(きよ...安祥城(1)
同じNHKのドラマでも朝ドラに比べ、 日本史わからないし、戦国ものには興味ないし で例年全く根気が続かず あまり通しで見ることのないNHK大河ドラマ。 今年もご多分に漏れずではあったけれども あの松潤が、、、というのに惹かれて とぎれとぎれで見てました。 松潤っていうと俺様キャラのイメージ強いので 徳川家康はミスキャストなんじゃない とか思いつつも 松潤の配役だったからこその 気の小さくて可愛い…
やっと買えた!入荷予約になるわけね。発送はなんと2月かーーーー待ち遠しいね 私は展覧会には行けないので写真集買えてよかった アマゾン JUN MATSUMOTO 20220830-20231026 THE RECORDS OF DAYS OF LIVING AS IEYASU 楽天ブックス JUN MATSUMOTO 20220830-20231026 THE RECORDS OF DAYS OF LIVING AS IEYASU 松本 潤 セブンネット <2次入荷> JUN MATSUMOTO 20220830-20231026 THE RECORDS OF DAYS OF LI…
共同通信PRワイヤー大河ドラマ「どうする家康」最終回パブリックビューイング&トークショーin静
にほんブログ村にほんブログ村 令和にSHAZNA! IZAM、久々の“ガチメイクパフォ”に国内外が熱狂 24年ぶりテレ東歌番組出演に「嬉しすぎて鳥肌」「泣きそ…
静岡大河ドラマ館の中を進んで行きます。次は、メインキャストの衣装展示です。今川氏真役:溝端淳平さんの衣装徳川家康(松平元康)と瀬名の婚礼衣装今川義元の衣装続いて、メインキャストの紹介です。徳川家康と瀬名織田信長本多正信、松平信康、今川氏真静岡浅間神社の模型古くから駿河国総社として歴代幕府の崇敬を受けて信仰され、竹千代(家康)が元服式を行ったことから、江戸時代には特に徳川氏の崇敬を受けました。神部(か...
臨済寺の特別拝観の日に、静岡大河ドラマ館も見学してきました。これで、岡崎、浜松、静岡の三つの大河ドラマ館を制覇したことになります\(^o^)/静岡大河ドラマ館は、徳川家康が元服式を行った静岡浅間神社の境内に建てられています。では、記念すべき第1回に登場した小物を振り返ってみましょう!実際撮影で使用したものもあれば、同等品の展示もあり。「次郎三郎元信と瀬名を結ぶウサギと騎馬の人形」「瀬名が口づけした弓懸」...
静岡県掛川市上西郷は、於愛の方(西郷局)の生誕地とされています。西郷局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷局です。(西郷局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛といい、父・戸塚五郎太夫忠春、...
VIVANT 最新の検索トレンドをチェック!本日の注目キーワード
最新の検索トレンドをチェックしました。 世間の関心ごと、X(旧Twitter)住民の世界観が体験できます 本日の注目キーワードランキング一覧はこちら #59106;#VIVANT #59107;ヤクルト #59108;#どうする家康 #59109;#鉄腕DASH #59110;#f1jp #59111;乃木さん #59112;デッドボール #59113;音尾さん この時間のツイートは、地上波TVドラマに関する投稿が上位に挙がっています ・#VIVANT #8 乃木(堺さん)ら「別班」は「テント」の会合に潜入してノコル(二宮和也さん)を捕らえるが、乃木は別班の仲間を次々と狙撃するという衝撃の行動に出た。仲間や国を裏切ってまでも果たしたい乃木の思いは? ?#59036; #VIVANT 重大発表②#59036;??9/17(日)にIHIステージアラウンド東京にて、ファンミーティングの開催が決定しました!〓撮影秘話や名場面を福澤監督と一緒に振り返りましょう!??さ..
蟹江城合戦の舞台となった蟹江城址は、JR関西本線蟹江駅下車徒歩15分ほどのところにあります。蟹江城は、永享年間(1429~1440)に北条時任により築城されました。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありましたが、天正12年(1584)の蟹江合戦において、織田・徳川連合軍により落城、翌年の大地震で壊滅し、今は石碑と井戸を残すのみです。蟹江城合戦(蟹江合戦)とは、...
愛知県春日井市にある太清寺(たいせいじ)。かつては醍醐山龍源寺と呼ばれ、徳川家康の逸話が伝えられていることで知られます。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう折、当地の阿弥陀堂で休憩しました。家康が「ここは何という所か」と尋ねたため、庄屋の長谷川甚助が「勝川村にございます」と申し上げたところ、「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ」と喜びました。また、そこで牡丹餅を...
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小牧市の玉林寺は、元々は小牧山の麗にありましたが、元和9年(1623年)に現在地に移転しました。本尊として祀られている如意輪観世音菩薩像は、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで小牧山に陣を張った徳川家康が、山の周囲に堀を造らせたところ、地中から見つかったとされています。本堂観音像毘沙門堂庫裏にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラ...
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いで、尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれました。楽田城(がくでんじょう)は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)にあった城で、永正年間に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わっています。小高...
東山区梅宮町の「明智光秀の首塚」は、通称「光秀塚」とも呼ばれています。白川沿いを歩いて行くと、白川橋を南に下がった東側に「東梅宮 明智光秀墳」の石碑が見えてきます。ここを入るとすぐ左手に首塚があります。光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首...
最新の検索トレンドをチェックしました。 本日の注目キーワードランキング一覧はこちら #59106;トリネコ #59107;どうする家康 #59108;土用の丑の日 #59109;ファミコン全国一斉クイズ #59110;タキオン #59111;ぱかライブTV #59112;ケラモフ #59113;デステニー この時間のツイートはFGO(Fate/Grand Order)関係が上位に挙がっています ・トリネコ / デステニー スマートフォンアプリRPG『Fate/Grand Order』に登場するキャラクター。 2部6章「妖精円卓領域 アヴァロン・ル・フェ」に関する重要人物。 スマホでフェイト! Fate/Grand Order 公式サイト ・どうする家康 NHK大河ドラマ【どうする家康】第29回「伊賀を越えろ!」 ・土用の丑の日 2023年夏の土用の丑の日は、本日 7月30日(日)です。 今月は、デパートや..
碧南市浅間町に鎮座する浅間神社は、寛文9年(1669)吉左衛門家次が創建されました。天正10年(1582)6月2日の朝に「本能寺の変」の報を聞きつけた徳川家康。命からがら伊賀越えをして大浜経由で岡崎へ逃れる道中、家康一行は、碧南北部にある浅間神社近くに上陸しました。農民が「麦えまし」という食事を差し出されたところ、空腹に耐えかねた徳川家康は、浅間神社で食べたと伝えられています。浅間神社では、現在でも夏越祭で「麦...
加太越から白子に出て、船で三河の大浜へ。船を手配したのは、角屋七郎次郎秀持でした。角屋 七郎次郎(かどや しちろうじろう)は、伊勢商人・角屋家当主が代々名乗った名前。角屋は屋号。本姓は松本。寛永年中には「角谷」とも号する。なお、代数は、角屋七郎次郎秀持を初代とする場合と2代目とする場合がある初代 角屋七郎次郎 秀持 朝熊山の柴を集め、廻船で各地に販路を広げた。1575年(天正3年)4月、北条氏政が徳川家康に...
甲賀市信楽町多羅尾の伊賀越えの道4日目は小川城から神山に向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、柘植の徳永寺に寄りました。当寺で一泊した家康はその時のお礼に、田畑や山林を与え、葵紋の使用も許したといわれています。徳永寺葵の御紋入った瓦伊賀越えの新説ルート甲賀伊賀越え通過点の一か所とみている天台宗明王寺(甲南町磯尾)には徳川家康より四代の位牌があり、神君甲賀伊賀越えの新たなルートの拠点として近年注目を集めて...
建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点、応仁の乱の際は西方の陣地となりました。10月19日の大祭...
京都市バス、京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分、現在「京都国際マンガミュージアム」(旧龍池小学校)となっている建物の裏側に、「此附近 二條殿址」の石碑が立っています。二条殿は、もとは南北朝時代の公卿・歌人・連歌師であった二条良基の邸宅で、押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり、洛中洛外図屏風にも描かれており、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。信長は天正5(1577)年に移り住...
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。 本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。本堂信長公廟本能寺の変...
現在の報土寺がある静岡市葵区宮ヶ崎辺りに、新婚時代の徳川家康(松平元信)と瀬名(築山殿)が住んだ屋敷があったと伝わっています。駿府城の西側、浅間神社の南側にあたるエリアです。報土寺HPによると「開創当初は今川家の時代であり、京都から駿府に来ていた公家で歌人の冷泉為和が、度々報土寺で歌会を催していた記録が残っています。江戸時代になると、徳川家康公が政治の実権を秀忠公に譲り駿府に隠居したため、しばしば家康公...
武田勝頼ゆかりの韮崎市と甲州市を訪ねる予定が、「武田氏滅亡」が描かれる回に間に合わなかっため、今回は「韮崎市観光協会」と「甲州市観光協会」から画像をお借りしました。●韮崎市長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫し、高天神城が陥落したことで、武田氏の威信は急落。領国の立て直しを決断した武田勝頼は、府中移転を計画し、天正9年(1581)、現在の山梨県韮崎市の七里岩の台地に新府城を築城。新府城跡写真...
ジュビリーセレブレーション ウォラトンオールドホール 開花中のバラ
おはようございます~♪ 梅雨です。 昨日は朝曇ってたけど、雨は降りそうもなかったので ふつうに水やりをして、 2時間くらいしたら、雨になっていまいました。 ちゃんと天気予報を見て水やりしな
岡崎市若宮町にある根石寺(旧根石観音堂)を訪ねました。現在、信康の首塚がある若宮八幡宮の境内にあった根石原観音は、明治維新の神仏分離によって、若宮八幡宮の北側に移転し、現在は根石寺となっています。根石原観音の由緒について、「おかまいり」のHPによると、和銅元年(708)に悪病が流行したことから、43代元明天皇が悪疫を絶やすよう行基法師に祈祷を依頼すると、行基は自ら六体の観音菩薩を彫り、そのうちの二体を根石...
松平信康は、堀江城からさらに遠江国豊田郡二俣(現在の浜松市天竜区二俣町二俣)二俣城に移されました。二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地で、、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。また、信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られています。この急な階段を上っていきます。当時、武田軍が急な坂道で手こずったというのがうなづけます。まだまだ続く階段(..;...
天正7年(1579)8月9日、小姓5人を付き添わせ、松平信康は、大浜から遠江の浜名湖半にある堀江城へと移っていきました。その翌日、徳川家康は、三河衆から信康に内通しないことを誓約する起請文を提出させたといいます。13日、家康は浜松城に帰還し、岡崎城には本多重次を派遣して城代に据えました。堀江城は、鎌倉時代、藤原氏の血を引く大沢基久が築城したと伝えられています。 戦国時代も大沢氏が城主を務めますが、今川氏の勢力...
岡崎市両町にある祐伝寺を訪ねました。祐伝寺の由緒根石山と号し真宗高田派。もと妙源寺末。本尊阿弥陀如来。天正7年(1579)柴田新四郎正親が投町に創建。正親の次男六郎は遊伝坊了慶と称して一寺を建てた。後家康が神明宮別当を命じたという(コトバンクより)築山殿の首は、織田信長に送られ、首実検にかけられた後、岡崎城代であった石川数正がその首を持ち帰り、祐伝寺に葬ったといいます。江戸時代になると八柱神社(やはしら...
浜松市南区高塚にある護法山地蔵院は明徳元年(1390)に元道円密和尚により創建されました。元道円密和尚は、後醍醐天皇の子 宗良親王と共に遠州に入った公家出身の武士であり、親王が元中二年(1385)に亡くなると出家して当地高塚に庵を結んだとされています。本堂約250年前に建立されました当時は茅葺きでしたが大正時代に瓦に葺き替えられたそうです。ご本尊は延命地蔵菩薩位牌堂には築山御前ゆかりの腹籠り地蔵も祀られてい...
岡崎で息子の松平信康夫婦と暮らしていた築山殿は、信康の妻・徳姫が二人の姫を産んでもいまだ男児を産まないことを気にかけ、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山御前と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か...
松平信康が大浜へ追放された後、天正7年(1579)、8月5日、徳川家康は、松平信忠らの軍勢を率いて、吉良西尾城に赴きました。西尾城周辺には大きな河川があり、下流の湿地帯には野鳥が多く生息し、この地で織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、吉良荘(きらのしょう)で鷹狩りを楽しんだという記録が残っています。(西尾歴史散策MAPより)特に家康は、その生涯で1000回以上も鷹狩りを楽しんだそうで、この年表を見ても、信康事件の...
1579年8月4日、松平信康は、岡崎城から三河大浜城に移されました。そんな信康の軌跡を追って、愛知県碧南市大浜を訪ねました。碧南市には、三英傑のゆかりの地があり、各所にこの幟がはためいています。この地区は、古くから海運の町として栄え、多くの寺社が建てられました。特に大浜てらまち地区は、南北1.2kmほどの狭い地区に、宗派を異にする10軒のお寺があります。「竹千代」命名の寺「称名寺」は、暦応2年(1339)に新田氏一...
松平信康は、永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で誕生。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移りました。元亀1年(1570)、家康が遠江に進出し、引馬(浜松)を居城とする際、三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称しました。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家康を助けたといいます。天正3年(1...
西の丸に向かって進んで行きます。的場曲輪跡弓矢などの練習をしていた場所と言われています。鐘曲輪兵が攻めてきたことを知らせるために、ここで鐘や太鼓で知らせたといいます。かな井戸 井戸曲輪跡西峰と東峰を分ける曲輪で、籠城には欠かせない井戸がありました。尾白稲荷高天神城合戦将士英魂之碑高天神社西の丸跡この西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。神社の奥に向かって...
高天神城の三の丸から本丸へ元天神社現在、西の丸にある高天神社は、元々はこの場所にあり、「高天神城」という由来となったそうです。御前曲輪跡城主・小笠原長忠と奥方の顔出しパネルここに、昭和に入ってから建てられた2層の模擬天守がありましたが、落雷で焼失したそうです。本丸跡高天神城の東峰の最高所に位置するのが本丸です。西側には土塁が作られているものの、東側は絶壁と評するにふさわしい急斜面となっており、人の...
掛川市の高天神城は、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた東海一の堅塁を誇った標高132メートルの山城です。眼下には、下小笠川など中小の河川が流れ、天然の堀を成し、尾根は三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害で、「難攻不落の名城」と呼ばれていました。高天神城の築城は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承がありますが、室町時代、...
岡崎の築山に居を構えていたことから、築山殿と呼ばれたという瀬名。その築山というのは、どの辺りにあったのか岡崎を再度訪ねてみました。築山があったのは、総持尼寺(そうじにじ)というお寺で、そこに築山があり、「築山殿」と呼ばれるようになったという説があります。岡崎天満宮の由緒に、総持尼寺の創建について書かれています。「今から約800年前のことです。人皇第84代順徳天皇の時代、建保2年(西暦1214年)秋...
浜松城から歩くこと10分。五社神社・諏訪神社があります。五社神社は、徳川家康によって、2代将軍・徳川秀忠誕生の際に産土神(うぶすながみ)として、浜松城内から現在地に遷されました。家康は、その後も子供たちのお宮参りや、自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。また諏訪神社は、3代将軍・徳川家光によって、現在地に遷され、昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社...
高月院へと続く道沿いには、白壁が続いています。1367年、見誉寛立(俗名:足助重政)が松平郷主・在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立したと言われています。1377年、松平親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となっています。その後、徳川家康によって寺領100石が与えられ、明治維新まで時の将軍家から厚い保護を受けていました。 総門参道山門山門や本堂は、1641年...
松平東照宮前の歩道脇に、一本の「笠掛けかえで」の木があります。このかえでは、その昔、やがてこの地の当主となる「徳阿弥(とくあみ)」が高月院を訪ねてこの地を訪れ、このかえでの木に笠を掛けてひと休みしていました。そこへ当時の当主在原家の次女「水姫(すいひめ)」が、井戸の水を汲み、アヤメの花を一輪添えて徳阿弥に差し出したのが二人の出会いでした。やがて二人は結ばれ、徳阿弥陀はこの地の初代松平家当主「松平親...
今年の4月、松平郷を訪ねました。愛知県豊田市松平町の松平郷は、松平氏・徳川氏の発祥地で、一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されています。松平発祥の地松平東照宮に現存する水濠や石垣は、松平太郎左衛門家九代尚栄によって関ケ原の合戦のあと築かれました。はじめは、八幡宮と称して松平家の屋敷神でしたが、元和5年(1619)家康を合祀し、昭和40年(1965)親氏公を合祀しました。 松平太郎左衛門家は、...
応永10年(1403)、浜松普済寺の利山義總(りざんぎそう)禅師が現在の刈谷市元町に海会寺(かいえいじ)を開きました。海会寺には、禅師の徳を慕って修行者や信徒が多く集まるようになり、境内が手狭になったので、応永20年(1413)に現在の刈谷市天王町に楞厳寺(りょうごんじ)を建てました。水野家はこの寺に帰信し、水野家の菩提寺となっています。徳川家康の生母於大の方は、岡崎の松平氏に嫁いで竹千代(後の徳川家康)を生...
乾坤院 (けんこんいん)は、室町時代、文明7年(1475)、緒川城初代城主・水野貞守によって水野家の菩提寺として建立されました。徳川家康の生母・於大の方(伝通院)が四代・水野忠政の娘であり、乾坤院でも供養されている事から、江戸時代には尾張徳川家の庇護を受けました。乾坤とは、八卦で言う所の西北と南西の方位を表し、緒川城から見て西方(乾と坤の間)に造られた事からその名が付けられたと伝えられています。また、乾坤が「...
では、小山城へと進んで行きましょう。能満寺から左手に進むと、「男坂」と呼ばれる急階段と、「女坂」と呼ばれる緩やかな階段に分かれます。男坂男坂があまりにも急なため、後に女坂の階段がつくられたそうです。女坂男坂の方が近道に見えましたが、手すりがなく危険そうなので、女坂を選びました(^^ゞ小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされています。信玄の病死後には、子の武田勝頼が跡を継ぎ、東海道...
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。ここでも松潤家康公がお出迎え!長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し...
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」この看板の裏側にあります。さかさ桑長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼...
武田軍の突然の撤退は、徳川家康に武田信玄死去の疑念を抱かせ、その生死を確認するため、武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしたところ、武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信。家康は、武田氏に与していた奥三河の山家三方衆(作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏)の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略。浜松秋葉神社境内の山家三方衆屋敷跡奪回した長篠城に...
長浜の浅井歴史民俗資料館は、浅井三代の歴史と浅井三姉妹の波乱の人生を、ゆかりある武具や資料、人形ジオラマなどで展示されています。お江誕生人形ジオラマ 小谷城落城人形ジオラマ 実宰院人形ジオラマ小谷城址ジオラマまた、江戸時代後期から明治時代における浅井の庄屋・養蚕農家・鍛冶屋なども再現されています。この資料館の背後に見える大依山は、元亀元年(1570)6月28に日の姉川合戦にのぞむ浅井・朝倉軍が合戦に前に一...
小谷城跡から小谷寺へと自転車を進めて行きました。小谷寺は、小谷山の麓にあり、浅井家の祈願寺としてお市の方や浅井三姉妹もたびたび詣でたと伝わります。小谷落城の際、本尊以外は焼失してしまいましたが、後に長浜城主となった豊臣秀吉により再建されました。如意輪観音像や両界曼荼羅双幅は長浜市指定文化財となっています。 小谷寺は、今から約1280年前、聖武天皇の神亀5年(728)、加賀白山の開祖・泰澄上人が、白山から伊吹...