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令和5年9月14日(木) 【旧 七月三〇日 赤口】・白露・鶺鴒鳴く(せきれいなく)蒲殿《かばどの》がはてにしあとを弔へば秋風強し修善寺の村 ~正岡子規(1867-1902)Photo:源範頼(左)と源頼家 ~Wikipedia 昨年の大河ドラマでは迫田孝也が演じていた源範頼。遠江国蒲御
荏柄天神社(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、平安時代後期の1104(長治安元)年に天神を敬う里人が創建したと伝わる天満宮で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、大蔵御所(→神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目)の鬼門守護として崇められたといいます。神仏習合の頃は京都の東寺の末寺・一乗院(→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。『吾妻鏡』には、1202(建仁2)年9月11日に2代将軍源頼家が菅原道真三百年忌を行い、奉幣使として政所別当大江広元を...
長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で滅亡した比企一族の屋敷跡に比企能本(ひきよしもと)が開基し、日蓮が開山した日蓮宗の霊蹟本山寺院です。創建は鎌倉時代中期の1260(文応元)年と伝わります。比企能本(ひきよしもと)は比企能員の乱の前年に生まれた比企能員(ひきよしかず)の末子で、『吾妻鏡』には、比企能員の妻妾と能員の2歳(→数え年)の男子は助命され、和田義盛に...
最初の頃とは衣装がどんどん変わっていきましたね。偉くなった小四郎の衣装です。そうそうこんなこともありましたね(^^ゞ八田殿特製の小鹿富士の巻き狩りの時の頼朝の衣装政子の衣装もずいぶん豪華になりました続いて太郎の衣装です😄長身の坂口さんに似合いますね!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm...
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ大詰めを迎えることになった。ただ、こうしたドラマは視聴者に魅力・面白さを提供しないことには見てもらえないわけだから、その作り方もその方向に沿わざるを得ない宿命を背負っている。ということは、大河のような歴史ドラマ
先日の放送(12月4日)で、三寅というわずか二歳の赤ん坊が京から鎌倉に送られてきました。後の鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経です。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍で、九条頼経とも呼ばれています。九条道家と西園寺公経の娘・掄子の子として生まれ、生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言いました。両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠...
建保5年(1217年)6月20日、公暁は、18歳で鎌倉に戻り、北条政子の意向により鶴岡八幡宮別当に就任。同年10月11日からは裏山で千日参篭を行いました。鶴岡八幡宮は、1063年、源頼義が前九年の役の戦勝御礼として岩清水八幡宮を勧請し、由比郷に創建したのが始まりで、源頼朝が1180年に鎌倉入りした際、現在の地に移しました。一の鳥居、二の鳥居そしてこの三の鳥居をくぐり、本宮参道に入ります。 鳥居を潜ると、源平池が広がって...
鎌倉殿の13人も後半に近づいてきました。いよいよあの公暁が鎌倉に戻ってきます。公暁は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の三男。母は『吾妻鏡』によれば足助重長(加茂重長)の娘の辻殿、『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘。一幡は異母兄または同母兄、栄実は異母弟または異母兄、禅暁は異母弟または同母弟、竹御所は異母妹または同母妹にあたる。幼名は善哉(ぜ...
高野山の西室院は、もとは谷上院谷にありましたが、その後、南谷へ、明治時代に一心院谷の現在地の金光院跡に移転したそうです。こちらには、源頼朝の三男・貞暁が建てた源家三代の墓といわれる三基の五輪塔があります。江戸時代の絵図には4基の五輪塔が描かれており、「頼朝公」「頼家公」「実朝公」「二位殿」と、源氏三代に加え、北条政子の名前もあるそうです。 五輪塔は、以前は山門前にあったそうですが、現在は庭園「多聞...
方丈は、大玄関を介して本坊と連結しています。元々は、広島の安国寺にありましたが、安国寺恵瓊が、慶長4年(1599年)に建仁寺に移築しました。建仁寺には、大雄苑(だいおうえん)、〇△□乃庭(まつさんかくしかくのにわ)、潮音庭(ちょうおんてい)の3つがあります。方丈庭園の大雄苑は、白砂に緑苔と巨石を配した枯山水庭園。中国の百丈山の眺めを模して造られ、百丈山の別名が大雄山であることから「大雄苑」と名付けられたそ...
本坊の玄関を入ると、俵屋宗達の「風神雷神図」が出迎えてくれます。国宝「風神雷神図」屛風は、現在、京都国立博物館に寄託されており、レプリカが飾られています。方丈には、海北友松の襖絵が、キャノンの文化財未来継承プロジェクト「綴TSUZURI」による高精細複製品として復元、展示されています。「雲龍図」「竹林七賢図」「山水図」「琴棋書画図」花鳥図凪(鳥羽実花)金沢翔子さんの書大書院にもキャノンが3D印刷した風神雷神...
建仁寺は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。鎌倉幕府2代将軍・源頼家が栄西を開山として建立しました。建久2年(1191年)栄西は、宋より帰国。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であったため、初め九州博多に聖福寺を建て、後に鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)寿福寺を開山。その2年後の建仁2年(1202年)、源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済...
鎌倉殿・源実朝暗殺!!それは歴史をどう動かしたのでしょうか?鎌倉殿の13人 完結編 (NHK大河ドラマガイド) [ 三谷 幸喜 ]楽天で購入鎌倉幕府三代将軍・源実朝・・・その治世は、初めから血にまみれたものでした。1203年、二代鎌倉殿・源頼家、危篤に陥る・・・後継者に
伊豆の国市にある曹洞宗の信光寺は、武田五郎信光の開基です。武田氏は、清和源氏の源義家(八幡太郎)の弟・源義光(新羅三郎)を祖とし、義光の三代後の信義の時、武田氏を名乗りました。鎌倉幕府創建後、武田五郎信光が北条政子からこの地を賜り、12年間、居を置いたといいます。信光は、修禅寺に流されていた源頼家を見舞い、その帰路、頼家が暗殺されたことを聞いて出家し、頼家の菩提を弔ったと伝えられています。境内には、...
歴史に残る残虐な殺され方、温泉で悶絶死した頼家 先日、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、2代将軍「頼家」が暗殺されました。 毎回誰かしらが殺され、豪華キャスト演じる登場人物が一人また一人と居なくって
【鎌倉殿の13人】33話 ”修善寺” 頼家、善児 ネタバレあらすじと感想
33話では頼家と善児が散り、トウの思いも明らかになりました。『鎌倉殿の13人』後半は、良い人になると退場が近くなるという展開が続いています。義時の心の葛藤と希望の星である泰時、和歌を学ぶ実朝、時政とりく、政子と実衣の北条家のバトルも目が離せません。
伊豆の国市韮山の政子産湯の井戸の近くに、光照寺があります。もとは北条時政が源頼朝のために建てた館の跡で、頼朝の死後に寺になったそうです。伊豆には、頼家の面に伝わる伝承がいくつか残されています。頼家の病状を伝えるため、面に写して鎌倉に送ったという共通点はあるものの、面を刻むに至った理由については・北条氏が密かに温泉に漆を混入させ、頼家の全身をかぶれさせた・単に伝えるための2種類が認められ、面を届ける...
修禅寺に幽閉されていた源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々は、笠冠地蔵を建立しました。元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の袂に移されました。幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘で月を眺めてその憂さを晴らしたり、里の子どもと遊びながら、鎌倉に残した息子・一幡に思いを馳せていたといいます。23歳の若さで無...
横瀬八幡神社の境内には、源頼家の母・北条政子の悪病平癒の伝説を持つ『孔門石(紅門石)』または『玉門石』と呼ばれる女陰の石尊がまつられており、女性特有の病や子宝開運のご利益があると言われています。こちらの祠の中にあるのですが、石の姿は見えません。横瀬八幡宮縁起兼ねて修善寺温泉に湯あみしける徒然に横瀬八幡宮に詣うで、ゆかりある祠にてめづらかなる世のまれごとを伝えたり此所は、狩野川と桂川との合流点にあた...
建仁3年(1203年)5月19日、源頼家は叔父の阿野全成に謀反の疑いありとして捕らえ、その後、誅殺しました。史料でわかるのは、この事実だけ。なぜ謀反の疑...
鎌倉殿の13人 第29話「ままならぬ玉」 ~北条と比企の対立
今回は比企の乱の序章の回でしたね。梶原景時失脚後、北条時政と比企能員の対立はますます深まっていきます。源頼朝の存命中は鎌倉殿の舅という立場で幕府内の存在...
鎌倉殿の13人 第33話「修善寺」 ~時政の執権就任と頼家の最期~
源頼家が伊豆国修禅寺に送られたあと、鎌倉幕府の実権は北条時政が掌握しました。三代鎌倉殿となった源実朝は、建仁3年(1203年)9月10日、北条政子の御所...
鎌倉殿の13人 第32話「災いの種」 ~頼家の鎌倉追放と実朝政権発足、そして一幡の死~
比企の乱によって幕府内の権勢を手中にしたかに思えた北条でしたが、想定外の事態が発生します。危篤状態にあった源頼家が、奇跡的に回復したんですね。比企一族の...
【復習26】鎌倉に賭けた男(鎌倉殿の13人、7/3~x/xx放送)
【復習】(7/3)悲しむ前に 相模川の橋供養の帰路、落馬した頼朝(大泉洋)は意識を失ったまま年を越しても、一向に回復の兆しは見られなかった。 ポスト頼朝を巡っ…
【予習28】「エースで四番」といわれた男(鎌倉殿の13人、9月ごろ放送)
NHKの公式ガイドブックをもっていないので、八九月のストーリー展開や進捗状況は知らないが、関東比企連合と伊豆北条組の抗争終了後、キーマンとなりそうな人物を見…
【復習27】ゴッドマザーの一族(鎌倉殿の13人、8/7~28放送)
【復習】(8/7)全成の確率 北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)の依頼で、不承不承ながら頼家(金子大地)の呪詛をさせられていた阿野全成(新納慎也)。その…
修善寺の横瀬八幡神社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、祭神は不詳、相殿は源頼家です。元々は現在の場所より200mほど東側にある月見ヶ丘にありましたが、のちに現在の場所に社殿を建立し、源頼家の束帯の立像を作り、廟(みたまや)とし、八幡と称しました。2017年、道路の拡張のため境内の一部が削られた際、鳥居と神橋が撤去され新たに鳥居が奉納されました。(撤去された鳥居と神橋は本殿の横に置...
十三士の墓は、頼家の墓近くにあります。頼家の家臣十三人が、頼家が殺された6日後に謀叛を企てたものの、挙兵前に発見され、全員殺されたと伝えられています。北条氏との確執で、病気を理由に修禅寺に配流された頼家は、元久元年(1204)7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。...
源頼家の墓は、鹿山のふもと源氏公園内の指月殿の隣にあります。正面に立っている石碑は、元禄16年(1703年)頼家公500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑で、墓は記念碑の裏にある小さな五輪石塔で、それぞれ頼家、側室の若狭の局、子の一幡のものといわれています。 毎年7月下旬ごろの『頼家まつり』では、頼家公行列と墓前供養が行なわれます。正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった...
修禅寺の山門から川を挟んだ対岸にある指月殿は、修善寺で暗殺された源頼家の冥福を祈って母の北条政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれています。その際、政子が寄進した経典の一部は、修禅寺の宝物殿で展示されています。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれています。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されていますが、持ち...
修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、源頼家最期の地「修善寺」!悲運の将軍を祀る指月殿と頼家の墓です。
修善寺の筥湯(はこゆ)は、鎌倉幕府二代将軍、源頼家が入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉したという伝説の名湯です。伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて桂川沿いに7つの外湯があり、それぞれが浴客で賑わっていました。しかし昭和20年代には「独鈷の湯」だけになったといわれてます。平成12年に筥湯がオープンし、外湯が復活。檜造りの湯舟には掛け流しの湯があふれ、修禅寺温泉の情緒を味わえます。修善寺...
修善寺を散策中、お昼近くになったので、ランチ休憩を取ることにしました。温泉街を歩いていたら、「独鈷そば大戸」と言うお店を発見こちらのお店は、蕎麦のメニューは「かけ」か「ざる」の2種類のみという蕎麦好きにはぴったりのお店です。看板メニューの独鈷ざるそば(1320円)を注文。地元産の本わさびがまるまる一本付いたセットで、余ったわさびはお持ち帰り用の袋に入れて持って帰ることが出来ます。自分で少しずつすりおろ...
目覚めたら以前とは違う世界になってしまった頼家(金子大地)。たとえ母上の言うことでも信頼できないだろう。自分を支えてくれていた比企一族の滅亡。頼家が死んでも一幡を支えてくれると思ったはず。起こってしまったことは、隠せない。それだけ大きな出来事だった比企氏
指月殿の裏手の山を登って行くと「岩谷観音とおしゃぶり婆さん」が、祀られている祠があります。なかなかの急な山道なので、350mといってもバカになりません。しかも、この日は雨上がりでしたので、滑りやしないかとハラハラしながら登りました。この鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。この下の谷のことを「観音洞」と呼...
竹林の小径から指月殿へ指月殿の横には、源頼家の墓があるのですが、その階段下に『お伺い石』という石があります。 この石には不思議な力があり、石の重さで、自分の願いが叶うか叶わないか占う事ができるといわれています。戦前にはこの占いは盛んに行われていましたが、次第に廃れていったため、再度占いができるよう修復し、現在の場所に移設されました。指月殿の中には、釈迦如来像が安置されており、その右手に持っている蕾...
修善寺の竹林の小径は、修善寺温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道。平成6年(1994年)から3年間を費やして整備されたそう。小径内の無料で見学できるギャラリー「しゅぜんじ回廊」では、修善寺の四季の様子を写真で紹介しています。この時は、ちょうど「源頼家」展をやっていました。大きなタケノコ見っけ!竹林の中央エリアには、大きな竹の円形ベンチがあり、休憩スポットとなっています。竹林の中から、八重さんが現れました...
赤蛙公園は、修善寺温泉街の西の端、滝下橋のほとりにある小公園です。昭和19年に作家の島木健作が病気療養のため修善寺を訪れた際、桂川の中州から向こう岸に渡ろうとする1匹の赤蛙に目が留まり、短編 「赤蛙」の構想を得たところといわれています。島木健作小説家。明治36年9月7日、札幌生まれ。本名朝倉菊雄。2歳のとき父を失って一家は離散し、苦学しながら20歳で北海中学を卒業、東北帝国大学法文学部の選科に入ったが、東北...
修善寺の桂川にかかる5つの橋は、上流から滝下橋、楓橋、桂橋、虎渓橋、渡月橋といい、などそれぞれ別名が付いています。滝下橋(たきしたばし) 別名:安らぎ橋赤蛙公園の近くの橋が滝下橋で、橋が朱色ではありません。夫婦円満のご利益があるといわれています。北条義時ゆかりの地の幟が飾られていました。渡月橋(とげつばし) 別名:みそめ橋渡月橋は良縁祈願のご利益があるとされています。虎渓橋(こけいばし) 別名:あ...
独鈷の湯(とっこのゆ)は、修善寺温泉の修善寺川(桂川)の川中にあり、伊豆最古の温泉ともいわれています。大同2年(807)、修善寺を訪れた空海は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の心に打たれ、「川の水では冷たかろう」と持っていた独鈷杵で川の岩を打ち、霊泉を湧き出させました。その湯に浸かったところ、十数年来の父親の病気はたちまち完治させることができたといいます。これにより、温泉療法が広まり、修善寺温泉が...
妙本寺の境内に、源頼家の娘・源媄子(よしこ)の墓があります。寺伝によると、鎌倉幕府2代将軍 源頼家と比企能員の娘 讃岐局との間に生まれましたが、比企の乱で一族が滅ぼされました。生き残った媄子(よしこ)は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方となりま...
妙本寺の方丈門のところに境内の案内図があります。ここから門に入らず脇の細い道を進んで行くと、階段があり、これを上って行くと、蛇苦止堂というお堂に辿り着きます。比企の乱で、井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され、蛇苦止堂(じゃくしどう)に祀られたといいます。比企の乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦し...
妙本寺の境内には比企一族の墓と一幡の袖塚があります。比企一族の墓北条時政は、娘・北条政子と組み、源頼家を亡き者にし、千幡(後の実朝)を次期将軍に立てようと画策。1203年、頼家が病気になると、時政は一幡(源頼家の嫡男で、母は若狭局(比企能員の娘)に関東二十八区に地頭職と日本国総守備職を、実朝には関西三十八国地頭職を相続させました。 これに不満を抱いた比企能員は、頼家と組み、北条氏を打倒することを決意。...
鎌倉の妙本寺の立つこの辺りは比企が谷といい、鎌倉時代には比企能員や比企尼をはじめとする比企一族が住んでいました。懐妊した北条政子は、比企の館に入り、万寿(後の源頼家)を出産。比企一族と頼朝の絆は、さらに深まっていくのでした。総門しかし、建仁3年(1203年)9月2日、2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされてしまいました。唯一、京都にいて難を逃れた比企能員(よ...
【来週8月14日の鎌倉殿の13人】第31話 倒れた頼家 助かる見込みは…源仲章・生田斗真つい
「鎌倉殿」時連改名で「トキューサ」爆誕!ネットは大喜利状態 - デイリースポーツ デイリースポーツ NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第3…
阿野全成の幼名は今若。7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。頼朝の死後、嫡男の源頼家が...
この大泉寺には全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。またその切り株は、お寺で保存されて...