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上田城の3つの櫓の見学を終え、お城の周りをぐるっと散策。花木園では、ツツジ、ハナミズキをはじめ、春の花が満開でした。上田招魂社当招魂社は、戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る間国家のために亡くなった人々の英霊を祀っています。お濠に沿って歩いていると、隅欠(すみおとし)という看板が見えてきます。隅欠は、上田城の特徴のひとつで、鬼門の方角である北東の隅の土塁を切り込んで、鬼...
天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。東虎口櫓門から城内に入ります。櫓門の手前から見た空堀。櫓門をくぐる前、右側の石垣の中に真田石があります。高さ2.5m、幅3mの城内最大の石です。真田信之が上田城から松代に移る際、父の形見として持ち去ろうとしたが動かなかったという伝説が残されています。この楼門は、北櫓と...
大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。西郷頼嗣の墓初代岡崎城主次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。(Wikipediaより)西郷信貞の墓4代・岡崎城主大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂...岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓
まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂、鐘楼、山門などからなります。当寺は、鷹狩で立ち寄っ...
石田会館に向かう道を左に曲がると、八幡神社があります。石田神社とも呼ばれ、本殿の裏に石田三成一族と家臣の供養塔があります。 本殿 三成の辞世の歌「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」三成の自筆による歌「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりとぞ」 墓石出土跡昭和16年まで、石田家に関係があると思われる墓石(関ヶ原の後、この地の人が、徳川方の追及を逃れる...
バス停石田から石田会館とは反対の方向、北へ進み、民家の間に挟まれた道を行くと、石田三成産湯の井戸があります。石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。 三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、...
石田三成生誕の地(1)秀吉と三成出逢いの像~石田三成の屋敷跡
次回9月17日の「どうする家康」予告を見ると、いよいよ石田三成が登場するようです。そこで、過去の記事より、「石田三成生誕の地」を紹介します。長浜駅を降りると、駅前に「秀吉と三成出逢いの像」があります。長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年...
静岡大河ドラマ館の中を進んで行きます。次は、メインキャストの衣装展示です。今川氏真役:溝端淳平さんの衣装徳川家康(松平元康)と瀬名の婚礼衣装今川義元の衣装続いて、メインキャストの紹介です。徳川家康と瀬名織田信長本多正信、松平信康、今川氏真静岡浅間神社の模型古くから駿河国総社として歴代幕府の崇敬を受けて信仰され、竹千代(家康)が元服式を行ったことから、江戸時代には特に徳川氏の崇敬を受けました。神部(か...
臨済寺の特別拝観の日に、静岡大河ドラマ館も見学してきました。これで、岡崎、浜松、静岡の三つの大河ドラマ館を制覇したことになります\(^o^)/静岡大河ドラマ館は、徳川家康が元服式を行った静岡浅間神社の境内に建てられています。では、記念すべき第1回に登場した小物を振り返ってみましょう!実際撮影で使用したものもあれば、同等品の展示もあり。「次郎三郎元信と瀬名を結ぶウサギと騎馬の人形」「瀬名が口づけした弓懸」...
回廊を通って、客殿に向かいます。客殿寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より) 句碑 星野立...
徳川家康の側室であった西郡局(にしのこおりのつぼね)は、三河国宝飯郡の武家・鵜殿氏の出身で、西郡の方ともいいました。永禄5年(1562年)に上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされましたが、他の鵜殿氏支流は徳川氏に服しました。西郡局は、柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産みました。湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上...
8月29日に「秀吉時代の遺構が残る竹生島の宝厳寺」の記事を掲載しましたが、社殿修復前の2011年訪問時の褪せた色の社殿の画像でした。先日、滋賀県在住の友人が、竹生島を訪問し、宝厳寺の修復後の画像を送ってくれましたので、改めて鮮やかな色彩の宝厳寺の記事をアップします。竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より、「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立...
9月4日の「鶴瓶の家族に乾杯」で、於愛の方を演じている広瀬アリスさんが掛川を訪問し、事任八幡宮が登場しましたので、過去の記事より「事任八幡宮」を再掲します。事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂、旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある神社です。 式内社で遠江国一宮。創建時期は定かではありませんが、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武...
金山神社は、天正年間(1573年〜1593年)、徳川家康が浜松に城を構えるにあたり、釘鎹(くぎかすがい)・蝶番(ちょうつがい)・飾り金具を金銀銅鉄で鋳造するため、場内三の丸に鍛冶衆を常駐させ、同時に美濃国の南宮大社よりご分霊を勧請して祀ったことに始まるとされています。元和元年には、浜松城拡張工事のため、徳川秀忠の産土神たる五社神社を城外に、現在地の常寒山に遷座させ、それに伴い、当社も清水谷入り口へ鍛冶衆と...
岡崎の大林寺は、明応2年(1493)、松平光重が天盈良倪(てんえいりょうげい)を開山として明大寺に創建、当初は光林寺と称していました。享禄3年(1530)、徳川家康の祖父・松平清康の命で現在地の岡崎城の北に位置する魚町に移転されました。天文4年(1535)12月、清康は尾張の守山城で変死し、遺骸は随念寺で荼毘にふされました。清康の夫人・春姫(西郷信貞の娘)は尼となり、天文17年(1548)2月、大林寺にて死去。天文18年(1549)、清康の子で、家康の父・松平広忠も若くして亡くなります。松平氏は織田氏・今川氏への影響を恐れ、ひそかに遺骸を大林寺に移し、能見村に葬り、清康、広忠、春姫の霊廟が本寺に置かれることとなりました。境内の一角に「松平廟」があり、松平清康、広忠、清康夫人・春姫の墓が並んでいます。それら...岡崎の大林寺(1)松平廟
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
静岡県掛川市上西郷は、於愛の方(西郷局)の生誕地とされています。西郷局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷局です。(西郷局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛といい、父・戸塚五郎太夫忠春、...
VIVANT 最新の検索トレンドをチェック!本日の注目キーワード
最新の検索トレンドをチェックしました。 世間の関心ごと、X(旧Twitter)住民の世界観が体験できます 本日の注目キーワードランキング一覧はこちら #59106;#VIVANT #59107;ヤクルト #59108;#どうする家康 #59109;#鉄腕DASH #59110;#f1jp #59111;乃木さん #59112;デッドボール #59113;音尾さん この時間のツイートは、地上波TVドラマに関する投稿が上位に挙がっています ・#VIVANT #8 乃木(堺さん)ら「別班」は「テント」の会合に潜入してノコル(二宮和也さん)を捕らえるが、乃木は別班の仲間を次々と狙撃するという衝撃の行動に出た。仲間や国を裏切ってまでも果たしたい乃木の思いは? ?#59036; #VIVANT 重大発表②#59036;??9/17(日)にIHIステージアラウンド東京にて、ファンミーティングの開催が決定しました!〓撮影秘話や名場面を福澤監督と一緒に振り返りましょう!??さ..
石川数正は、徳川家康の片腕として酒井忠次とともに活躍しましたが、小牧・長久手の戦いの後に突如出奔、豊臣秀吉に臣従しました。出奔の理由は、「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉に調略された」「松平信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていた」「徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをした」など諸説ありますが、はっきりした理由はわ...
天正14年(1586年)に入ると、豊臣秀吉は織田信雄を通じて徳川家康の懐柔を試み、妹の旭姫を正室として岡崎城に送りました。 しかし、一向に上洛の気配を見せない家康に対し、今度は母の大政所を旭姫の見舞いとして、岡崎に送りました。さすがの家康も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げ、浜松を出立し、大坂に向かうことに。 この間、岡崎では、鬼作左と呼ばれた本多作左衛門重次が、大政所の世話役を務めました。剛毅...
静岡浅間神社から5分ほど北に行ったところに瑞龍寺というお寺があります。1560年(永禄3年)、能屋梵藝によって開山され、徳川家康が居城を駿府城に定めた際に寺領が与えられました。天下取りを目指した豊臣秀吉は、家康と同盟関係を築くため、天正1586(14)年、自分の妹である旭姫を、夫の佐治日向守(さじひゅうがのかみ)離縁させ、 築山御前の死後、正室を持たなかった家康に嫁がせました。同年、旭姫は、家康と共に浜松城から...
天正地震は、天正13年11月29日に日本の中部地方で発生した巨大地震です。震源や地震の規模には諸説ありますが、揺れの範囲などから見てM8.0級の巨大地震だった可能性もあり、近江の長浜城や美濃の大垣城は全壊、尾張の清洲城も半壊するなどの被害に遭いました。これにより、豊臣秀吉方は、大きな被害を受け、計画していた徳川討伐の計画を取りやめることになり、徳川方と講和への方向に傾いていきます。秀吉は、妹の旭姫を家康...
お万の方は、知立神社の神主家・永見貞英と刈谷城主水野忠政の女の間に生まれた娘で、徳川家康の正室・築山殿に仕えたとされています。後に、双子の子を授かり、家康の側室となって、双子のうちひとりの永見貞愛(ながみ さだちか)は、知立神社の神主となりますが、31歳の若さで病死しています。(『柳営婦女伝系』などでは、秀康は双子で誕生し、弟はすぐに亡くなったとされている)もう一人の結城秀康は、羽柴秀吉の養子として羽柴...
愛知県の知立はかつて東海道五十三次の宿場町でした。池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)は品川より数えて39番目の宿駅で、知立神社への参拝や馬市、木綿市などでにぎわったと言われています。宿には、宿駅業務を行う問屋場、大名・公家等が休泊する本陣のほか、庶民向けの旅籠・茶屋などが軒を連ね、池鯉鮒宿には、本陣、脇本陣が各一軒置かれていました。本陣の敷地は約二千九百坪、建坪約三百坪と広大な面積を有していましたが、明治8...
2011年9月に滋賀県長浜市の竹生島を訪問しました。長浜港から竹生島クルーズで30分で到着。この日は、朝から雨が降ったりやんだりのあいにくの天気でした。晴れていたら、もっとくっきりと琵琶湖が見渡せたでしょう。「延喜式」式内社の都久夫須麻神社(竹生島神社)と西国三十三所観音霊場第30番札所・宝厳寺があります。明治時代初期の神仏分離までは、宝厳寺が都久夫須麻神社の別当をつとめていました。船着場から祈りの階段と...
大阪城は、天正11年(1583)、石山本願寺跡に豊臣秀吉によって築かれ、豊臣氏の本拠となりました。豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって再建され、現在は、「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されています。豊臣時代の大天守は、外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用い、奥御殿の内部もまた金銀の装飾に溢れ、大坂城を訪れた大友宗麟は、あまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えたといいま...
岡崎の中心部を流れる乙川には、3本の橋が架けられています。上流から明代橋、桜城橋、殿橋の順に設置されています。中でも、殿橋は、徳川家康ゆかりの岡崎城の上流に位置し、昭和2年(1927)の竣工時から当時の意匠をほぼ残したまま現在に至るまで現役で存在している橋で、御影石造りの大きな親柱が特徴的です。歴史を遡ると、旧橋は、正保2年(1645)、岡崎藩主・水野忠善が藩主のころ完成しました。当時は「菅生橋」と呼ばれ、後に「殿橋」と呼ばれるようになり、現在地より100メートルほど下流にあったそうです。今では、毎年、3~4月に開催される桜まつりや、8月の第一土曜日に開催される「岡崎観光夏まつり花火大会」はこの橋のたもとで行われています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング殿橋(岡崎市)
浜松秋葉神社は、徳川家康が永禄十三(1570)年正月浜松城入場の際、秋葉寺第二十五代別当、叶坊光幡を浜松城下へ引具し、叶坊の願いを聞きいれ、天竜区春野町の秋葉権現堂を勧請したことがはじまりです。御前崎市から湖西市に至る地域一帯の秋葉信仰の中心としての役割を担い、家康が勧請した神社として、以後歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯篭が寄進されています。三州西尾城主松平和泉守源乗寛年号 文化七年(1811)の灯籠こ...
蟹江城合戦の舞台となった蟹江城址は、JR関西本線蟹江駅下車徒歩15分ほどのところにあります。蟹江城は、永享年間(1429~1440)に北条時任により築城されました。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありましたが、天正12年(1584)の蟹江合戦において、織田・徳川連合軍により落城、翌年の大地震で壊滅し、今は石碑と井戸を残すのみです。蟹江城合戦(蟹江合戦)とは、...
久岳山安昌寺は、小牧・長久手の戦いの後、雲山和尚が戦死者を手厚く供養したことから、後に尾張藩主をはじめ多くの藩士が当寺を訪れ、合戦にまつわる各種の書付を残しました。また丹羽氏次の田畑寄進状などの文書やうわばみという大蛇の説話絵馬など美術工芸品も伝わります。8月10日、観音堂の九万九千日の祭りには多くの人で賑います。天正12年(1584)小牧・長久手合戦がこの地で終戦となったので、首塚・耳塚が残っています。...
現在、血の池公園となっているところは、小牧・長久手の戦いの時、徳川家康方の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗った池がありました。この池には「毎年、合戦のあった4月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残り、「血の池」と呼ばれていました。この池を埋め立て、整備されたのが、「血の池公園」で、住民の憩いの場になっています。現在は池はありませんが、公園の中の低くなっているのが、池の名残りです。公園の奥に...
天正12(1584)年に徳川家康と羽柴秀吉が激烈な戦いを繰り広げた小牧・長久手の戦いの長久手の主戦場跡地は、現在、「古戦場公園」として整備され、国の史跡に指定されています。園内には小牧・長久手の戦いで戦死した池田恒興、元助親子の塚や郷土資料室があります。古戦場公園郷土資料室で、レンタサイクルを借りて、長久手古戦場の史跡巡りをしてきました。勝入塚勝入塚は、池田恒興(勝入)が戦死した場所と伝えられています。尖っ...
愛知県春日井市にある太清寺(たいせいじ)。かつては醍醐山龍源寺と呼ばれ、徳川家康の逸話が伝えられていることで知られます。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう折、当地の阿弥陀堂で休憩しました。家康が「ここは何という所か」と尋ねたため、庄屋の長谷川甚助が「勝川村にございます」と申し上げたところ、「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ」と喜びました。また、そこで牡丹餅を...
岩崎城の築城年代ははっきりしていませんが、織田信長の父である織田信秀により築城され、属将・荒川頼宗が守備していたとされます。この地「岩崎」は、尾張、三河間を往来する街道の要衝地でした。享禄2年(1529)徳川家康の祖父・松平清康が攻め落としましたが、天文4年(1535)に清康が陣中で家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こると、代わって、本郷城(日進市)の丹羽氏清が同城に移り住み、以後、丹羽氏が4代にわたって岩崎城主...
小幡城(おばたじょう)は、名古屋市守山区西城付近にあった城です。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が、小幡城を修築し、池田恒興・森長可率いる豊臣方の別働隊を破った後、小幡城に入城しました。現在は宅地となっていて、明瞭な遺構は残っていませんが、駐車場に「小幡城跡」の案内板が設置されています。 小幡城跡大永2年(1522)岡田重篤が築城したといわれ、東西約200メートル、南北約70メートルであった。重篤は織田敏信、...
山頂の小牧市歴史館を目指してさらに登っていきます。史跡小牧山主郭地区~織田信長が築いた小牧山城~ 永禄期大手道の石積 大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16~19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。 大手道の調査では、山側(この説明板の後ろ)の土塁が、小牧・長久手の合戦(天正期)の折に城の防御を固めるため、徳川家康によっ...
最新の検索トレンドをチェックしました。 世間の関心ごと、X(旧Twitter)の世界観が体験できます 本日の注目キーワードランキング一覧はこちら #59106;#どうする家康 #59107;#ミオサマーパーティ #59108;#るたこじインライ #59109;バウアー #59110;スペイン #59111;#ツイステフェス #59112;プラチナジャケット #59113;#ななにー この時間のツイートは地上波ドラマ関係が上位に挙がっています ・#どうする家康 NHK大河ドラマ「どうする家康」ストーリーテラー・古沢良太さんによる、ハラハラドキドキ、スピード感あふれる波乱万丈のエンターテインメント! 【 今夜は "小牧・長久手の戦い" !! 】/今こそ、我らの手で天下をつかむときぞ !!!!!\▼ 略年譜で家康の生涯を振り返るhttps://t.co/LaBzkuEhVi敵は豊臣秀吉、10万の大軍。第32回「小牧長久手の激闘」はNHK..
愛知県小牧市にある標高86mの小牧山には、かつて織田信長が美濃攻めの拠点として築城した小牧山城がありました。築城から4年後、永禄10(1567)年に信長が岐阜に居城を移したことで小牧山城は廃城となり、家臣団や城下に住む多くの商工業者が城下町を去りましたが、一部の住人はこの地に残り、小規模な町場が存続しました。小牧山城が廃城されて17年後の天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍との間で小牧・長...
小牧市の玉林寺は、元々は小牧山の麗にありましたが、元和9年(1623年)に現在地に移転しました。本尊として祀られている如意輪観世音菩薩像は、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで小牧山に陣を張った徳川家康が、山の周囲に堀を造らせたところ、地中から見つかったとされています。本堂観音像毘沙門堂庫裏にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラ...
小牧市大字の岩崎山砦跡は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方が築いた砦跡で、稲葉一鉄・貞通親子らが4千の兵を率いて布陣したといいます。砦は、岩崎山の頂上や熊野神社境内にあったと言われています。熊野神社裏の巨石群は、縄文時代の祭事跡ともいわれ、名前の付いた岩がごろごろとあります。中でも有名なのが、県指定天然記念物の花崗岩の巨岩「五枚岩」です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加...
羽黒城は、愛知県犬山市羽黒字城屋敷にあった平城で、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫・梶原景親によって築かれました。梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していましたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となりました。本能寺の変の後、城跡は廃れていましたが、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの前哨戦である「羽黒合戦」で森長可・池...
羽黒の戦いは、八幡林の戦いとも呼ばれています。天正12(1584)3月16日、小牧・長久手の合戦に際して、羽柴秀吉側の森長可と徳川家康側の酒井忠次らの軍勢が戦った八幡林古戦場は、犬山市羽黒八幡にある羽黒八幡宮周辺といわれています。野呂塚野呂助左衛門宗長と息子の野呂助三郎は、森長可を逃がすために奮戦しましたが、徳川軍に討ち取られてしまいました。二人をを顕彰するために建てられたのが、野呂塚です。この野呂塚は、八...
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いで、尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれました。楽田城(がくでんじょう)は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)にあった城で、永正年間に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わっています。小高...
岡崎市戸崎町の小豆坂古戦場跡は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が2度にわたり激戦を繰り広げた舞台です。永禄7年(1564)には土呂・針崎の三河一向一揆と徳川家康との戦場になりました。槍立松、血洗い池などから当時を偲ぶことができます。史跡小豆坂古戦場跡355平方メートル徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小...小豆坂古戦場跡(岡崎市)
犬山の瑞泉寺は、織田信長、豊臣秀吉らに崇敬され、尾張徳川家にも庇護された寺です。山門犬山城の門を移築したものといわれています。 当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶう ち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一...
天正12年(1584年)3月13日、徳川家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り、犬山城を占拠しました。犬山城は、木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固の城」で、別名「白帝城」とも呼ばれています。白帝城については、荻生徂徠が、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」にちなんで命名したと伝えられています。尾張と美濃の国境...
愛知県知多郡美浜町野間の大御堂寺(おおみどうじ)は、通称野間大坊として知られています。境内には、安養院で自刃した織田信孝の墓があります。織田信孝の墓また当寺は、源義朝ゆかりの寺として有名です。白河天皇の勅願によって承暦年間(1077~1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、源頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。大門は...
天正11年(1583年)、再度挙兵した織田信孝は、兄・織田信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏し、尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、自害させられました。大御堂寺の一院の安養院(あんよういん)「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」信孝が自害した「信孝自刃の間」があります。辞世の歌「むかしより 主をうつみの 野間なれば ...
天正11年(1583年)4月16日、一度は秀吉に降伏していた織田信孝の再挙兵に対し、羽柴秀吉軍は、美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫により大垣城に入ります。揖斐川大垣城柴田勢は佐久間盛政に攻撃を命じると、大岩山砦を守っていた中川清秀>が討死し、秀吉軍は苦戦を強いられます。佐久間盛政黒田官兵衛軍は、盛政の攻撃を撃退。盛政は次に岩崎山の高山右近を攻撃、右近は木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れました。盛政は、「大岩山陥落...