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武田攻めを終えた織田信長は安土城へ向かう途中、富士山などの名所を見物しながら、駿河に寄りました。徳川家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し、本栖湖の近くに宿所を建て、信長を迎えました。(これは、数年前、私が本栖湖の芝桜を見に出かけた時の画像です。 もちろん信長の見た景色とは大きく異なります(^^ゞ)富士山本宮浅間大社の境内に仮の宿泊所を建て、わずか一泊のために、家康は金銀をちりばめた豪...
武田勝頼ゆかりの韮崎市と甲州市を訪ねる予定が、「武田氏滅亡」が描かれる回に間に合わなかっため、今回は「韮崎市観光協会」と「甲州市観光協会」から画像をお借りしました。●韮崎市長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫し、高天神城が陥落したことで、武田氏の威信は急落。領国の立て直しを決断した武田勝頼は、府中移転を計画し、天正9年(1581)、現在の山梨県韮崎市の七里岩の台地に新府城を築城。新府城跡写真...
JR清水駅から徒歩10分、静岡県清水区江尻の江浄寺は、東海道五十三次、江尻宿の中心に位置する古刹です。永正元年(1509)、浄土宗大本山 光明寺(鎌倉市)の第九世 長蓮社観譽祐崇(ちょうれんじゃ かんよ ゆうそう)上人が開山で、当時は旧東海道沿い(清水区秋吉町付近)に創建されました。その後、徳川幕府の東海道整備に伴い、慶安四年(1651)現在の地へ移転しました。境内には、松平信康の遺髪を納めた五輪塔があります。江...
東京都新宿区若葉二丁目の西念寺は、服部半蔵正成が開基した寺として知られています。徳川氏が江戸に入封して間もない文禄3年(1594)に、正成が江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まります。正成は、松平信康の慰霊のために出家入道して西念と号し、安養院に供養塔を建て、遠州以来奉持していた信康の遺髪を埋めてその菩提を弔いつつ余生を過ごしました。そ...
岡崎市若宮町にある根石寺(旧根石観音堂)を訪ねました。現在、信康の首塚がある若宮八幡宮の境内にあった根石原観音は、明治維新の神仏分離によって、若宮八幡宮の北側に移転し、現在は根石寺となっています。根石原観音の由緒について、「おかまいり」のHPによると、和銅元年(708)に悪病が流行したことから、43代元明天皇が悪疫を絶やすよう行基法師に祈祷を依頼すると、行基は自ら六体の観音菩薩を彫り、そのうちの二体を根石...
松平信康は、堀江城からさらに遠江国豊田郡二俣(現在の浜松市天竜区二俣町二俣)二俣城に移されました。二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地で、、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。また、信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られています。この急な階段を上っていきます。当時、武田軍が急な坂道で手こずったというのがうなづけます。まだまだ続く階段(..;...
天正7年(1579)8月9日、小姓5人を付き添わせ、松平信康は、大浜から遠江の浜名湖半にある堀江城へと移っていきました。その翌日、徳川家康は、三河衆から信康に内通しないことを誓約する起請文を提出させたといいます。13日、家康は浜松城に帰還し、岡崎城には本多重次を派遣して城代に据えました。堀江城は、鎌倉時代、藤原氏の血を引く大沢基久が築城したと伝えられています。 戦国時代も大沢氏が城主を務めますが、今川氏の勢力...
岡崎市両町にある祐伝寺を訪ねました。祐伝寺の由緒根石山と号し真宗高田派。もと妙源寺末。本尊阿弥陀如来。天正7年(1579)柴田新四郎正親が投町に創建。正親の次男六郎は遊伝坊了慶と称して一寺を建てた。後家康が神明宮別当を命じたという(コトバンクより)築山殿の首は、織田信長に送られ、首実検にかけられた後、岡崎城代であった石川数正がその首を持ち帰り、祐伝寺に葬ったといいます。江戸時代になると八柱神社(やはしら...
浜松市南区高塚にある護法山地蔵院は明徳元年(1390)に元道円密和尚により創建されました。元道円密和尚は、後醍醐天皇の子 宗良親王と共に遠州に入った公家出身の武士であり、親王が元中二年(1385)に亡くなると出家して当地高塚に庵を結んだとされています。本堂約250年前に建立されました当時は茅葺きでしたが大正時代に瓦に葺き替えられたそうです。ご本尊は延命地蔵菩薩位牌堂には築山御前ゆかりの腹籠り地蔵も祀られてい...
岡崎で息子の松平信康夫婦と暮らしていた築山殿は、信康の妻・徳姫が二人の姫を産んでもいまだ男児を産まないことを気にかけ、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山御前と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か...
松平信康が大浜へ追放された後、天正7年(1579)、8月5日、徳川家康は、松平信忠らの軍勢を率いて、吉良西尾城に赴きました。西尾城周辺には大きな河川があり、下流の湿地帯には野鳥が多く生息し、この地で織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、吉良荘(きらのしょう)で鷹狩りを楽しんだという記録が残っています。(西尾歴史散策MAPより)特に家康は、その生涯で1000回以上も鷹狩りを楽しんだそうで、この年表を見ても、信康事件の...
1579年8月4日、松平信康は、岡崎城から三河大浜城に移されました。そんな信康の軌跡を追って、愛知県碧南市大浜を訪ねました。碧南市には、三英傑のゆかりの地があり、各所にこの幟がはためいています。この地区は、古くから海運の町として栄え、多くの寺社が建てられました。特に大浜てらまち地区は、南北1.2kmほどの狭い地区に、宗派を異にする10軒のお寺があります。「竹千代」命名の寺「称名寺」は、暦応2年(1339)に新田氏一...
松平信康は、永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で誕生。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移りました。元亀1年(1570)、家康が遠江に進出し、引馬(浜松)を居城とする際、三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称しました。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家康を助けたといいます。天正3年(1...
西の丸に向かって進んで行きます。的場曲輪跡弓矢などの練習をしていた場所と言われています。鐘曲輪兵が攻めてきたことを知らせるために、ここで鐘や太鼓で知らせたといいます。かな井戸 井戸曲輪跡西峰と東峰を分ける曲輪で、籠城には欠かせない井戸がありました。尾白稲荷高天神城合戦将士英魂之碑高天神社西の丸跡この西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。神社の奥に向かって...
高天神城の三の丸から本丸へ元天神社現在、西の丸にある高天神社は、元々はこの場所にあり、「高天神城」という由来となったそうです。御前曲輪跡城主・小笠原長忠と奥方の顔出しパネルここに、昭和に入ってから建てられた2層の模擬天守がありましたが、落雷で焼失したそうです。本丸跡高天神城の東峰の最高所に位置するのが本丸です。西側には土塁が作られているものの、東側は絶壁と評するにふさわしい急斜面となっており、人の...
掛川市の高天神城は、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた東海一の堅塁を誇った標高132メートルの山城です。眼下には、下小笠川など中小の河川が流れ、天然の堀を成し、尾根は三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害で、「難攻不落の名城」と呼ばれていました。高天神城の築城は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承がありますが、室町時代、...
岡崎の築山に居を構えていたことから、築山殿と呼ばれたという瀬名。その築山というのは、どの辺りにあったのか岡崎を再度訪ねてみました。築山があったのは、総持尼寺(そうじにじ)というお寺で、そこに築山があり、「築山殿」と呼ばれるようになったという説があります。岡崎天満宮の由緒に、総持尼寺の創建について書かれています。「今から約800年前のことです。人皇第84代順徳天皇の時代、建保2年(西暦1214年)秋...
浜松城から歩くこと10分。五社神社・諏訪神社があります。五社神社は、徳川家康によって、2代将軍・徳川秀忠誕生の際に産土神(うぶすながみ)として、浜松城内から現在地に遷されました。家康は、その後も子供たちのお宮参りや、自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。また諏訪神社は、3代将軍・徳川家光によって、現在地に遷され、昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社...
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の於愛(西郷局)。於愛は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正1...
高月院へと続く道沿いには、白壁が続いています。1367年、見誉寛立(俗名:足助重政)が松平郷主・在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立したと言われています。1377年、松平親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となっています。その後、徳川家康によって寺領100石が与えられ、明治維新まで時の将軍家から厚い保護を受けていました。 総門参道山門山門や本堂は、1641年...
松平東照宮前の歩道脇に、一本の「笠掛けかえで」の木があります。このかえでは、その昔、やがてこの地の当主となる「徳阿弥(とくあみ)」が高月院を訪ねてこの地を訪れ、このかえでの木に笠を掛けてひと休みしていました。そこへ当時の当主在原家の次女「水姫(すいひめ)」が、井戸の水を汲み、アヤメの花を一輪添えて徳阿弥に差し出したのが二人の出会いでした。やがて二人は結ばれ、徳阿弥陀はこの地の初代松平家当主「松平親...
今年の4月、松平郷を訪ねました。愛知県豊田市松平町の松平郷は、松平氏・徳川氏の発祥地で、一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されています。松平発祥の地松平東照宮に現存する水濠や石垣は、松平太郎左衛門家九代尚栄によって関ケ原の合戦のあと築かれました。はじめは、八幡宮と称して松平家の屋敷神でしたが、元和5年(1619)家康を合祀し、昭和40年(1965)親氏公を合祀しました。 松平太郎左衛門家は、...
刈谷の本刈谷神社は大宝年間(西暦701~704年)に創建された八幡宮を起源としています。八幡社は字天神に鎮座、大宝年間(701~703)の創建で、天文2年(1533年)に水野忠政が刈谷城を築城した際、八幡社は城の北側の台地に奉遷され、明治初期の廃藩置県とともに元の地に奉遷されました。大正2年に八幡宮・八雲社・北野社の三社が合祀されました。水野 忠政(みずの ただまさ)水野家当主。通称は藤七郎、右衛門大夫、下野守。緒川城お...
応永10年(1403)、浜松普済寺の利山義總(りざんぎそう)禅師が現在の刈谷市元町に海会寺(かいえいじ)を開きました。海会寺には、禅師の徳を慕って修行者や信徒が多く集まるようになり、境内が手狭になったので、応永20年(1413)に現在の刈谷市天王町に楞厳寺(りょうごんじ)を建てました。水野家はこの寺に帰信し、水野家の菩提寺となっています。徳川家康の生母於大の方は、岡崎の松平氏に嫁いで竹千代(後の徳川家康)を生...
緒川城は水野貞守が文明年間(1469年~1486年)に築城したと伝えられ、忠政や信元ら水野氏の居城になりました。緒川の比高8メートルの台地に築かれ、絵図によれば主郭は東西83メートル、南北95メートルの平城でした。現在は主郭の北東部の土塁の一部が残され、古城公園となっています。水野忠政の娘で、徳川家康の生母於大の方(伝通院)が生まれた所でもあり、城址内には於大の方出生地の碑が立っています。伝通院於大出生地の碑...
乾坤院から於大公園へ。徳川家康の生母である於大の方が、東浦町の緒川城主・水野忠正の娘として生まれ、その水野家の菩提寺である乾坤院に隣接することから於大公園と名付けられたそうです。ここに、於大の方の一生を解説する案内板がありました。於大公園東の林の中に、緒川城主の墓があります。緒川城主三代の墓緒川城主初代・水野貞守(中央)、二代賢正(向かって左)、三代清忠(向かって右)文明7年(1475)頃、水野貞守が...
乾坤院 (けんこんいん)は、室町時代、文明7年(1475)、緒川城初代城主・水野貞守によって水野家の菩提寺として建立されました。徳川家康の生母・於大の方(伝通院)が四代・水野忠政の娘であり、乾坤院でも供養されている事から、江戸時代には尾張徳川家の庇護を受けました。乾坤とは、八卦で言う所の西北と南西の方位を表し、緒川城から見て西方(乾と坤の間)に造られた事からその名が付けられたと伝えられています。また、乾坤が「...
5月下旬、於大の方の生誕地・東浦町をまわっててきました。JR武豊線「緒川駅」から徒歩約15分、うのはな館(東浦町郷土資料館)からスタートです。於大の企画展が開催されていました。於大の方は、徳川家康の母として、水野家と松平家を支え戦国時代を生きた女性です。於大の方の像於大は、享禄元年(1528)、東浦の緒川城四代目城主・水野忠政と華陽院於富の方の娘として生まれました。水野忠政像徳川家康像忠政は、今川方の岡崎...
では、小山城へと進んで行きましょう。能満寺から左手に進むと、「男坂」と呼ばれる急階段と、「女坂」と呼ばれる緩やかな階段に分かれます。男坂男坂があまりにも急なため、後に女坂の階段がつくられたそうです。女坂男坂の方が近道に見えましたが、手すりがなく危険そうなので、女坂を選びました(^^ゞ小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされています。信玄の病死後には、子の武田勝頼が跡を継ぎ、東海道...
小山城(こやまじょう)は遠江国、現在の静岡県榛原郡吉田町にかつてあった城です。現在、能満寺山公園となっている場所は、かつて武田氏の平山城が築かれていました。永禄11年(1568)、武田信玄は遠江をおさえる第一歩として、この地に砦を築き、その後、元亀2年(1571)、城郭を備えて新たな名前を付けたのが小山城です。 城をめぐって、徳川家康との戦いが、何度もこの地で繰りかえされました。能満寺山公園の駐車場から能満寺の...
徳川家康の物見塚徳川家康は、戦況を見極めるために武田軍が一望出来る八剣山の物見塚で指揮を取りました。物見塚から約250mほどのところには、家康の本陣跡があります。徳川家康本陣跡(八剱神社)天正3年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため、徳川家康が本陣をおいて武田軍を迎え撃った場所です。天正3年5月1日、武田勝頼軍は長篠城に攻撃を開始しました。5月15日に、長篠城の落城寸前の知らせを受けた徳川家康...
設楽原の戦いで、決戦の地となったところを巡ります。丸山砦丸山は、はじめ織田軍の佐久間信盛が陣を敷きましたが、後に武田軍の馬場美濃守がこれを攻め占拠しました。(奥三河観光ナビより)設楽原古戦場いろはかるた「さ」「佐久間と馬場 丸山とりでの 攻防戦」 矢立て硯矢立硯は青みがかった小さな硯で、上州(群馬県)の沼田地方特有のものです。主に武士たちが陣中において使い、時には歌や句の詠草や手紙をしたためたりしまし...
土屋昌次の墓土屋昌次は、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。長篠の戦いで、信長自らの出陣を知って、信玄時代からの重鎮たち、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと共に撤退を進言したと言われているが、武田勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。戦が始まると、真田信綱、真田昌幸と共に右翼の天神山に陣を敷いた。織田勢の三重柵の二...
次は、設楽原の戦いの舞台となった地へ向かいました。長篠城を巡る激しい攻防がきっかけとなり、やがて、設楽原を舞台とした決戦に至ります。設楽原歴史資料館資料館の前にある像は、彼は新城の東郷一帯を治めていた旗本設楽家の出身で、幕末の日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬忠震の像です。岩瀬忠震(いわせただなり)江戸時代末期の外国奉行。肥後守。幕臣設楽 (しだら) 貞丈の3男。岩瀬家の養子となる。ペリー来航の頃,...
長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、薬師如来を本尊とする曹洞宗の名刹です。寺の裏手にある医王寺山(標高120メートル)は、天正3(1575)年の長篠の戦いの時、武田勝頼が本陣を置いたところです。本堂の前には「武田勝頼本陣跡」の碑が建っています。「武田勝頼本陣跡」の碑山縣三郎兵衛息継ぎの井戸弁財天 蓮池また、山門の前には長篠の戦いにまつわる「片葉の葦」伝説の弥陀池があります。長篠の決戦前夜、勝頼の枕元に...
長篠城跡の北端に接した大通寺のあたりは武田信豊、馬場信房、小山田昌行らの陣地があった所です。盃井戸武田の宿将馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋正次らは、武田軍が設楽原へ進撃する前夜、寺の裏山から湧き出る清水で別れの水盃を交わしたといわれています。城藪稲荷平成18年(2006)、本丸から大通寺に移転。長篠の合戦の後に長篠城は廃城となり、この稲荷だけが残され、祀る人がいなくなった。このことを知ったおとら狐は怒...
どうする家康見ました。小生にとって一番良かったのは、長篠城がCGで再現されていたことです。川の合流点が詳細に再現され城の再現も然もありなんと言う感じでした。ここは、城があった所で正面に合流点があります。また、今回は鳥居強右衛門の話があり良かったです。鳥居強右衛門が磔にされた場所に建っていました。正面に川があり、対岸が城跡になります。城廻はロマンがあって楽しいです。宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。日本100名城長篠城-リタイアじーじの徒然絵日記どうする家康いよいよ長篠の戦いが始まるようです。歴史的に有名で日本100名城の長篠城は、ずーと行きたかった城です。昨年行って来ました。現在は何もない城跡ですが、鳥居...gooblog大阪城のお堀日本100名城-リタイアじーじの徒然絵日記...どうする家康長篠城
長篠・設楽原の戦い(4)鳥居強右衛門呼びかけの所~馬場美濃守信房の墓
今回は、Googleマップに表示された史跡と長篠城址周辺マップを合わせてまわってみました。二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡長篠城址史跡保存館のすぐそばにある二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡の碑。ここには、三つの碑が立てられています。当時は、この辺りに食糧庫があったということですね。鳥居強右衛門が泳いで脱出する時には、食糧庫まで武田軍が攻めてきていたといいます。家老屋敷跡鳥居強右衛門呼びかけの所鳥居強右衛門が長篠城の向け...
長篠・設楽原の戦い(3)戦国版「走れメロス」鳥居強右衛門磔の場と墓
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、三河の徳川家康方の奥平貞昌(後の奥平信昌)の家臣で、貞昌が長篠城に入ったのに従い、天正3(1575)年2月長篠城に入りました。同年5月、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになり、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請することになりました。その命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒...
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。ここでも松潤家康公がお出迎え!長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し...
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」この看板の裏側にあります。さかさ桑長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼...
仁王門本堂の真南、寺全体の正面に位置している仁王門は、昭和62年(1987)清山和尚代に建立されました。さて、龍潭寺の本堂に入ってみましょう。庫裡 丈六の釈迦牟尼仏 丈六の釈迦牟尼仏 この仏さまは遠州地方第一の大仏さま、丈六仏です。丈六とは一丈六尺(5米)の寸法をいいますが、お座りですから三米ほどの高さです。 静かに己の心を深く見つめておられる、座禅のお姿の仏さまです。 この仏さまのお体には黒い...
後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました...
井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居館に加え、最終的な詰め城である三岳城で構成されていました。現在は城山公園として整備されており、土塁などの遺構が見学できます。井伊谷城跡(城山公園)井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。南北朝の動乱期(1336~1392)には、...
大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台にもなった奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。 井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。 井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・井伊直弼を輩出した家として知られています。 遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「井伊共保出生の井戸」です。 広い通りから、一本入りますが、白壁の塀を目印にすれば、見つかります。共保公とは、平安時代から戦国時代までの...
こんにちは、lemonです昨日のつづきです岡崎の旅①はこちら↓『《岡崎の旅①》はしもとみお木彫展 いきものたちの音』こんにちは、lemonです大好きな、はしも…
諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)の標高212mから220mの台地にあった戦国時代の山城です。天正元年(1573)、武田勝頼は、遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場美濃守信春に命じて、牧ノ原台地に築城しました。城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名が付いたと言われています。駿遠の国境に位置し、掛川の高天神城攻略の陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。天...
武田軍の突然の撤退は、徳川家康に武田信玄死去の疑念を抱かせ、その生死を確認するため、武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしたところ、武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信。家康は、武田氏に与していた奥三河の山家三方衆(作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏)の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略。浜松秋葉神社境内の山家三方衆屋敷跡奪回した長篠城に...
長浜の浅井歴史民俗資料館は、浅井三代の歴史と浅井三姉妹の波乱の人生を、ゆかりある武具や資料、人形ジオラマなどで展示されています。お江誕生人形ジオラマ 小谷城落城人形ジオラマ 実宰院人形ジオラマ小谷城址ジオラマまた、江戸時代後期から明治時代における浅井の庄屋・養蚕農家・鍛冶屋なども再現されています。この資料館の背後に見える大依山は、元亀元年(1570)6月28に日の姉川合戦にのぞむ浅井・朝倉軍が合戦に前に一...