メインカテゴリーを選択しなおす
木之本駅から歩いて約5分の浄信寺は、通称「木之本地蔵院」と呼ばれています。本尊は地蔵菩薩(秘仏)。境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされ、眼の地蔵菩薩として信仰を集めています。地蔵菩薩大銅像身代わり蛙片目をつぶった蛙がずらり・・・天武天皇の時代、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりで...
大手橋を通って清洲城へ。清洲古城跡の五条川対岸に、平成元年(1989年)に天守閣が建てられ、ふれあい郷土館として郷土文化・文化・歴史・産業展示室を設け、芸能文化館・黒木書院、日本庭園・土蔵・大手門等が作られました。室町時代、尾張の守護職であった斯波義重が下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清洲城の始まりといわれています。戦乱により、下津城が焼失後、文明10年(1478年)守護所が清洲に移転することにより、清洲...
先月、久しぶりに織田信長ゆかりの地・清須を歩いてみました。織田氏の居城である清洲城(清須城)があったことで知られています。「きよす」の表記は、「清須」と「清洲」の両方が混在しており、歴史書によって異なります。弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって、守護代織田・信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城しました。桶狭間の戦いの際、信長はこの清洲城から出陣...
滋賀県大津市坂本の西教寺は、坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置しています。総門は、天正年間に明智光秀が坂本城の城門を移築したものと伝えられています。門前には、「明智光秀公と一族の菩提寺」という石柱があります。西教寺は、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山で、寺伝によると、聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。平安時代...
東山区梅宮町の「明智光秀の首塚」は、通称「光秀塚」とも呼ばれています。白川沿いを歩いて行くと、白川橋を南に下がった東側に「東梅宮 明智光秀墳」の石碑が見えてきます。ここを入るとすぐ左手に首塚があります。光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首...
臨済寺の境内墓地の最上段には、今川氏輝や太原雪斎の墓の他、徳川家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓があります。今川氏輝の墓今川氏輝今川氏親の長男,母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼名竜王丸,通称は五郎。大永5(1525)年,元服して氏輝と名乗り,翌年,父の死によって家督を継ぐが,14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り,氏輝の文書発給がみられるのは,それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ,江尻湊の振興をはかる経済政策,検地の施行,さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ,甲斐の武田信虎と戦ったりしているが,同5年3月17日,24歳の若さで突然没した。同日,すぐ下の弟彦五郎も没しており,駿府今川館において何らかの異変が起こった...臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓
山崎の合戦は「天王山の戦い」とも呼ばれ、羽柴秀吉の軍勢が、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎の地(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)において、明智光秀の軍勢と激突しました。天王山登り口から急な坂を登っていきます。宝積寺は、天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝わり、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した...
山崎の合戦(1)山崎合戦古戦場跡~明智光秀本陣跡~恵解山古墳
羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していましたが、6月3日に本能寺の変の報を受け、ただちに毛利軍との和議を結び、「中国大返し」と言われる驚きべき速さで備中から京都に軍を返し、6月13日、秀吉軍4万の兵力で山崎にて1万6000の明智光秀軍と戦いました。両雄がぶつかった「山崎合戦の地」は、現在は京都縦貫自動車道の高架下に「天王山夢ほたる公園」として整備され、広場には、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記さ...
碧南市浅間町に鎮座する浅間神社は、寛文9年(1669)吉左衛門家次が創建されました。天正10年(1582)6月2日の朝に「本能寺の変」の報を聞きつけた徳川家康。命からがら伊賀越えをして大浜経由で岡崎へ逃れる道中、家康一行は、碧南北部にある浅間神社近くに上陸しました。農民が「麦えまし」という食事を差し出されたところ、空腹に耐えかねた徳川家康は、浅間神社で食べたと伝えられています。浅間神社では、現在でも夏越祭で「麦...
加太越から白子に出て、船で三河の大浜へ。船を手配したのは、角屋七郎次郎秀持でした。角屋 七郎次郎(かどや しちろうじろう)は、伊勢商人・角屋家当主が代々名乗った名前。角屋は屋号。本姓は松本。寛永年中には「角谷」とも号する。なお、代数は、角屋七郎次郎秀持を初代とする場合と2代目とする場合がある初代 角屋七郎次郎 秀持 朝熊山の柴を集め、廻船で各地に販路を広げた。1575年(天正3年)4月、北条氏政が徳川家康に...
甲賀市信楽町多羅尾の伊賀越えの道4日目は小川城から神山に向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、柘植の徳永寺に寄りました。当寺で一泊した家康はその時のお礼に、田畑や山林を与え、葵紋の使用も許したといわれています。徳永寺葵の御紋入った瓦伊賀越えの新説ルート甲賀伊賀越え通過点の一か所とみている天台宗明王寺(甲南町磯尾)には徳川家康より四代の位牌があり、神君甲賀伊賀越えの新たなルートの拠点として近年注目を集めて...
滋賀県在住の歴女の友人が、伊賀越えの画像を送ってくれたので、「伊賀越え」についてまとめてみました。天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、織田信長が明智光秀軍に殺害されるという本能寺の変が勃発。信長の同盟者であった徳川家康は、その時堺に投宿していましたが、茶屋四郎次郎から変の報を聞いて、明智軍の支配下にある京都に上り、松平氏にゆかりのある知恩院に駆け込んで「追腹」を切ると言い出しました。しかし本多忠...
以前、岡崎市の法蔵寺の夏目吉信(広次)の墓について書きましたが、愛知県額田郡幸田町六栗の明善寺にも吉信の墓があります。夏目氏三代の墓右から、夏目吉信、夏目吉久、夏目吉為の墓夏目氏は信濃国伊那郡夏目村の地頭職が起こりである。中先代の乱に敗れ、吉良荘に逃れ、六栗村の中屋敷台地に夏目屋敷城(六栗城)を構え、古くから松平氏(徳川氏)に仕える譜代衆であった。夏目吉信永正15年(1518年)、夏目吉久の長子として、...
7/22(土)今年の大河ドラマは、松潤演じる「徳川家康」毎年、大河ドラマのゆかりの地へ旅行すると決めているので、いざ静岡へちょうどドラマは、1579年に起こった「築山事件」が先週。武田氏との内通を疑った織田信長の指示で、家康は嫡男である信康と、正室の築山殿を死に追いやる。浜松の佐鳴湖で有村架純ちゃん演じる築山殿が自害。ぐっとくるシーンでした。 夫テツ・・・・号泣(笑)そして今週はいよいよ本能寺の変岡田准一く...
長篠の戦いで大活躍し、徳川・織田連合軍を圧勝に導いた英雄・鳥居強右衛門は、愛知県豊川市市田町の出身といわれています。そこで、強右衛門追っかけ第二弾として、鳥居強右衛門生誕の地を訪ねてみました。名鉄八幡駅から歩くこと25分。松永寺というお寺があります。この付近には元々細川氏の築いた市田城があり、後に牧野氏一族の居城となったそうです。松永寺境内の東側には「烈士鳥居勝商生誕地」の石碑が建っています。石碑の...
建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点、応仁の乱の際は西方の陣地となりました。10月19日の大祭...
茶室の次は、登ってきた階段を降りて「今川神廟」に向かいました。こちらは、今川義元と氏輝の廟で、2018年5月に落慶法要が行われました。以前は、現在建っている場所よりも後ろに建っていましたが、義元公の功績を評価し、偉人に相応しい立派なものをというご住職の考えで、本堂へ向かう歩道沿いに再建されたそうです。優美な曲線を描き、大きく軒を伸ばした屋根が特徴の優美な建物です。中には石塔と位牌があります。左側の大きな石塔は今川義元公、右側の小さな石塔は、今川氏輝公のもの。今川義元の石塔(首塚)桶狭間の戦いで、織田方に討ち取られた義元公の首級は、重臣・岡部元信と織田信長との交渉により後に返還され、駿河の菩提寺であった天澤寺に葬られましたが、天澤寺の衰退後、臨済寺に移されました。一方、胴体は腐敗が激しく、駿河に戻り途中、豊...臨済寺の春の特別公開(6)今川神廟今川義元の首塚
京都市バス、京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分、現在「京都国際マンガミュージアム」(旧龍池小学校)となっている建物の裏側に、「此附近 二條殿址」の石碑が立っています。二条殿は、もとは南北朝時代の公卿・歌人・連歌師であった二条良基の邸宅で、押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり、洛中洛外図屏風にも描かれており、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。信長は天正5(1577)年に移り住...
元々は清洲城下の現在地(旧北市場村)に總見寺がありました。現在の清洲の總見院は、慶長15年(1610)の清洲越しにより名古屋に移った總見寺址に再興した寺です。当寺には、織田信長の焼兜が寺宝として伝わっています。總見院の由緒によると、「織田信雄が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年(1583)に現在の地に「景陽山総見寺」を建立。しかし、慶長十五年(1610)「清須越し」によっ...
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。 本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。本堂信長公廟本能寺の変...
普段大河ドラマ見ないのに「どうする家康」は見ていて、気になったので行ってきました交通アクセス大曽根駅から、徒歩15分程度です遮るものがなく、非常に暑いので個人的にはバスをお勧めします!30分に一本程度と本数は少なめですが、徳川町バス停や森下
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。妙覚寺の山門本堂京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用す...
南宗寺の塔頭・天慶院の門前に、山上宗二の一会塚があります。山上 宗二は、千利休の高弟であり、茶匠としては豊臣秀吉に仕えていましたが、天正12年(1584年)に暴言を吐き、秀吉の怒りを買い、浪人に。この時に前田利家に仕えるようになりますが天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れました。その後は小田原に下って北条氏に仕えました。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの際には、利休の計らいで秀吉との...
南宗寺は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で、弘治3年(1557年)三好長慶が父元長の菩提を弔うために、大林宗套(だいりんそうとう)を迎え開山しました。本尊は釈迦三尊。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした寺院です。(画像提供:めりい)三好長慶の像(画像提供:めりい)天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による焼失後、当時の住職であった沢庵宗彭よって現在の場所に移転して再興さ...
堺は、戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われ、堺の有徳者(有力商人)で構成される会合衆が町を治めました。 1550年、宣教師フランシスコ=ザビエルが堺を訪れ、布教の許可を得るため、堺を拠点としました。戎公園は、ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に開設されました。「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑 (画像:Wikipediaより)当...
臨済寺の伽藍の最上部にある茶室「夢想庵」へこの渡り廊下を上って行きます。茶室には、一度に大人数が入れない為、書院にて人数制限が行われてからの移動となりました。茶室内部夢想庵からは、美しい庭園や遠く静岡の街並みを一望できます。この日は大雨でしたので、ぼんやりとした写真しか撮れませんでしたが、晴れた日ならもっと素晴らしい景色を見られるのでしょうね。次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング臨済寺の春の特別公開(5)茶室「夢想庵」
安土城南西麓の百々橋口から下街道を越え、南に数分行くと、セミナリオ史跡公園があります。この地の小字名「大臼」(だいうす)は、ラテン語で神を意味するデウス(Devs)の転訛と考えられ、セミナリオ跡は、織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校の跡とされています。現在は 安土城の外濠沿いに公園として整備されています。ここは、安土城天主から...
二の丸へと進んでいきます。二の丸址二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長本廟があります。ここからは、立ち入り禁止。ズームで撮ります。織田信雄四代供養塔次は本丸に進みます。本丸跡本丸は、礎石などから、京都御所の清涼殿と似た構造であったことが判明しており、天皇の行幸を想定した建物と考えられています。 本丸跡 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西...
天正10年(1582年)5月21日、徳川家康は、駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて降伏した穴山梅雪とともに居城・安土城を訪れ、大接待を受けました。安土駅から自転車で10分ほどで安土城に到着。登城ルートは、大手口から天守台を目指し、大手口に戻るルートです。大手口には、かつて大手門と東西2つの虎口が構えられていました。大手口駐車場近くに無料休憩所があり、その中に安土城の模型が飾られています。レンタサイクル...
数年前安土を訪ねました。安土のシンボルといえば、駅前の織田信長の銅像です!銅像の横には、「織田桜」があります。地下道を通って、駅の裏側に行くと、安土駅の南広場に「相撲やぐら」があります。元亀元(1750)年に織田信長が常楽寺で催した相撲興業が近代相撲の発祥と言われており、それを記念して昭和63年に建てられました。信長の相撲好きは有名で、安土城下で1500人もの力士を集めた大相撲大会を開催し、勝者へ優遇したこと...
近鉄長島駅より徒歩約10分、長島城跡に向かいました。長島城は、寛元3年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て、現在は長島中部小学校・中学校となっています。また、校内の「長島の大松」は、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定され、天然記念物、市の指定文化財になっています。長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。長島城の起源は、寛...
長島一向一揆は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(三重県桑名市長島町)を中心とした地域で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆で、織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こりました。歌川芳員『太平記長嶋合戦』濃尾三川(のうびさんせん)と呼ばれた木曾川・長良川・揖斐(いび)川の下流域は輪中地帯として知られ、15世紀中頃から一向宗の勢力が増し、長島の願証寺がその拠点となっていまし...
現在の報土寺がある静岡市葵区宮ヶ崎辺りに、新婚時代の徳川家康(松平元信)と瀬名(築山殿)が住んだ屋敷があったと伝わっています。駿府城の西側、浅間神社の南側にあたるエリアです。報土寺HPによると「開創当初は今川家の時代であり、京都から駿府に来ていた公家で歌人の冷泉為和が、度々報土寺で歌会を催していた記録が残っています。江戸時代になると、徳川家康公が政治の実権を秀忠公に譲り駿府に隠居したため、しばしば家康公...
武田攻めを終えた織田信長は安土城へ向かう途中、富士山などの名所を見物しながら、駿河に寄りました。徳川家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し、本栖湖の近くに宿所を建て、信長を迎えました。(これは、数年前、私が本栖湖の芝桜を見に出かけた時の画像です。 もちろん信長の見た景色とは大きく異なります(^^ゞ)富士山本宮浅間大社の境内に仮の宿泊所を建て、わずか一泊のために、家康は金銀をちりばめた豪...
武田勝頼ゆかりの韮崎市と甲州市を訪ねる予定が、「武田氏滅亡」が描かれる回に間に合わなかっため、今回は「韮崎市観光協会」と「甲州市観光協会」から画像をお借りしました。●韮崎市長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫し、高天神城が陥落したことで、武田氏の威信は急落。領国の立て直しを決断した武田勝頼は、府中移転を計画し、天正9年(1581)、現在の山梨県韮崎市の七里岩の台地に新府城を築城。新府城跡写真...
JR清水駅から徒歩10分、静岡県清水区江尻の江浄寺は、東海道五十三次、江尻宿の中心に位置する古刹です。永正元年(1509)、浄土宗大本山 光明寺(鎌倉市)の第九世 長蓮社観譽祐崇(ちょうれんじゃ かんよ ゆうそう)上人が開山で、当時は旧東海道沿い(清水区秋吉町付近)に創建されました。その後、徳川幕府の東海道整備に伴い、慶安四年(1651)現在の地へ移転しました。境内には、松平信康の遺髪を納めた五輪塔があります。江...
東京都新宿区若葉二丁目の西念寺は、服部半蔵正成が開基した寺として知られています。徳川氏が江戸に入封して間もない文禄3年(1594)に、正成が江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まります。正成は、松平信康の慰霊のために出家入道して西念と号し、安養院に供養塔を建て、遠州以来奉持していた信康の遺髪を埋めてその菩提を弔いつつ余生を過ごしました。そ...
岡崎市若宮町にある根石寺(旧根石観音堂)を訪ねました。現在、信康の首塚がある若宮八幡宮の境内にあった根石原観音は、明治維新の神仏分離によって、若宮八幡宮の北側に移転し、現在は根石寺となっています。根石原観音の由緒について、「おかまいり」のHPによると、和銅元年(708)に悪病が流行したことから、43代元明天皇が悪疫を絶やすよう行基法師に祈祷を依頼すると、行基は自ら六体の観音菩薩を彫り、そのうちの二体を根石...
松平信康は、堀江城からさらに遠江国豊田郡二俣(現在の浜松市天竜区二俣町二俣)二俣城に移されました。二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地で、、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。また、信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られています。この急な階段を上っていきます。当時、武田軍が急な坂道で手こずったというのがうなづけます。まだまだ続く階段(..;...
一階の見学を終え、二階へ上がって行くと、竹千代手習いの間があります。人質として臨済寺で過ごした幼少期の徳川家康・竹千代が勉強した部屋が再現されています。小さな和室に机と座布団が置かれ、天井には、立派な龍が描かれています。この部屋の周りには、徳川・今川ゆかりの品が展示されています。榊原康政寄進の鉄山釜太原雪斎使用の陣中袈裟春日局所持の団扇徳川家伝来の硯箱竹千代使用の硯家康公御真影次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング臨済寺の春の特別公開(4)
天正7年(1579)8月9日、小姓5人を付き添わせ、松平信康は、大浜から遠江の浜名湖半にある堀江城へと移っていきました。その翌日、徳川家康は、三河衆から信康に内通しないことを誓約する起請文を提出させたといいます。13日、家康は浜松城に帰還し、岡崎城には本多重次を派遣して城代に据えました。堀江城は、鎌倉時代、藤原氏の血を引く大沢基久が築城したと伝えられています。 戦国時代も大沢氏が城主を務めますが、今川氏の勢力...
岡崎市両町にある祐伝寺を訪ねました。祐伝寺の由緒根石山と号し真宗高田派。もと妙源寺末。本尊阿弥陀如来。天正7年(1579)柴田新四郎正親が投町に創建。正親の次男六郎は遊伝坊了慶と称して一寺を建てた。後家康が神明宮別当を命じたという(コトバンクより)築山殿の首は、織田信長に送られ、首実検にかけられた後、岡崎城代であった石川数正がその首を持ち帰り、祐伝寺に葬ったといいます。江戸時代になると八柱神社(やはしら...
浜松市南区高塚にある護法山地蔵院は明徳元年(1390)に元道円密和尚により創建されました。元道円密和尚は、後醍醐天皇の子 宗良親王と共に遠州に入った公家出身の武士であり、親王が元中二年(1385)に亡くなると出家して当地高塚に庵を結んだとされています。本堂約250年前に建立されました当時は茅葺きでしたが大正時代に瓦に葺き替えられたそうです。ご本尊は延命地蔵菩薩位牌堂には築山御前ゆかりの腹籠り地蔵も祀られてい...
岡崎で息子の松平信康夫婦と暮らしていた築山殿は、信康の妻・徳姫が二人の姫を産んでもいまだ男児を産まないことを気にかけ、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山御前と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か...
松平信康が大浜へ追放された後、天正7年(1579)、8月5日、徳川家康は、松平信忠らの軍勢を率いて、吉良西尾城に赴きました。西尾城周辺には大きな河川があり、下流の湿地帯には野鳥が多く生息し、この地で織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、吉良荘(きらのしょう)で鷹狩りを楽しんだという記録が残っています。(西尾歴史散策MAPより)特に家康は、その生涯で1000回以上も鷹狩りを楽しんだそうで、この年表を見ても、信康事件の...
1579年8月4日、松平信康は、岡崎城から三河大浜城に移されました。そんな信康の軌跡を追って、愛知県碧南市大浜を訪ねました。碧南市には、三英傑のゆかりの地があり、各所にこの幟がはためいています。この地区は、古くから海運の町として栄え、多くの寺社が建てられました。特に大浜てらまち地区は、南北1.2kmほどの狭い地区に、宗派を異にする10軒のお寺があります。「竹千代」命名の寺「称名寺」は、暦応2年(1339)に新田氏一...
松平信康は、永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で誕生。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移りました。元亀1年(1570)、家康が遠江に進出し、引馬(浜松)を居城とする際、三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称しました。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家康を助けたといいます。天正3年(1...
西の丸に向かって進んで行きます。的場曲輪跡弓矢などの練習をしていた場所と言われています。鐘曲輪兵が攻めてきたことを知らせるために、ここで鐘や太鼓で知らせたといいます。かな井戸 井戸曲輪跡西峰と東峰を分ける曲輪で、籠城には欠かせない井戸がありました。尾白稲荷高天神城合戦将士英魂之碑高天神社西の丸跡この西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。神社の奥に向かって...
高天神城の三の丸から本丸へ元天神社現在、西の丸にある高天神社は、元々はこの場所にあり、「高天神城」という由来となったそうです。御前曲輪跡城主・小笠原長忠と奥方の顔出しパネルここに、昭和に入ってから建てられた2層の模擬天守がありましたが、落雷で焼失したそうです。本丸跡高天神城の東峰の最高所に位置するのが本丸です。西側には土塁が作られているものの、東側は絶壁と評するにふさわしい急斜面となっており、人の...