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静岡浅間神社から5分ほど北に行ったところに瑞龍寺というお寺があります。1560年(永禄3年)、能屋梵藝によって開山され、徳川家康が居城を駿府城に定めた際に寺領が与えられました。天下取りを目指した豊臣秀吉は、家康と同盟関係を築くため、天正1586(14)年、自分の妹である旭姫を、夫の佐治日向守(さじひゅうがのかみ)離縁させ、築山御前の死後、正室を持たなかった家康に嫁がせました。同年、旭姫は、家康と共に浜松城から完成した駿府城に移り、駿河御前と呼ばれました。旭姫は、1588(天正16)年に自分の母である大政所の病気見舞いのために上洛しますが、1590(天正)18年京都・聚楽第で病気のため、48歳で亡くなります。そして、京都の東福寺南明院に葬られ、この後、家康は、東福寺から遺骨を分骨してもらい、瑞龍寺にも旭姫の...瑞龍寺家康の正室・旭姫の墓
駿府城公園から臨済寺へ向かう途中にある若宮八幡宮。こちらもも徳川家康ゆかりの神社として知られています。境内の大楠は、樹齢1000年以上と伝えられています。家康は、鷹狩りの道中に度々ここに立ち寄り、大楠の木陰で休息をとったと伝えられています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング家康ゆかりの大楠のある若宮八幡宮
静岡市葵区の紺屋町に鎮座する小梳神社(おぐしじんじゃ)は、奈良時代以前の由緒をもつ古社です。静岡駅からわずか200m。繁華街の一角にあります。竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府に来たとき、まずはこの神社に立ち寄り、服装を改め武運長久の祈願をしてから、今川義元と対面したと伝えられています。その後、徳川家康が天下を統一し駿府城にとどまるにあたり、代々徳川家の守り神である大己貴命と天照大神の2柱を合祀して、駿府城の守護神として尊崇されてきました。平安時代初期のころから少将井神社とも呼ばれました。小梳神社小梳神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた。建速須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命、天照皇大神宮が祭神である。徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神社を城内...竹千代ゆかりの小梳神社
宝台院は、日露戦争時には、ロシア兵の捕虜収容所となりました。本堂は、旧国宝でしたが、1940年(昭和15年)1月15日の静岡大火で焼失。現在は、モダンな建物となっています。本堂内陣は、天井の高い本堂で、本尊の両脇には徳川家康の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。本尊は白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。若き日の家康像として注目されている家康公の自画像(市・重要文化財)も所蔵しています。(宝台院HPより)かしく坊の辞世唄がうまかった風狂人の辞世の句。宝台院の裏門で死す。その名をかしくといい、摂津大阪生まれの人とあります。法名は「雲水夢覚禅門」。...於愛の方(西郷局)の菩提寺(3)宝台院
また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。 江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。これにより、徳川家による政権は幕を閉じ、以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となりました。徳川慶喜公謹慎之地石碑には、当時の緊迫した状況が記載されています。宝台院と徳川慶喜公明治元年7月、第15代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に...於愛の方(西郷局)の菩提寺(2)宝台院
JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。山号は金米山。寺号は龍泉寺。宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母於愛の方(西郷局)の菩提寺です。西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。寛永5年(1628)、秀忠は母の菩提を弔うため寺を現在の場所(常磐町)に移し、その時に寺号も龍泉寺から宝台院と改称しました。以来、宝台院と呼ばれるようになりました。西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり)-天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃...於愛の方(西郷局)の菩提寺・宝台院(1)
源応尼の墓の隣には徳川家康の五女・市姫の墓があります。市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日)-慶長15年2月12日[1](1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康(市姫は五女)。母は側室のお梶の方(遠山氏)。徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康はかつて、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は幼くして夭折。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去っ...華陽院(2)市姫の墓
静岡市葵区鷹匠の華陽院境内には、徳川家康の祖母・源応尼の墓があります。源応尼の実名は「お富の方」、または「お万の方」といいます。明応元年(1492年)誕生した源応尼は、はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生みました。しかし、岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれています。清康の死後、三河の諸豪族に次々に嫁ぎましたが、夫に先立たれ、駿河国の大名・今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗ります。竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質として駿府に送られると、竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたりました。法名は華陽院。当寺・華陽院は、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたもの。ブログラ...華陽院(1)家康の祖母・源応尼の墓
駿府城公園外堀沿いにある駿府ホリノテラスに「徳川家康公出陣キット」のモニュメントがあります。徳川家康が身に着けた金色の鎧「金陀美具足(きんだみぐそく)」をモチーフにしたものです。大河ドラマ「どうする家康」でも松本潤さんが身に着ける場面がありましたね。このモニュメントは、静岡市で盛んなプラモデル生産に因んだ「静岡市プラモデル化計画」の一環でつくられたもので、「徳川家康公出陣キット」と題し、兜や袖、小手など十一のパーツに分かれています。駿府城公園に行くついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか?😊ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング徳川家康公出陣キット
静岡駅北口駅前広場にある銅像を紹介します。徳川家康にとって駿府は、最長約25年を過ごした地です。今川家の人質として過ごした幼少期と江戸に移るまでの数年間、晩年の大御所時代の3度を駿府城で過ごしました。竹千代像は、家康が8歳から19歳まで今川氏の人質として過ごした幼少期の姿。竹千代像この隣には、今川義元公生誕五百年祭を記念し、令和2年に設置された今川義元の甲冑姿の銅像もあります。今川義元像そして、こちらは、壮年期の家康像です。徳川家康像平成19年度に家康の駿府城入城四百年を記念し、「大御所四百年祭」展開してきた事業の一環として平成21年3月19日、銅像が設置され、像台座の題字は、徳川宗家第十八代当主・徳川恒孝氏によって書かれました。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を支配した頃の壮年期の家康の姿です。この...静岡駅前の竹千代・今川義元・徳川家康の銅像
蓮永寺の墓所には、お万の方の供養塔があります。養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年)-承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万。母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭の娘、あるいは田中泰行の娘(=北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉の娘・姪)ともいい、諸説ある。実父の正木頼忠は上総勝浦城主正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は後北条家家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。伊豆で成長した万は慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室と...静岡の蓮永寺(2)お万の方の供養塔
静岡市葵区の沓谷(くつのや)にある蓮永寺は、文永11年(1274)、日蓮上人の高弟・日持上人によって庵原郡松野村(現在の富士川町)に開創されました。その後、衰退しましたが、徳川家康の側室・お万の方の発願により、元和元年(1615)、駿府城鎮護の寺として現在の沓谷に移し、再興されることになりました。山門仁王門実に広々とした境内です。鐘楼庫裏客殿本堂蓮永寺(貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ)蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあったが、元和元年(1615)、お万の方(の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興されたものである。お万の方は、上総国(千葉県)大滝城主正木左近太夫頼忠の娘で、後に伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり、徳川家康に仕えて2人の男子を産んだ。上の子は、家康の第10子頼...静岡の蓮永寺(1)駿府城鎮護の寺
JR飯田線「新城駅」から徒歩4分のところにある大善寺には、亀姫の墓とされる五輪塔があります。本堂亀姫は、徳川家康との築山御前の長女で、兄は松平信康。奥平信昌の正室。永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)7月、信昌へ嫁いだ(「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』)[3]。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲ける。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)夫・信昌が美濃加納10万石に...大善寺の亀姫の墓
本多忠豊は、徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父にあたります。1544年(天文13年)9月、安祥城は、織田信長の父・織田信秀に支配されました。安祥城を奪還するため、岡崎城の徳川家康の父・松平広忠は、1545年(天文14年)9月、上条西で織田軍と交戦。(第二次安祥合戦)織田軍の援軍によって挟み撃ちにされ、敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍(しんがり)を務めて討死したといわれています。三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬されました。墓碑は、討ち死にしたと考えられる場所に建立されています。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 本多忠豊の墓碑
安祥城の近くの住宅地の中に、本多忠勝の祖父と父の墓碑があります。墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)にあり、戦死地の安城町赤塚にも墓碑が建てられています。まずは、本多忠勝の父・本多忠高の墓碑から紹介します。市指定史跡本多忠高墓碑天文九年(1540)尾張の織田信秀(織田信長の父)が、安城城(安祥城)を奪い取ります。その後、天文十八年(1549)までの約10年間、安城城争奪戦、いわゆる『安城合戦』が繰り返されました。天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)が没しました。同年、今川・松平軍は太原崇孚(たいげんそうふ)雪斎を総大将とし、織田軍が占領する安城城を攻撃しました(第3次安城合戦)。先鋒となった松平軍の主将・本多忠高(本多忠勝の父)は、安城城代・織田信広(信長の兄)に追い迫りましたが、城の...本多忠高の墓碑
大乗寺から筒井泉跡へ。筒井とは、安城城周辺の七つ井(筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、梅ノ井、風呂井)の一つです。筒井は、中でも名井であったと言われ、安城城の城主がこの水を茶の湯に使ったとされています。1549年(天文18年)に竹千代(後の徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎へ戻る際、筒井の水を飲み、この水を大変気に入ったので、竹筒に入れて持ち帰ったことが「筒井」の名の由来と言われています。市指定史跡筒井泉跡昭和43年4月1日指定安城城周辺の台地の縁から水が湧き出す地があり、そのうち筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、梅ノ井、風呂井の七カ所は「七ツ井」と呼ばれてきました。天文18年(1549)、竹千代(のちの徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎への帰途、筒井の水を飲んだと伝わります。その際、この水を...竹千代ゆかりの井戸「筒井泉跡」
安祥城の城跡は、現在安祥城址公園として整備され、本丸跡には大乗寺があります。安祥山了雲院大乗寺は、延徳元年、安祥城主・松平親忠が勢誉愚底上人を開山として創建されました。安祥合戦と享保の火災で荒廃しましたが、安祥城址に移転再建後は城跡のお寺として知られています。市指定史跡安祥城址昭和36年10月1日指定安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一説には、室町時代の永享年間(1429~1441)、志貴荘の地頭和田親平によるともいわれます。江戸時代に記された「三河物語」には、岩津城(岡崎市)を本拠としていた松平信光が、文明8年(1476)ころに安城城を奪い取ったとの記述があります。このとき信光は、きらびやかに仕立てた踊りを安城の「西野」で行い、城内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされます。...安祥城(2)大乗寺
愛知県安城市の安祥城(あんじょうじょう)は、永享12年(1440)、畠山一族の和田親平が築城したといわれ、別名を森城といい、天守を持たない平山城でした。文明年間、松平信光が本拠地として以来、岡崎に移るまで徳川四代の居城となりました。現在城跡は安祥城址公園として整備され、本丸跡に大乗寺、二の丸跡に八幡社、周囲に堀や土塁などが残っています。愛知県安城市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。三河国碧海郡(あおみのこおり)周辺(現愛知県碧海(へきかい)郡)を支配していた和田親平が1440年(永享12)に築城したとされる。その後、1471年(文明3)に、岩津城(岡崎市)の松平信光(のぶみつ)が謀略を用いて無血落城させ、以後4代にわたって松平氏の居城となった。この4代を安祥松平氏という。安祥松平氏4代の松平清康(きよ...安祥城(1)
焼津駅の北にある大井神社は、永禄三年(1560)創立と伝わる神社で、左口、白髭、稲荷の三社が合祀されています。徳川家康が鷹狩りをした際、立ち寄ったといわれています。焼津駅から歩いても3分ほどのところにあります。これで焼津の家康ゆかりの史跡めぐりを終え、駅近くの「黒潮」にて食事をしました。ランチの刺身御膳を注文したら、お刺身は舟盛り出てきました。これで、税込み2,000円だったと思います。焼津港で採れた新鮮な海鮮料理が評判だけあって美味しかったですよ~~ランチタイムの終わり頃に入店したので、スムーズに入れてラッキーでした。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 焼津市の徳川家康ゆかりの地(6)大井神社
静岡県焼津市の石脇浅間神社前に、注連縄をしてある大きな石が二つあります。徳川家康が、この石に旗を立てたことから、旗掛石と呼ばれています。(家康の時代より、もっと昔から有名であったとも)石脇の原川新三郎は、天正9年(1581)の頃から家康に従って親交を深めたとされ、天正10年(1582)、家康が武田軍のいる花沢城や田中城を攻めた際、新三郎の家を本陣とし、この旗掛石の神に戦勝利を祈願しました。二年後の戦いでは、家康は新三郎に対して、村の15歳から60歳までの男子一人残らず集めるように命じ、集まった人は千人ほどだったといいます。その後、天下を統一した家康は、二代将軍に職を譲り、駿府に住みました。そして、しばしば原川家を訪れ、原川家の門前の大きな石に旗を立てて、その力を示したといいます。また、家康が馬を繋いでおい...焼津市の徳川家康ゆかりの地(5)家康が戦勝祈願した旗掛石
焼津駅から徒歩5分ほどのところに、徳川家康の伝説が残る罪切地蔵尊があります。武田軍との合戦で敗走中の家康が焼津北村(現・栄町)の僧に救われ、後に駿府に隠居して鷹狩りを行った際、草庵に立ち寄り、かつての御礼として名剣を授けるとともに阿弥陀寺を建立しました。その地に現在建っているのが罪切地蔵尊で、罪を断ち切り幸運を招くという御利益があるとして、今でも人々の信仰を集めています。毎月24日にの午前8時から午後3時まで縁日が開かれ、9月23日には例大祭「ごりやく祭り」が行われます。天正9年(1581年)徳川家康が、当地で武田勢と一戦を交え敗走し、当地焼津北村の草庵僧に救われた。その後、家康は天下を制定し、3年後に駿府へ居を構えた。家康はたびたび高草山で鷹狩りをした際、その一命を救ってくれた草庵に立ち寄り、報恩を以っ...焼津市の徳川家康ゆかりの地(4)罪切地蔵尊
教念寺から海蔵寺へ。海蔵寺は創建当時は「宝城山安養寺」と言う天台宗の霊場でした。海蔵寺八世呑龍上人の記した「金玉院海蔵寺地蔵尊縁起」によると、後白河天皇の勅願所であり、平安時代末期には国家安康を祈るための、国から指定された祈祷寺院だったそうです。嘉元三年(1305年)、時宗を開いた一遍上人の弟子である二祖の真教上人に感化された安養寺の観海律師は、真教上人の弟子となり、天台宗だった安養寺を時宗に改宗しました。「小川のお地蔵さん」とも呼ばれ、水難除けのお地蔵さんとしても親しまれてきました。明応九年(1500年)、夏のことです。城之腰村の漁師、吉平さんが網を引きあげようとすると、1メートルほどもある木のお地蔵さんが網にかかっていました。びっくりした吉平さんは、急いで引きあげると、小さな仮のお堂を建てて、お地蔵さ...焼津市の徳川家康ゆかりの地(3)海蔵寺
焼津神社から教念寺へ。こちらにも小泉八雲が散歩でよく訪れたそうで、「小泉八雲ゆかりの地」の案内板がありました。母(二十八代忍晃の妻)が嫁にきて間もなくの頃、裏の畑で仕事をしている処へ乙吉が垣根越しに面を出して、「おばさん、八雲先生が来たので、泉水(池)の鯉を見せてくりよや」といった。「ああええともサ」と返事すると、乙吉のほうがむしろ背の高い、目の大きい外人さんが入って来てニコニコ笑って頭を下げた。そして、池の鯉を見たり、本堂の屋根から上に枝を覗かせている大松を眺めて「大変いい景色」と何度もほめていた。母が渋茶を汲んで出すと喜んですする様に飲んだ。茶碗を持つ手も型にはまっていて、この外人さんはきっと偉い人に違いないと思った。(北山宏明著『小泉八雲と焼津』より)江戸時代、徳川家康拝領の品が伝わっているそうです...焼津市の徳川家康ゆかりの地(2)教念寺
静岡県焼津市に鎮座する焼津神社の創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられています。日本武尊を焼津の守神としてお祀りをしたのが焼津神社のはじまりです。焼津神社付近では、古墳時代の集落跡という1,600年程昔の宮之腰遺跡が存在し、古くから人々が居住したことが知られています。室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や漁業関係者から崇められています。現在の本殿は慶長8年(1603年)、徳川家康によって建てられたものです。家康は田中城を出て焼津の浜から出港し、久能山で鷹狩に勤しん...焼津市の徳川家康ゆかりの地(1)焼津神社
里宮拝殿砥鹿神社は、本宮山に1300年以上前から鎮まる神を祀る奥宮と、里にて祀る里宮とで二所一体の崇敬を集める神社であり、また三河国内の筆頭神社一之宮です。里宮の社殿は伝統的木造建築の檜造りです。さざれ石開運石(かいうんせき)、子産石(こうみいし)とも云い、開運や安産、子授けのご利益がございます。全国にあるさざれ石の中でもとても大きく、高さ2.6m、横幅3.4mの日本一のさざれ石になります。ケヤキ手水舎表神門正面にある拝殿に繋がる表神門太鼓楼津守神社(つもりじんじゃ)祭神:田裳見宿彌(たもみのすくね)※10月第2日曜に例祭を斎行。同日氏子秋祭りが本社で斎行され、当社まで子供御輿が巡幸する。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング砥鹿神社里宮(2)
JR飯田線「三河一宮」駅下車、徒歩約5分のところにある三河国一之宮砥鹿神社(とがじんじゃ)の歴史は1300年を遡り、古くから朝廷の崇敬篤く、平安時代には「延喜式内社」に列せられ、三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となりました。 西参道大鳥居以前は本宮山砥鹿神社奥宮を遙拝するものとして、天保13年(西暦1842年)岡崎藩勘定奉行の長尾応二郎興達により旧宝飯郡市田村に建立されました。昭和20年(1945年)豊川海軍工廠への空襲時に損傷を受け、昭和31年(1956年)に国道151号線沿いに移築されました。鳥居には至る所に空爆の被弾痕が見られます。 本宮山の山頂に奥宮(豊川市上長山町本宮下)、山麓に里宮(豊川市一宮町西垣内)が鎮座しています。永禄年間には、付近に徳川家康の命を受けた本多信俊が一...砥鹿神社里宮(1)
念仏堂跡天文22年(1553年)の建立で、国の重要文化財に指定されていましたが、1994年に焼失。大恩寺念仏堂歴史天文22年(1553)牧野保成造立元禄10年(1697)移築大改修大正10十年(1921)国宝指定昭和25年(1950)国重文指定昭和28年(1953)解体復原平成6年(1994)焼失説明浄土宗御津山大恩寺は松平親忠の中興で徳川家、牛久保牧野家、為当竹本家、大塚岩瀬家等の崇敬が続いた。念仏堂の構造は桁行五間、梁間五間、一重入母屋造、檜皮葺で一間の逗子があった。特に内陣の厨子、須弥壇の形式彫刻等に見るべきものが多く、天井、長押等の絵画も見事で室町時代の秀作と言われた。平成八年八月御津山大恩寺本殿に向かって左手の道を墓地に向かう途中、牧野家、清廉夫婦、広忠、亀姫の墓があります。牧野家のお墓松平清康...徳川家康ゆかりの大恩寺(2)
JR東海道本線「愛知御津駅」下車徒歩約15分のところにある大恩寺。豊川市観光協会HPによると、徳川家康が、何度も訪れたことがある場所と知って、昨年訪ねてみました。当時の住職、成誉上人(じょうよしょうにん)は家康の叔父に当たり、家康はその叔父に会いに訪れていたそうです。大恩寺の創建については、推古天皇の時代(593~628)、三論宗の布教のために高句麗から訪れていた僧の恵灌(えかん)が、御津山の約2㌔北東に位置する新宮山に「浄光院」を建立したのが始まりとされています。それから約700年後の1444年、浄土宗を広めるためにこの地を訪れた茨城県の「弘経寺」(ぐぎょうじ)の僧侶、了暁(りょうぎょう)が、当時荒れ果ててしまっていた寺を再興。浄土宗大運寺を開きました。1490年、寺は松平家(のちの徳川家)の4代・松平...徳川家康ゆかりの大恩寺(1)
八百富神社と徳川家との関係は深く、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前には徳川家康が参拝し、その後朱印4石8斗を寄進したといわれています。また、家康が会津の上杉征伐に向かう途中、船で竹島に着き、郷土である内田弥右衛門義隆が蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があり、その際縁起が良いと喜んだそうです。八百富神社八安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成によって創建されたと伝えられています。ご祭神は天照大神が剣を折って霧を出した時に現われたと言われている市杵島姫命で、開運・安産・縁結の神として知られ、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。八大龍神社/祭神豊玉彦命藤原俊成の夢に、「永く竹島に遷りて諸人に幸福を与えん」(竹島に長く留まり、全ての人々に幸福を与えなさい)という宣託があり、...蒲郡の竹島八百富神社(2)
多度大社の境内を進んで行きます。白馬舎古くから伝わる白馬伝説に因んだ白馬が納められています。こちらは本物の馬ではありません。馬は非常に歯の丈夫な動物と言うことで、これにあやかった『歯ぎしり除けの豆』が頒布されていいす。招魂社 西南の役以降の国内外の出征、戦歿された桑名郡市・員弁郡市・四日市市・三重郡・岐阜県下出身の御英霊を奉斎。美御前社於葺門(おぶきもん)この門を境にして本殿の神域に入ります。末社...
桑名市多度町に鎮座する多度大社。社伝では、雄略天皇の御代の創建と伝わっています。1571年(元亀2年)、織田信長の長島一向一揆平定の際、命を受けた大垣城主氏家卜全により、多度大社の本宮並びに摂末社、神宝、古記録、多度大社の神宮寺であった宝雲寺の七十余りに及ぶである堂塔伽藍が焼失、その後1605年(慶長10年)に桑名藩主・本多忠勝により再建されました。御例祭は、一般的には多度祭と称され、おり上げ馬神事や流鏑馬...
「江〜姫たちの戦国〜」が放映された2011年「お江の眠る寺」として、増上寺の徳川墓所の公開に出かけて来ました。徳川墓所は、法要など年7回の無料公開などに限り、一般には非公開としていましたが、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映にあたり人々の関心に考慮したものだそうです。通年で一般公開するのは初めてのことなのだそう。この年の大河の主役・お江のお墓があるということで、この日も朝から大勢の人が詰めかけてい...
前回、見学できなかった滝山寺の宝物館にやっと入れました!そもそもこの滝山寺に行ったのは、宝物殿に安置されている寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像像を見たかったから。これらの像は、鎌倉時代の運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。像を作らせたのは、源頼朝の従兄弟にあたる当山住職・寛伝。頼朝の追善供養のために境内に惣持禅院を建立し、その本尊と脇侍として祀られていたといいます。...
滝山寺本堂の北側に「日吉山王社本殿」があります。七間社流造、桟瓦葺(元檜皮葺)1608年に徳川家康が建てたと伝えられています。内陣の造りが七間社以上の流造にみられる連結方式ではなく、身舎を横長一室の内陣として奥に簡素な祭壇を設けている点が特徴。2006年(平成18年)12月21日、岡崎市指定文化財に指定されました。老朽化により、2019年(平成31年)4月から修復工事が行われ、2021年(令和3年)3月、薄い板を重ねた「こ...
滝山寺境内の滝山東照宮は、三代将軍・徳川家光の命により勧進されたものであり、日光、久能山とともに、東照宮三宮とされています。正保元年(1644年)、徳川家光は徳川家康が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を観請したいと考え、酒井忠勝、松平正綱らに命じてその場所の選定を行わせたところ、家康もよく訪れていた滝山寺に観請するのが良いということになり、正保3年(1646年)9月17日に創建されました。創建以来、滝山寺が別当...
あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。2024年も皆様にとって明るく希望に溢れる1年となりますようにお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。岡崎の滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家...
桑名の旅編が続いていますが、今年最後の記事は、徳川家康ゆかりの浜松の記事をお届けします。浜松市天竜区山東にある光明山光明寺は、奈良時代の養老元年(717年)に行基により開創された遠州地方の名刹です。元々光明山にありましたが、昭和6年(1931)の火災で焼失し、現在地に移されました。光明山は、標高540mで秋葉山とともに古代から山岳霊場として知られ、秋葉の火の神に対して、水の神として信仰を集めていました。大黒堂には...
桑名の専正寺があるあたり一帯は江戸初期には漁村で、蛤の貝殻で厚く地面は覆われていました。文政年間、この地の住人谷氏がこれら無尽蔵の貝殻を見て、蛤に対する感謝と供養のため蛤の墓「蛤墳」が建てられたと伝えられています。蛤の墓「蛤墳」(こうふん) 昔このあたりは漁村で、付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたので、 文政6年(1823)に今一色に住んでいた谷氏が蛤の供養のために、この碑を正念寺(現在専正寺)に建...
桑名城跡を出て、桑名駅方面へ歩いて約10分の場所にある浄土寺は、本多忠勝の本廟がある寺で、桑名藩主本多家の菩提寺となっています。 当寺は、永承4(1049)年海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりと言われています。 慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となり、藩主本多忠勝が没した時に、当寺に葬られ、本多忠勝本廟となりました。「慶長の町割り」とは、忠勝が、慶長6年(1601)桑名に封ぜられてか...
この後、九華公園の周辺の桑名城の遺構を散策しました。立教小学校 藩校「立教館」の流れをくむ小学校。歴史を語る公園南大手橋江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園で、道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。日本橋三条大橋ここから桑名城三の丸の城壁が見られます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ...
関ヶ原の戦いの後、桑名藩主となった本多忠勝は、4年がかりの大規模な区画整理「慶長の町割」を行いました。それまで水害に悩まされた土地を埋め立て、川の流れを大きく変えて外郭堀に利用。4層の天守閣や多くの櫓を備えた城を建て、武家と町人、さらに業種ごとに城下町の居住区を分割。港町・城下町・東海道の宿場町として、桑名の町の基盤を作りました。桑名城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華...
桑名の総鎮守社である桑名宗社には、幾つかの名称がありますが、通称を春日神社と言います。東海道筋の大きな鳥居は、もとは本多忠勝が慶長7年に木造で作ったものでしたが、大風で倒壊し、寛文7年(1667)、桑名城主 松平定重により、青銅の鳥居に建て替えられました。桑名宗社は、桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社からなり、ともに延喜式神名帳の伊勢国桑名郡に記載されている式内社です。織田信長、徳川家...
桑名駅から徒歩15分ほどのところに鎮座する住吉神社は、揖斐川に面して建てられています。神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する商業都市として発達し、住吉浦は廻船の舟溜りでした。住吉神社は、廻船業者が航海の安全を祈り、正徳五年(1715年)住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉)の分霊...
本多忠勝ゆかりの地を巡る桑名の旅をしてきました。観光案内所でレンタサイクルを借り、桑名の旅がスタート!三の丸堀に架かる舟入橋ここから桑名城の石垣跡を見ることができます。柿安コミュニティパークは、桑名城の三の丸跡に造られた芝生広場です。桑名城三之丸御殿(新城)及び桑名紡績工場跡慶長6年(1601)、本多忠勝が桑名城主となり、城下町割りと共に、本格的な城の建設を行った。本丸の北には新城(三之丸)と呼ば...
本多忠勝は、天文17(1548)年、安祥松平家(徳川本家)の最古参の譜代である安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河の西蔵前城に生まれました。天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育ちました。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣、このとき、同時に元服しました。三河一向一揆、姉川の戦、三方ケ原の戦、長篠の戦、高天神の...
西焼津から800mほどのところにある小土神社(こひじじんじゃ)は、徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄り、満水の大井川を渡るために祈願したそうです。小土神社から900mほどのところにある旭傳院には、田中城にあった門が、移築されて旭傳院の山門になっています。こじんまりとしていますが、歴史を感じる門です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキン...
本丸櫓を出て、田中城下屋敷の敷地内をまわります。長楽寺村郷蔵郷蔵(ごうぐら)とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には村ごとに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷きの小部屋に2人1組で泊まり込み、夜番をしました。 長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切り取り移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであった...
徳川家康が鯛の天ぷらを食べたと伝わる藤枝の田中城の歴史は、今から500年ほど前この地の士族一色氏がその居館を拡大したのに始まるといわれています。田中城の東南隅にあった藩主の別荘庭園である田中城下屋敷には、田中城ゆかりの建物(田中城本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、長楽寺村郷蔵)が移築・復元されています。草むらの中に発見!なかなkシュールな「まつだいらたけちよくん」(^0^;)本丸櫓晩年の徳川家康は、鷹狩りと称して、...
上野東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀っています。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の徳川家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と天海に遺言し、寛永4年(1627年)、上野の高虎の敷地内に創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。現在の社殿は慶安4年(1651年)徳川家光が改築したもの...