メインカテゴリーを選択しなおす
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」 2026年の大河ドラマが、「豊臣兄弟!」とNHKから発表されました(2024/3/12)。主人公は、豊臣秀吉公の弟・豊臣秀長公で、仲野太賀さんが演じます。脚本は八津弘幸さんです。 本ブログの伯耆守は、黎明
やっぽ~(^O^)/きょうな☆です まずは前回の馬籠宿の続き 展望広場へやってきました。ここが馬籠宿の上限ですからね。 恵那山がよく見えます。 そして…
日時:令和5年11月13日 13時45分ごろ 住所:長野県長野市松代町清野 状況:ツキノワグマ1頭の目撃情報 特徴:成獣 現場:妻女山(標高411m)の散策路付近 動向:山頂方向に移動 ------------------------ 日時:令和5年11月15日 08時10分ごろ 住所:長野市松代町清野 状況:ツキノワグマ1頭の目撃情報 特徴:子グマ 現場:妻女山(標高411m)の散策路付近 ...
やっぽ~(^O^)/きょうな☆です 今日もさっさとお出かけネタの続きを! まずは歴史ある用水路が有る場所へやってきました。 ここは2022年に訪れているの…
赤塚の戦い 織田信秀の死後、信長が家督を継いだことから、1552年鳴海城の城主・山口教継(のりつぐ)とその子・教吉(のりよし)が、今川方に寝返る。山口教吉が守る鳴海城に向け、信長は軍勢800で出陣し、中根村(名古屋市瑞穂区)、小鳴海(名古屋
福島正則公像 福島正則公像 福島正則(1561‐1624) 尾張清洲城主、安芸広島城主、のちに信濃川中島4万5千石(高井野藩)に改易。尾張国海東郡二ツ寺村(現在の愛知県あま市)に生まれる。母が秀吉の叔母であった縁で、秀吉の近習に取り立て
清洲城1560年、駿河の今川義元の軍勢が尾張に攻め込み、松平元康が大高城に兵糧を運び入れ、5月18日には丸根・鷲津の砦に攻撃を開始した。その知らせを聞いた織田信長は、19日早朝、僅か6騎で清洲城を出て、熱田神宮へ向かった。ここから、織田信
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康は、息子・秀忠に征夷大将軍の位を譲り、「駿府の大御所」として大御所政治へ。家康が少年期と晩年を過ごした駿府にお出かけしてみてはいかがでしょうか。大河ドラマ館は、2024年1月28日(日)まで。
出石そばを堪能したあと、 駐車場🅿️を停め直して 出石城跡に行きました。 昔大阪に住んでいたころ、 城崎温泉方面へ行く途中に 何度か立ち寄ったことがあります。 トイレの前のこの木がいちばんきれいに 色づいていました。 本丸跡の上にも石段が続いていて 上にも人がたくさん上がっていましたが そこまではいきませんでした。 1枚目と4枚目に虹🌈が映ってる… 紅葉も🍁ほどほどで、 綺麗な景色を堪能しました。 maps.app.goo.gl このあと、お土産物屋を見て回ったりしましたよ。 もっと城下町?を 散策したかったですが、 駐車場🅿️が出石城趾の横だったので、 駐車場周辺のお店だけみました。 辰鼓楼…
桶狭間の戦い(桶狭間古戦場伝説地-豊明市)1560年5月19日朝、今川義元は沓掛城を大高城に向け出立した。昼頃、佐々政次・千秋四郎隊が桶狭間村で今川軍の先頭に攻撃を仕掛け討ち死にした。その知らせと、鷲津・丸根の砦での勝利を聞いた義元は田楽
桶狭間の戦い1560年5月19日朝、今川義元は沓掛城を大高城に向け出立し、おけはざま山に本陣を置く。そこで、織田信長の奇襲を受ける。今川方の旗本約300が義元を守り応戦するも、おけはざま山の西の深田際まで追い詰められ、服部小平太と毛利新介
前田利家公像前田利家公初陣之像とまつ像 前田利家(1539?‐1599)加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権五大老の一人。荒子城主前田利春(利昌)の四男として生まれ、幼名は犬千代。1551年頃から織田信長に仕え、尾張統一戦の萱津の戦いや浮野の戦い
沓掛城跡(今川義元最後の滞在地)沓掛城跡(本丸)沓掛城跡(二の丸)沓掛城跡(諏訪曲輪)1560年、駿河の今川義元は、尾張に攻め込み、沓掛城に入る。5月19日朝、沓掛城を大高城へ向けて出立した。その途中、桶狭間において、織田信長に攻撃され、
徳川家康公像若き日の徳川家康公像 徳川家康(1542‐1616)江戸幕府初代将軍。三河国を統一後、遠江国に進出し、岡崎城から浜松城に移る。29歳~45歳までの17年間を過ごし、浜松からは、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の攻略、小牧・
日本三大山城・岩村城本丸の六段の石垣右:太鼓櫓、左:表御門岩村城は、標高717mに築かれた日本一高い地にある山城。高取城、備中松山城とともに、日本三大山城に数えられる。遠山氏→河尻秀隆→森長可→松平氏→丹羽氏が城主となる。その佇まいは、和製
徳川家康像徳川家康像 徳川家康(1542‐1616)江戸幕府初代将軍。岡崎城で生まれるも、幼少期は、今川義元→織田信秀→今川義元の人質となる。「金陀美具足」を着用し、桶狭間の戦いの大高城兵糧入りを行う。今川義元敗死後、織田信長と同盟。三
国宝犬山城国宝犬山城犬山城天守犬山城 天守内犬山城天守内犬山城天守から木曽川を眺める犬山城城下町国宝犬山城は、1537年に織田信長の叔父・信康が築城した平山城。1617年に尾張徳川家の付家老である成瀬正成が入城し、明治維新まで成瀬家が城
足守エリアに設置された「もじ」あつめ イベントに参加してきました。 okayama-city-travel.com 足守地区の7か所の史跡などをめぐって もじを集めて、 並べ替えて言葉を完成させて 足守プラザでアンケートに答えたら、 メロンジュース引換券がいただけました。 フレッシュなメロンジュース🍈 冷たくて美味しかったです。 足守地区は、 ひな祭りの頃や紅葉🍁の頃に 何度も散策したことがありますが、 緒方洪庵生誕地は、 今回初めて行きました。 行くたびに発見があります。 参加費も無料。 施設の入場料も無料。 駐車場も無料ですので、 ウォーキングがてら、 お勧めイベントです。 こちらを押して…
【荒川区散歩】ジョイフル三ノ輪~JR常磐線第2三ノ輪ガード~池田屋敷跡、そして台東区へ!
2023年3月9日、今回の散歩は、ジョイフル三ノ輪(南千住1丁目)からスタート!八百權(南千住1-22-10)の前を通り・・・都電の三ノ輪橋駅を通り・・・JR常磐線第2三ノ輪ガード(南千住1-1)を抜けて・・・明治通りへ出ました。リサイクルショップ だいえい(台東区根岸5-21-5)お隣の建物がレトロ!危ない、危ない。見落とすところでした。「池田屋敷跡」(東日暮里1-17)旗本三千石池田播磨守屋敷は明治通りの南側で、北の宗対馬...
徳川家康の母・於大の方ゆかりの刈谷を訪ねました。「どうする家康」では、松嶋菜々子さんが於大の方を演じています。刈谷駅から椎の木屋敷跡へ向かう途中、於大通りという道を通っていきます。於大通りこの通りは於大の方由緒の地である椎の木屋敷跡へ通じる道であることから於大通りと命名されました。於大の方は、享禄元年(1528年)、刈谷城主・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城・緒川城(愛知県知多郡東浦...
熊野神社は戦国時代に牛久保城を築いた牧野氏が深く尊崇した神社で、亨禄元年(1528年)に牧野成勝が社殿を改築した記録があります。 古記録によれば、神社に伝わる木造狛犬は、天文7年(1538年)、 牛久保村、下長山村の氏子が造って奉納したものとされ、 県文化財に指定されています。(豊川市観光協会HPより)牛久保のナギ 熊野神社の森にそびえるこのナギの木は、高さ約20m、目通り3.5mの巨木で樹齢300年以上と推定されます...
千歳通に残る小さな廟は、第2代牛久保城主・牧野成定の墓所です。牧野成定は、牛久保城主・牧野 保成の後をうけて牛久保城主となり、早くから徳川方に属していました。永禄8年(1565年)家康が吉田城を攻めた際、成定は酒井忠次とともに今川方の説得につとめ、無血開城させるという武功をたて、家康の信任を得ました。墓碑は貞享元年(1684年)に曾孫により建てられ、鞘堂は昭和50年、牧野公奉賛会の手によって建立されたものです...
牛久保城は三河国宝飯郡牛久保にあった平城です。享禄2年(1529年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。以来、成勝、貞成、成定、康成の牧野氏4代にわたる居城となりました。牧野成定の時代の1561年(永禄4)に、前年の桶狭間の戦いで今川氏から自立して三河の平定に乗り出した松平元康(徳川家康)の奇襲攻撃を受けますが、この奇襲は失敗し、牛久保城はしばらくの間、今橋城(...
緑区の長福寺は、桶狭間の戦いにおいて敗死した今川義元の供養寺として知られています。 和光山天沢院(わこうざんてんたくいん)と号し、天文7年(1538年)善空南立上人によって創建された西山浄土宗の寺院である。寺伝に、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者となって率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。 本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主林阿弥が義元公供養...
承久元年(1219年)7月13日、都を揺るがす源頼茂の乱が勃発!源頼茂(みなもとのよりもち)は、源頼政の孫、源頼兼の子であり、大内裏中の内裏の警固を職務とする大内守護を職務としていました。源頼政源実朝の家司となるとともに、左大将・右大臣拝賀の際は鎌倉に赴いており、実朝と親しい武士でした。しかし、源実朝暗殺後、実朝の後継者・鎌倉幕府第4代将軍として三寅になることが決まり、頼茂は謀反の心を引き起こしたといいまま...
米原市の日撫神社(ひなでじんじゃ)は、旧近江町エリアの日撫山に鎮座する延喜式内坂田五社のひとつです。日撫神社のある地は、仲哀天皇の皇后である神功皇后の祖先が代々住まわれた地であるという事から、神功皇后はこの地を深く慕われていました。現米原市に祠を建立し、少彦名命と父である息長宿禰王を祀られたのが始まりとされ、後鳥羽上皇が度々参詣され、応神天皇を合わせて祀られました。承久の乱直前に後鳥羽上皇が訪れ、...
鎌倉市十二所にある明王院明王院は、寛喜3年(1231年)鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願された寺です。1218‐56(建保6‐康元1)鎌倉幕府の第4代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。公経の妻全子,すなわち頼経の外祖母は源頼朝の姪。幼名三寅。1219年(承久1)3代将軍源実朝が殺され,源氏の正統が絶えたため,頼朝の遠縁にあたる頼経が鎌倉に迎えられた。25年(嘉禄1)元服,翌年征夷大将軍に任ぜられ(摂家(...
長浜市下坂中町の下坂氏館は、室町時代初めから戦国時代まで続く「土豪」「地侍」と呼ばれる「村落領主」の屋敷跡で、北近江城館跡群の1つとして国指定史跡となっています。表門約90メートル四方の土塁と堀に囲まれた城郭遺構が残り、建物は江戸時代の建造ですが、戦国時代を思わせる主屋や門が残っています。下坂氏は、近江国坂田郡下坂庄の国人領主であり、(出自については諸説あり)建武3年(1336)の足利直義の感状があることか...
田村駅から徒歩5分ほどのところにある田村神社。由緒書きによると、後鳥羽上皇が近江国に御臨幸されたとき、正治元年(1199)、当地方に五社の神を勧請、当社はその一社であり、当時加田の荘下坂浜の荘と共に、七々村の産土神であったと伝えられています。その後、天正の兵火で一旦荒廃しましたが、後陽成天皇の代に古の社地に再建されました。現在の本殿は、寛政12年に建築されたものと記録されています。旧社号は、天王宮と称しま...
加田町の亀岡山上に鎮座する八坂神社は、寺伝によれば、正治元年(1199)後鳥羽上皇が名超寺に行幸の際、御祈願所として鎮座したと伝わります。後、兵火により焼失しましたが、花園天皇の代に、日像上人が再建。しかし、再度戦火で焼失し、大覚上人が改築、天正七年、三度目の兵火で灰燼に帰し、二年後に本宮の地に再建されました。拝殿明和9年、現在の地に奉遷され、安永三年社殿を中川文左衛門源正栄が造営したとあります。本殿...
名超寺の横には、後鳥羽神社があります。明治11年に明治天皇が大津に行幸された際、鳥羽上の里人達が名超寺に祀っていた後鳥羽上皇の木像を大津の行在所に持って行き、明治天皇にお見せしたことを機に、名超寺の客殿を現在地に移築して、木像を祀る神殿とし、「後鳥羽神社」という名にしたそうです。ゆえに、神社の社殿らしくないことがわかります。明治十一年、明治天皇御巡行の時、名超還寂、里人宮崎清平等は名超寺に奉祀されて...
飛鳥再訪で、石舞台古墳・岡寺・飛鳥寺を訪れました。飛鳥寺の仏様「飛鳥大仏」は日本最古の仏像です。飛鳥寺は2度の火災で建物が焼失し、仏様が野晒しとなっていた時期がありました。この仏様を大事に守リ続けたのが地域の人々です。
高野山の孔雀堂は、正治元年(1199年)、京都・東寺の長者の延杲(えんごう)が後鳥羽上皇の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、正治2年(1200)に落慶し、本尊の孔雀明王像が奉安されました。 昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。 正治二年(1200年)に安置された...
多宝塔国宝の多宝塔は、北条政子が源頼朝の逝去に伴い創建した禅定院の規模を拡大し、金剛三昧院と改めた際、造営することになったものです。建立は貞応2(1223)年、高野山で現在残っている、もっとも古い建立物で、多宝塔としても、滋賀県大津市の石山寺に次いで二番目に古いものだそうです。本坊庫裏大広間の襖絵は、室町時代中期(1400年代)に活躍した小栗宗丹(おぐり・そうたん)によるもので、金地著色梅花雉子図(こんぢ...
遊び、学べる歴史公園「築山跡史跡公園」 今回は、山口県山口市にある西国一の御屋形様、大内氏の築山跡(つきやまあと)を公園にした「築山跡史跡公園」をお届けします。 築山跡は、大内教弘の隠居後の屋敷地
応急処置に使う救急箱に常備するお薬は家族誰もが使えるもの、汎用性の高いものが理想です。そうした意味でも漢方薬はおすすめです。今回は、華岡青洲が考案した漢方の外用薬、火傷や切り傷に良い「紫雲膏」のお話です。
丸太町通堀川東入ルにあるマンションの一角に「高陽院邸跡」があります。高陽院(かやのいん)は、平安京にあった里内裏のひとつで、西洞院大路の西・大炊御門大路の北に位置する、南北4町の大規模な邸宅でした。鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が譲位した後の院御所となり、承久の乱につながる謀議を行ったところでした。承久の乱後の貞応2年(1223年)放火により焼亡、以後再建されませんでした。当初は桓武天皇の第七皇子・賀陽親王の...
五辻殿は、鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の院御所として使用された邸宅跡です。上京区五辻通に石碑と駒札があります。説明によると、五辻通浄福寺西入南側に建てられたものが、嘉楽中学校を経て、現在地に移されたとあります。 五辻殿は,後鳥羽上皇(1180~1239)の院御所(退位した天皇の住まい)として,元久元年(1204)から使用された邸宅であり,「三長記」(藤原長兼の日記)には「五辻南・大宮西・櫛笥(くしげの)末に位置したとあ...
設楽原決戦場 信長戦地本陣跡 (愛知県新城市) - 高速PA直結の本陣跡
設楽原決戦場散策その2は信長本陣跡へ。長篠の戦いを通じて何度か陣を移動した信長の、設楽原決戦における陣地です。 信長だから別記事、という思い入れではなくて、ここだけは場所が全然違って新東名高速の長篠設楽原PA下り線に直結だから別立てにしてみました。 PA直結でも下道からもアクセス可能。遠くの方も近くの方もアクセス便利な立地です。まぁ言うまでもなくあとから高速が近くに来ただけですけど。 長篠設楽原PA 信長本陣 アクセス 長篠設楽原PA 設楽原決戦場散策に続けて訪問。 信長本陣自体は、新東名での休憩で何回も看板を目にして気になっていましたが、なかなか寄り道する時間が取れず。下道からも訪問できるこ…
設楽原決戦場 (愛知県新城市) -武田軍対織田徳川連合軍 激戦の地
長篠城の後は、設楽原で古戦場巡り大きな戦いの地でさすがに広い。周りがいがありました。 今は石碑のみの場所ばかりですが、今の景色からも当時を想像しながら足がだるくなるまで散策しましょう。 1. 設楽原歴史資料館 2. 信玄塚 3. 岡部竹雲斎・岩手左馬之助胤英の墓 4. 首洗池 5. 勝楽寺 6. 家康本陣 7. 家康物見塚 8. 竹広激戦地 9. 山縣昌景墓 10. 小幡信貞墓 11. 甘利信康墓 12. 柳田前激戦地 13. 復元馬防柵 14. 内藤昌豊墓 設楽原歴史資料館 周辺散策へ 信玄塚・首洗池・勝楽寺 家康本陣・家康物見塚 山縣昌景・小幡信貞・甘利信康墓 復元馬防柵 武田勝頼公指揮の…
「奈良ゆかりの日展会員による特別書展」を機に飛鳥を訪れました。キトラ古墳と高松塚古墳、文武天皇陵、天武・持統天皇陵にも足を運びました。古墳めぐりのきっかけは「群馬HANI-アプリ」という埴輪育成ゲーム。古墳の知識がつまっています。
久しぶりに大阪北摂の辺りを車で通りました。阪急京都線沿線にあった京都大学農学部附属農場跡地も綺麗な遺跡公園になっていました。安満遺跡は、弥生時代の環濠集落(住居と倉を取り囲む環濠を備えたムラ)です。その周りには水田や集団墓地の痕跡も残っています。
かつて伏見には港がありました。豊臣秀吉が伏見城を築造する際につくられた河川港で、大阪との水運の拠点だったそうです。十石舟から酒蔵が並ぶ風景を見るのも中々の風情です。そして、高台の方へ向かって歩いて行くと明治天皇陵、その近くに乃木神社があります。
友人の誘いで常滑市へ行ってみました。愛知県の知多半島にある焼き物で有名な街です。「常滑焼」といって日本遺産にもなっています。「おばあちゃんの家とかに必ずあった赤茶色の急須、あれだよ。」と友人。その友人と「焼き物の街」を散策してきました。
日本最初の天神様「防府天満宮」 今回は、日本最初の天神様であり、菅原道真公を御祭神とする「防府天満宮幕末史跡めぐり」をお届けします。 過去に「防府天満宮」に関しての記事を書いていますので、今回は、広大な天満宮
高森本陣近くに宿泊していた吉田松陰 今回は、山口県岩国市周東町にある、江戸時代に藩主・役人・公家など、身分の高い人が宿泊した本陣の跡「高森本陣跡」と、その近くにあった吉田松陰の親戚岩本家に数回逗留した「吉田松陰宿泊の地