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近鉄長島駅より徒歩約10分、長島城跡に向かいました。長島城は、寛元3年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て、現在は長島中部小学校・中学校となっています。また、校内の「長島の大松」は、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定され、天然記念物、市の指定文化財になっています。長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。長島城の起源は、寛...
長島一向一揆は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(三重県桑名市長島町)を中心とした地域で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆で、織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こりました。歌川芳員『太平記長嶋合戦』濃尾三川(のうびさんせん)と呼ばれた木曾川・長良川・揖斐(いび)川の下流域は輪中地帯として知られ、15世紀中頃から一向宗の勢力が増し、長島の願証寺がその拠点となっていまし...
戦国乱世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、何度か信仰がらみの事件に遭遇している。たとえば、領国・三河国で起きた「三河一向一揆」(1563-1564年)もその一つで、一揆衆側に味方する家臣も少なくなかったことで、この時は、当の家康自身が「命の危機」に晒さ
「応仁の乱」(1467-1477年)の大混乱もあって、室町幕府はほぼほぼ機能不全に陥ってしまったのだが、そうしたことに伴って、民衆による政治的要求活動、いわゆる「土一揆」が盛んになった。中でも本願寺(一向宗)の門徒・信徒たちが中心となった「加賀一向一揆」(1488頃-1
本願寺鷺森別院は、和歌山市鷺ノ森にある浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の西本願寺の別院です。天正8年から11年(1580年から1583年)には織田信長との和睦によって大坂の石山本願寺から退去した宗主顕如が当寺に滞在し、浄土真宗の本拠地として位置づけられていた。しかし、その後、豊臣秀吉の紀州征伐によって急速に衰退し、江戸時代には紀州門徒の支援によって、明和5年(1768年)に再興したが、第二次世界大戦には和歌山大空襲によって焼失した。現在の建物は1948年(昭和23年)に再建、その後改築されたものである。(Wikipediaより)専光寺の境内にある手水鉢。鷺森合戦の際、雑賀孫市が血の付いた槍を洗ったという伝説のある手水鉢なのだそうです。雑賀孫一(鈴木孫市)石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍...鷺森別院と雑賀孫市の血槍洗いの手水鉢
今日は京都の【東・西】本願寺について少し紹介します。 最初に僕は城においては幼少の頃より大好きでしたが、こと寺社などの宗教が関わる施設においては、新旧問わず敬遠しておりました。 しかし