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蟹江城合戦の舞台となった蟹江城址は、JR関西本線蟹江駅下車徒歩15分ほどのところにあります。蟹江城は、永享年間(1429~1440)に北条時任により築城されました。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありましたが、天正12年(1584)の蟹江合戦において、織田・徳川連合軍により落城、翌年の大地震で壊滅し、今は石碑と井戸を残すのみです。蟹江城合戦(蟹江合戦)とは、...
久岳山安昌寺は、小牧・長久手の戦いの後、雲山和尚が戦死者を手厚く供養したことから、後に尾張藩主をはじめ多くの藩士が当寺を訪れ、合戦にまつわる各種の書付を残しました。また丹羽氏次の田畑寄進状などの文書やうわばみという大蛇の説話絵馬など美術工芸品も伝わります。8月10日、観音堂の九万九千日の祭りには多くの人で賑います。天正12年(1584)小牧・長久手合戦がこの地で終戦となったので、首塚・耳塚が残っています。...
現在、血の池公園となっているところは、小牧・長久手の戦いの時、徳川家康方の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗った池がありました。この池には「毎年、合戦のあった4月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残り、「血の池」と呼ばれていました。この池を埋め立て、整備されたのが、「血の池公園」で、住民の憩いの場になっています。現在は池はありませんが、公園の中の低くなっているのが、池の名残りです。公園の奥に...
天正12(1584)年に徳川家康と羽柴秀吉が激烈な戦いを繰り広げた小牧・長久手の戦いの長久手の主戦場跡地は、現在、「古戦場公園」として整備され、国の史跡に指定されています。園内には小牧・長久手の戦いで戦死した池田恒興、元助親子の塚や郷土資料室があります。古戦場公園郷土資料室で、レンタサイクルを借りて、長久手古戦場の史跡巡りをしてきました。勝入塚勝入塚は、池田恒興(勝入)が戦死した場所と伝えられています。尖っ...
愛知県春日井市にある太清寺(たいせいじ)。かつては醍醐山龍源寺と呼ばれ、徳川家康の逸話が伝えられていることで知られます。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう折、当地の阿弥陀堂で休憩しました。家康が「ここは何という所か」と尋ねたため、庄屋の長谷川甚助が「勝川村にございます」と申し上げたところ、「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ」と喜びました。また、そこで牡丹餅を...
岩崎城の築城年代ははっきりしていませんが、織田信長の父である織田信秀により築城され、属将・荒川頼宗が守備していたとされます。この地「岩崎」は、尾張、三河間を往来する街道の要衝地でした。享禄2年(1529)徳川家康の祖父・松平清康が攻め落としましたが、天文4年(1535)に清康が陣中で家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こると、代わって、本郷城(日進市)の丹羽氏清が同城に移り住み、以後、丹羽氏が4代にわたって岩崎城主...
小幡城(おばたじょう)は、名古屋市守山区西城付近にあった城です。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が、小幡城を修築し、池田恒興・森長可率いる豊臣方の別働隊を破った後、小幡城に入城しました。現在は宅地となっていて、明瞭な遺構は残っていませんが、駐車場に「小幡城跡」の案内板が設置されています。 小幡城跡大永2年(1522)岡田重篤が築城したといわれ、東西約200メートル、南北約70メートルであった。重篤は織田敏信、...
山頂の小牧市歴史館を目指してさらに登っていきます。史跡小牧山主郭地区~織田信長が築いた小牧山城~ 永禄期大手道の石積 大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16~19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。 大手道の調査では、山側(この説明板の後ろ)の土塁が、小牧・長久手の合戦(天正期)の折に城の防御を固めるため、徳川家康によっ...
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愛知県小牧市にある標高86mの小牧山には、かつて織田信長が美濃攻めの拠点として築城した小牧山城がありました。築城から4年後、永禄10(1567)年に信長が岐阜に居城を移したことで小牧山城は廃城となり、家臣団や城下に住む多くの商工業者が城下町を去りましたが、一部の住人はこの地に残り、小規模な町場が存続しました。小牧山城が廃城されて17年後の天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍との間で小牧・長...
小牧市の玉林寺は、元々は小牧山の麗にありましたが、元和9年(1623年)に現在地に移転しました。本尊として祀られている如意輪観世音菩薩像は、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで小牧山に陣を張った徳川家康が、山の周囲に堀を造らせたところ、地中から見つかったとされています。本堂観音像毘沙門堂庫裏にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラ...
小牧市大字の岩崎山砦跡は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方が築いた砦跡で、稲葉一鉄・貞通親子らが4千の兵を率いて布陣したといいます。砦は、岩崎山の頂上や熊野神社境内にあったと言われています。熊野神社裏の巨石群は、縄文時代の祭事跡ともいわれ、名前の付いた岩がごろごろとあります。中でも有名なのが、県指定天然記念物の花崗岩の巨岩「五枚岩」です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加...
羽黒城は、愛知県犬山市羽黒字城屋敷にあった平城で、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫・梶原景親によって築かれました。梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していましたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となりました。本能寺の変の後、城跡は廃れていましたが、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの前哨戦である「羽黒合戦」で森長可・池...
羽黒の戦いは、八幡林の戦いとも呼ばれています。天正12(1584)3月16日、小牧・長久手の合戦に際して、羽柴秀吉側の森長可と徳川家康側の酒井忠次らの軍勢が戦った八幡林古戦場は、犬山市羽黒八幡にある羽黒八幡宮周辺といわれています。野呂塚野呂助左衛門宗長と息子の野呂助三郎は、森長可を逃がすために奮戦しましたが、徳川軍に討ち取られてしまいました。二人をを顕彰するために建てられたのが、野呂塚です。この野呂塚は、八...
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いで、尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれました。楽田城(がくでんじょう)は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)にあった城で、永正年間に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わっています。小高...
犬山の瑞泉寺は、織田信長、豊臣秀吉らに崇敬され、尾張徳川家にも庇護された寺です。山門犬山城の門を移築したものといわれています。 当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶう ち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一...
天正12年(1584年)3月13日、徳川家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り、犬山城を占拠しました。犬山城は、木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固の城」で、別名「白帝城」とも呼ばれています。白帝城については、荻生徂徠が、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」にちなんで命名したと伝えられています。尾張と美濃の国境...
愛知県知多郡美浜町野間の大御堂寺(おおみどうじ)は、通称野間大坊として知られています。境内には、安養院で自刃した織田信孝の墓があります。織田信孝の墓また当寺は、源義朝ゆかりの寺として有名です。白河天皇の勅願によって承暦年間(1077~1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、源頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。大門は...
天正11年(1583年)、再度挙兵した織田信孝は、兄・織田信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏し、尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、自害させられました。大御堂寺の一院の安養院(あんよういん)「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」信孝が自害した「信孝自刃の間」があります。辞世の歌「むかしより 主をうつみの 野間なれば ...
天正11年(1583年)4月16日、一度は秀吉に降伏していた織田信孝の再挙兵に対し、羽柴秀吉軍は、美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫により大垣城に入ります。揖斐川大垣城柴田勢は佐久間盛政に攻撃を命じると、大岩山砦を守っていた中川清秀>が討死し、秀吉軍は苦戦を強いられます。佐久間盛政黒田官兵衛軍は、盛政の攻撃を撃退。盛政は次に岩崎山の高山右近を攻撃、右近は木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れました。盛政は、「大岩山陥落...
木之本駅から歩いて約5分の浄信寺は、通称「木之本地蔵院」と呼ばれています。本尊は地蔵菩薩(秘仏)。境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされ、眼の地蔵菩薩として信仰を集めています。地蔵菩薩大銅像身代わり蛙片目をつぶった蛙がずらり・・・天武天皇の時代、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりで...
大手橋を通って清洲城へ。清洲古城跡の五条川対岸に、平成元年(1989年)に天守閣が建てられ、ふれあい郷土館として郷土文化・文化・歴史・産業展示室を設け、芸能文化館・黒木書院、日本庭園・土蔵・大手門等が作られました。室町時代、尾張の守護職であった斯波義重が下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清洲城の始まりといわれています。戦乱により、下津城が焼失後、文明10年(1478年)守護所が清洲に移転することにより、清洲...
先月、久しぶりに織田信長ゆかりの地・清須を歩いてみました。織田氏の居城である清洲城(清須城)があったことで知られています。「きよす」の表記は、「清須」と「清洲」の両方が混在しており、歴史書によって異なります。弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって、守護代織田・信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城しました。桶狭間の戦いの際、信長はこの清洲城から出陣...
滋賀県大津市坂本の西教寺は、坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置しています。総門は、天正年間に明智光秀が坂本城の城門を移築したものと伝えられています。門前には、「明智光秀公と一族の菩提寺」という石柱があります。西教寺は、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山で、寺伝によると、聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。平安時代...
東山区梅宮町の「明智光秀の首塚」は、通称「光秀塚」とも呼ばれています。白川沿いを歩いて行くと、白川橋を南に下がった東側に「東梅宮 明智光秀墳」の石碑が見えてきます。ここを入るとすぐ左手に首塚があります。光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首...
山崎の合戦は「天王山の戦い」とも呼ばれ、羽柴秀吉の軍勢が、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎の地(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)において、明智光秀の軍勢と激突しました。天王山登り口から急な坂を登っていきます。宝積寺は、天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝わり、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した...
山崎の合戦(1)山崎合戦古戦場跡~明智光秀本陣跡~恵解山古墳
羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していましたが、6月3日に本能寺の変の報を受け、ただちに毛利軍との和議を結び、「中国大返し」と言われる驚きべき速さで備中から京都に軍を返し、6月13日、秀吉軍4万の兵力で山崎にて1万6000の明智光秀軍と戦いました。両雄がぶつかった「山崎合戦の地」は、現在は京都縦貫自動車道の高架下に「天王山夢ほたる公園」として整備され、広場には、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記さ...
碧南市浅間町に鎮座する浅間神社は、寛文9年(1669)吉左衛門家次が創建されました。天正10年(1582)6月2日の朝に「本能寺の変」の報を聞きつけた徳川家康。命からがら伊賀越えをして大浜経由で岡崎へ逃れる道中、家康一行は、碧南北部にある浅間神社近くに上陸しました。農民が「麦えまし」という食事を差し出されたところ、空腹に耐えかねた徳川家康は、浅間神社で食べたと伝えられています。浅間神社では、現在でも夏越祭で「麦...
加太越から白子に出て、船で三河の大浜へ。船を手配したのは、角屋七郎次郎秀持でした。角屋 七郎次郎(かどや しちろうじろう)は、伊勢商人・角屋家当主が代々名乗った名前。角屋は屋号。本姓は松本。寛永年中には「角谷」とも号する。なお、代数は、角屋七郎次郎秀持を初代とする場合と2代目とする場合がある初代 角屋七郎次郎 秀持 朝熊山の柴を集め、廻船で各地に販路を広げた。1575年(天正3年)4月、北条氏政が徳川家康に...
甲賀市信楽町多羅尾の伊賀越えの道4日目は小川城から神山に向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、柘植の徳永寺に寄りました。当寺で一泊した家康はその時のお礼に、田畑や山林を与え、葵紋の使用も許したといわれています。徳永寺葵の御紋入った瓦伊賀越えの新説ルート甲賀伊賀越え通過点の一か所とみている天台宗明王寺(甲南町磯尾)には徳川家康より四代の位牌があり、神君甲賀伊賀越えの新たなルートの拠点として近年注目を集めて...
滋賀県在住の歴女の友人が、伊賀越えの画像を送ってくれたので、「伊賀越え」についてまとめてみました。天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、織田信長が明智光秀軍に殺害されるという本能寺の変が勃発。信長の同盟者であった徳川家康は、その時堺に投宿していましたが、茶屋四郎次郎から変の報を聞いて、明智軍の支配下にある京都に上り、松平氏にゆかりのある知恩院に駆け込んで「追腹」を切ると言い出しました。しかし本多忠...
以前、岡崎市の法蔵寺の夏目吉信(広次)の墓について書きましたが、愛知県額田郡幸田町六栗の明善寺にも吉信の墓があります。夏目氏三代の墓右から、夏目吉信、夏目吉久、夏目吉為の墓夏目氏は信濃国伊那郡夏目村の地頭職が起こりである。中先代の乱に敗れ、吉良荘に逃れ、六栗村の中屋敷台地に夏目屋敷城(六栗城)を構え、古くから松平氏(徳川氏)に仕える譜代衆であった。夏目吉信永正15年(1518年)、夏目吉久の長子として、...
7/22(土)今年の大河ドラマは、松潤演じる「徳川家康」毎年、大河ドラマのゆかりの地へ旅行すると決めているので、いざ静岡へちょうどドラマは、1579年に起こった「築山事件」が先週。武田氏との内通を疑った織田信長の指示で、家康は嫡男である信康と、正室の築山殿を死に追いやる。浜松の佐鳴湖で有村架純ちゃん演じる築山殿が自害。ぐっとくるシーンでした。 夫テツ・・・・号泣(笑)そして今週はいよいよ本能寺の変岡田准一く...
長篠の戦いで大活躍し、徳川・織田連合軍を圧勝に導いた英雄・鳥居強右衛門は、愛知県豊川市市田町の出身といわれています。そこで、強右衛門追っかけ第二弾として、鳥居強右衛門生誕の地を訪ねてみました。名鉄八幡駅から歩くこと25分。松永寺というお寺があります。この付近には元々細川氏の築いた市田城があり、後に牧野氏一族の居城となったそうです。松永寺境内の東側には「烈士鳥居勝商生誕地」の石碑が建っています。石碑の...
建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点、応仁の乱の際は西方の陣地となりました。10月19日の大祭...
京都市バス、京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分、現在「京都国際マンガミュージアム」(旧龍池小学校)となっている建物の裏側に、「此附近 二條殿址」の石碑が立っています。二条殿は、もとは南北朝時代の公卿・歌人・連歌師であった二条良基の邸宅で、押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり、洛中洛外図屏風にも描かれており、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。信長は天正5(1577)年に移り住...
元々は清洲城下の現在地(旧北市場村)に總見寺がありました。現在の清洲の總見院は、慶長15年(1610)の清洲越しにより名古屋に移った總見寺址に再興した寺です。当寺には、織田信長の焼兜が寺宝として伝わっています。總見院の由緒によると、「織田信雄が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年(1583)に現在の地に「景陽山総見寺」を建立。しかし、慶長十五年(1610)「清須越し」によっ...
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。 本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。本堂信長公廟本能寺の変...
普段大河ドラマ見ないのに「どうする家康」は見ていて、気になったので行ってきました交通アクセス大曽根駅から、徒歩15分程度です遮るものがなく、非常に暑いので個人的にはバスをお勧めします!30分に一本程度と本数は少なめですが、徳川町バス停や森下
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。妙覚寺の山門本堂京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用す...
南宗寺の塔頭・天慶院の門前に、山上宗二の一会塚があります。山上 宗二は、千利休の高弟であり、茶匠としては豊臣秀吉に仕えていましたが、天正12年(1584年)に暴言を吐き、秀吉の怒りを買い、浪人に。この時に前田利家に仕えるようになりますが天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れました。その後は小田原に下って北条氏に仕えました。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの際には、利休の計らいで秀吉との...
南宗寺は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で、弘治3年(1557年)三好長慶が父元長の菩提を弔うために、大林宗套(だいりんそうとう)を迎え開山しました。本尊は釈迦三尊。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした寺院です。(画像提供:めりい)三好長慶の像(画像提供:めりい)天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による焼失後、当時の住職であった沢庵宗彭よって現在の場所に移転して再興さ...
堺は、戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われ、堺の有徳者(有力商人)で構成される会合衆が町を治めました。 1550年、宣教師フランシスコ=ザビエルが堺を訪れ、布教の許可を得るため、堺を拠点としました。戎公園は、ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に開設されました。「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑 (画像:Wikipediaより)当...
安土城南西麓の百々橋口から下街道を越え、南に数分行くと、セミナリオ史跡公園があります。この地の小字名「大臼」(だいうす)は、ラテン語で神を意味するデウス(Devs)の転訛と考えられ、セミナリオ跡は、織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校の跡とされています。現在は 安土城の外濠沿いに公園として整備されています。ここは、安土城天主から...
二の丸へと進んでいきます。二の丸址二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長本廟があります。ここからは、立ち入り禁止。ズームで撮ります。織田信雄四代供養塔次は本丸に進みます。本丸跡本丸は、礎石などから、京都御所の清涼殿と似た構造であったことが判明しており、天皇の行幸を想定した建物と考えられています。 本丸跡 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西...
天正10年(1582年)5月21日、徳川家康は、駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて降伏した穴山梅雪とともに居城・安土城を訪れ、大接待を受けました。安土駅から自転車で10分ほどで安土城に到着。登城ルートは、大手口から天守台を目指し、大手口に戻るルートです。大手口には、かつて大手門と東西2つの虎口が構えられていました。大手口駐車場近くに無料休憩所があり、その中に安土城の模型が飾られています。レンタサイクル...
数年前安土を訪ねました。安土のシンボルといえば、駅前の織田信長の銅像です!銅像の横には、「織田桜」があります。地下道を通って、駅の裏側に行くと、安土駅の南広場に「相撲やぐら」があります。元亀元(1750)年に織田信長が常楽寺で催した相撲興業が近代相撲の発祥と言われており、それを記念して昭和63年に建てられました。信長の相撲好きは有名で、安土城下で1500人もの力士を集めた大相撲大会を開催し、勝者へ優遇したこと...
近鉄長島駅より徒歩約10分、長島城跡に向かいました。長島城は、寛元3年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て、現在は長島中部小学校・中学校となっています。また、校内の「長島の大松」は、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定され、天然記念物、市の指定文化財になっています。長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。長島城の起源は、寛...
長島一向一揆は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(三重県桑名市長島町)を中心とした地域で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆で、織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こりました。歌川芳員『太平記長嶋合戦』濃尾三川(のうびさんせん)と呼ばれた木曾川・長良川・揖斐(いび)川の下流域は輪中地帯として知られ、15世紀中頃から一向宗の勢力が増し、長島の願証寺がその拠点となっていまし...
現在の報土寺がある静岡市葵区宮ヶ崎辺りに、新婚時代の徳川家康(松平元信)と瀬名(築山殿)が住んだ屋敷があったと伝わっています。駿府城の西側、浅間神社の南側にあたるエリアです。報土寺HPによると「開創当初は今川家の時代であり、京都から駿府に来ていた公家で歌人の冷泉為和が、度々報土寺で歌会を催していた記録が残っています。江戸時代になると、徳川家康公が政治の実権を秀忠公に譲り駿府に隠居したため、しばしば家康公...