メインカテゴリーを選択しなおす
#273 第21回「長篠を救え」感想~大河ドラマ『どうする家康』
2023年6月4日の大河ドラマ『どうする家康』武田勝頼に押される中、信長との関係がかなり緊迫した第21話「長篠を救え」の感想 同盟分解なくらいにまで緊迫した信…
2023年 今年も紅葉を見に行きました。天候は風もなく穏やかな日となりました。「愛知県民の森」の紅葉は今が見頃。ついでに「長篠城」にも寄ってきました。「どうする家康」ブームで観光客がたくさん来ていました。長篠城址ですね。お城の跡しか残っていません。武田信玄の息子の武田勝頼と徳川と織田の連合軍が戦った場所。徳川 織田が圧勝。しかし 鉄砲三段撃ちの跡を探すも見当たらない。動画で見たことがあったのだけど な...
医王寺山「武田勝頼本陣跡」!進軍か退却か?武田の命運を左右する軍議の行方は?
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、医王寺山「武田勝頼本陣跡」!進軍か退却か?
戦国版"走れメロス"!長篠城の危機を救った鳥居強右衛門ゆかりの史跡へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、戦国版"走れメロス"!長篠城の危機を救った
家康を辿る城旅「長篠城」!武田の大軍から城を守り切れ…5百対1万5千の戦いの行方
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「長篠城」!武田の大軍から城
長篠設楽原古戦場の織田信長本陣と徳川家康対武田勝頼戦の馬防柵
織田・徳川連合軍38,000人と武田勝頼15,000人が戦った長篠・設楽原戦場跡地には、馬防柵が再現され、決戦があった地で攻める側と守る側の視点で戦場を見る事ができます。
長篠の戦いで大活躍し、徳川・織田連合軍を圧勝に導いた英雄・鳥居強右衛門は、愛知県豊川市市田町の出身といわれています。そこで、強右衛門追っかけ第二弾として、鳥居強右衛門生誕の地を訪ねてみました。名鉄八幡駅から歩くこと25分。松永寺というお寺があります。この付近には元々細川氏の築いた市田城があり、後に牧野氏一族の居城となったそうです。松永寺境内の東側には「烈士鳥居勝商生誕地」の石碑が建っています。石碑の...
愛知県新城市、その名の通り「長篠の戦い」で有名な長篠城址の最寄駅です。駅名標。ホームは1面1線ですが、向かい側にかつて使われていたであろうホームが残っています。ホームへの階段跡もありました。駅舎は櫓を模して待合室にしたもの。確かに一目で城と分かる代物ですが、ちょっと安直すぎやしないかとも思ってしまいました。まァ、駅舎で満足せずに実際に城址まで足を運んでみようということかもしれません。駅舎内部。超狭...
徳川家康の物見塚徳川家康は、戦況を見極めるために武田軍が一望出来る八剣山の物見塚で指揮を取りました。物見塚から約250mほどのところには、家康の本陣跡があります。徳川家康本陣跡(八剱神社)天正3年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため、徳川家康が本陣をおいて武田軍を迎え撃った場所です。天正3年5月1日、武田勝頼軍は長篠城に攻撃を開始しました。5月15日に、長篠城の落城寸前の知らせを受けた徳川家康...
長篠・設楽原の戦い(4)鳥居強右衛門呼びかけの所~馬場美濃守信房の墓
今回は、Googleマップに表示された史跡と長篠城址周辺マップを合わせてまわってみました。二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡長篠城址史跡保存館のすぐそばにある二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡の碑。ここには、三つの碑が立てられています。当時は、この辺りに食糧庫があったということですね。鳥居強右衛門が泳いで脱出する時には、食糧庫まで武田軍が攻めてきていたといいます。家老屋敷跡鳥居強右衛門呼びかけの所鳥居強右衛門が長篠城の向け...
長篠・設楽原の戦い(3)戦国版「走れメロス」鳥居強右衛門磔の場と墓
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、三河の徳川家康方の奥平貞昌(後の奥平信昌)の家臣で、貞昌が長篠城に入ったのに従い、天正3(1575)年2月長篠城に入りました。同年5月、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになり、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請することになりました。その命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒...
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。ここでも松潤家康公がお出迎え!長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し...
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」この看板の裏側にあります。さかさ桑長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼...
どうする家康いよいよ長篠の戦いが始まるようです。歴史的に有名で日本100名城の長篠城は、ずーと行きたかった城です。昨年行って来ました。現在は何もない城跡ですが、鳥居強右衛門の話等ロマンはたっぷりです。周辺はとてものどかな環境で、休日のハイキングにピッタリです。さて、ドラマではどんな風に描かれるのでしょうか?✨。とても楽しみです🎵宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。色鉛筆高松城(100名城)水手御門-リタイアじーじの徒然絵日記高松城には天守閣はありませんが、瀬戸内海に面して、お掘りに海水を引いており、鯛などが、お掘りを泳いでいます。水手御門です。城主はこの門より小舟に乗って沖の大船に...gooblog岐阜城(100名城)-リタイアじーじの徒然絵日記岐阜市を遥か下に見下ろす岐阜城山...日本100名城長篠城
今回紹介するの城は【三河国】長篠城 であります。 場所は愛知県新城市の山間にあって、当時は遠江、信濃、美濃などの国境にほど近く要衝であったそうです。 そんなことから戦国末期には徳川氏(織田)と
信長の野望VS武田の執念 長篠の戦い決戦場跡に行ってきました
長篠の戦いといえば、歴史の教科書にものっていた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いです。歴史上はじめて火縄銃が使われた戦いとしても有名ですね。 愛知県は観光不毛の地と言われていますが、こういう戦国時代の歴史に関する見どころはそこらかしこにあると思います。私はそれほどでもないですが、歴史好きな人にはたまらない場所だと思います。 4月9日、長篠の戦いの古戦場をゆっくりと歩いてきました。 目次 戦いの発端となった長篠城跡へ 自ら犠牲となった鳥居強右衛門 鳶ケ巣山の戦い いよいよ決戦の舞台 設楽原へ 織田信長の火縄銃隊と馬防柵 今も伝えられる戦いの跡 血に染まった首洗池 死者を葬った信玄塚 設楽原…
今日のお城は 知和城【美濃国】の紹介であります。 場所は岐阜県八百津町の木曽川沿いにあって、そこは支流との合流点の三角形の地形であり二方向をその河川を天然の堀として活用し正面は堀にて防備し
百名城 長篠城(46・愛知県新城市)磔看板の主は地元のヒーロー
奥三河の百名城、長篠城へ。 歴史の有名な舞台は今、入り口から大きな磔看板が出迎えてくれるインパクト大の場所になっています。偉大な地元のヒーローに詳しくなるのも良いのではないでしょうか。 2022年4月更新 お城:長篠城 愛知県新城市HP:国指定史跡長篠城跡の案内:新城市訪問日:2017年1月、2017年8月、2022年1月 概要 訪問記 感想 アクセス 概要 1508年、土豪の菅沼元成が今川氏親の武将として築きました。今川義元の死後、菅沼氏は家康に属しますが、信玄の侵攻により武田氏に属します。 1573年、家康が城を奪還、奥平貞昌を城主に任命しました。この際、大改築されます。 1575年、奥平…
三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道 その2 長篠城から雁峰山へ
長篠設楽原の戦いの直前、奥平信昌を城主とする長篠城に籠城した徳川方を取り囲んだ武田勝頼軍の包囲網を脱出して岡崎城の徳川家康、織田信長に救援を求めた勇者・鳥居強右衛門が辿ったルートは、そのエピソードと同様に諸説が入り乱れています。当ブログでは、長篠城址史跡保存館に展示されている強右衛門の道に基づいて、その1では明見地区周辺の宮崎街道(旧道)を辿りましたが今回のその2では、出発点の長篠城から、脱出成功ののろしを揚げたとされる雁峰山までのルートを辿ってみたいと思います。今回の参考資料は(1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005、(2)「鳥居強右衛門」金子拓2018、(3)2万分の1国土地図明治23年測図などです。※その1は→こちら強右衛門の道Bはその1の道Aが今回の道強衛門の道や同行者の有無など強衛門にまつわる伝...三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道その2長篠城から雁峰山へ
三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道 その3
武田軍に包囲された奥平貞昌(信昌)が籠城する長篠城を鳥居強右衛門が、夜陰に紛れて脱出し岡崎城の織田信長、徳川家康に救援を求めて走った道をその1その2でたどりました。その2では長篠城から「脱出成功!」のノロシを上げたとされる雁峰山までをたどり、今回は雁峰山から奥平氏の拠点だった滝山城のある明見までをたどります。今回の参考資料は(1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会発行2005年(2)長篠城址史跡保存館の展示パネル(3)「郷土強右衛門と金七郎、二人脱出説検証」夏目利美2007です。※強右衛門の道その1は→こちらその2は→こちら強右衛門の道その3では雁峰山(かんぼう山)から明見までの道をたどります奥平貞昌は、武田の手を逃れて作手を退去して明見の地を拠点としていました。長篠城の脱出に成功した強右衛門ですが、作手の野郷(...三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道その3