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埼玉県狭山(さやま)市入間川(いるまがわ)の河岸段丘(かがん・だんきゅう)上に所在する、城山砦跡を探訪しました。※概要は↑現地解説板を以下に転記させて頂きましたので、御参照くださいませ。狭山市指定文化財城山砦跡 所 在 地:埼玉県狭山市柏原2346番地ほか指定年月日:昭和48年(1973)3月1日 城山砦跡は江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、天文年間に山内上杉憲政(やまのうち・うえすぎ・のりま...
小田原駅からも小田原城から徒歩で20分ほどのところにある北条稲荷。その名の通り、北条氏ゆかりの神社です。北条3代・北条氏康が亡くなったのは、小田原城内で死んだ老狐の霊が家臣に乗り移り、身辺に不幸を起こしたからだろうと考えた氏康の子・北条4代・北条氏政が城内に老狐の霊を祀って供養をしたのが北条稲荷の起こりと伝えられています。 (諸説あり)北条氏康Wikipediaによると「夏に氏康が高楼で涼んでいると狐が鳴き、こ...
数年前、小田原の町を散策しました。小田原駅小田原駅の前には、北条早雲像が立っています。北条早雲後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したが,入道して宗瑞と号した。出自は不明で,室町幕府政所執事伊勢氏の一族とも,鎌倉幕府執権北条氏の子孫ともいい,出身地も伊勢,京,備中などの諸説がある。応仁年間 (1467~69) 今川義忠を頼って駿河に下向し,義忠の死後国内が乱れたときにこれを平定し,興国寺城主となった。延徳3 (91)...
永山諏訪神社(→東京都多摩市諏訪1丁目)は、室町時代に武蔵国守護代で由井城主の大石信濃守顕重(おおいし しなののかみ あきしげ)が諏訪大社(→長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町)を勧請し、大風(→台風)除けの守護神として崇敬されたと伝わります。永山駅周辺は由井領(→国衆大石氏の領国)に含まれ、戦国時代の1559(永禄2)年11月には、北条氏照(→北条氏康三男)が養子縁組の形で大石氏の家督を譲られ、氏照の奉行人として付けられた家老...
関戸城跡(→東京都多摩市桜ヶ丘1丁目)は、金比羅宮付近の「天守台」と呼ばれた地域にあった中世の軍事施設跡です。多摩市教育委員会が設置した標柱には「一帯の山を城山」といい「物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙(のろし)などで知らせる通信拠点であった」と記されています。「天守台」は江戸時代になってからの呼び名ですが、江戸時代に関戸城はなく、この場所に天守閣が存在したことはありません。1213(建暦3)年の...
吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ケ丘4丁目)は、南北朝時代の1390(明徳元)年に真言宗の僧・念阿によって創建されたと伝わります。1441(嘉吉元)年に念阿が死去したのち廃寺となったようですが、戦国時代に武蔵守護・扇谷上杉氏の被官(もしくは国人領主)といわれる佐伯一助道永が菩提寺として再建し、日舜宗栄を中興開基として曹洞宗に改めたといいます。なお、関戸郷は「松田盛秀判物」から、1555(天文24)年1月までには小田原北条氏の...
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 05.続・里見義堯
翌年の1538年(天文七年)、里見義堯は、第一次国府台合戦では、足利義明を大将とし、北条氏綱と戦った。 しかし、足利義明は、里見義堯の戦略を聞かなかったため…
荏柄天神社(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、平安時代後期の1104(長治安元)年に天神を敬う里人が創建したと伝わる天満宮で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、大蔵御所(→神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目)の鬼門守護として崇められたといいます。神仏習合の頃は京都の東寺の末寺・一乗院(→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。『吾妻鏡』には、1202(建仁2)年9月11日に2代将軍源頼家が菅原道真三百年忌を行い、奉幣使として政所別当大江広元を...
祇園山 安養院 田代寺(→神奈川県鎌倉市大町3丁目)は、鎌倉時代前期の1225(嘉禄元)年に、北条政子が亡夫・源頼朝(→鎌倉幕府初代将軍)の菩提を弔うために僧願行を開山として笹目ヶ谷(ささめがやつ→鎌倉市笹目町)に創建した浄土宗寺院です。創建時は「祇園山 長楽寺」という名前の真言律宗寺院でしたが、同年7月11日に北条政子が死去したため、導師(どうし→葬儀を取り仕切る僧)を務めた願行が、政子の法名「安養院如実妙観大禅尼」か...
南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、平安時代末期の1181(養和元)年に源頼朝の祈願所として、僧の文覚(もんがく)が開山した真言宗大覚寺派寺院です。文覚は俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、後白河法皇や源頼朝に重用されたもと北面の武士(→院御所を警固する武士)で、1180(治承4)年に平氏打倒を命じた後白河法皇の院宣を頼朝に仲介し挙兵を促したとされる僧侶です。昨年のNHK大河ドラマ「鎌...
延命山 長松禅寺(いわゆる長松寺→神奈川県川崎市多摩区菅北浦3丁目)は、戦国時代に仙谷山 寿福寺7代目住職の南樹が創建した臨済宗建長寺派寺院です。延命山の山号は、この地が北浦耕地延命場と呼ばれていたことに由来します。南樹は1554(天文23)年4月26日に死去しているので、創建は小田原北条氏の3代目北条氏康の治世に領主佐保田山城守のもとで行われたことが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により仙谷山 寿福寺(→神奈川...
宝林山 運昌院 泉澤寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中7丁目)は、戦国時代前期の1491(延徳3)年に世田谷城主吉良頼高(きらよりたか)が世田谷領烏山(→東京都世田谷区千歳台、旧廻沢町)に開基した自身の菩提寺が前身の浄土宗寺院です。開山は僧の好善と記されます。世田谷吉良氏は武蔵守護扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の有力国衆でしたが、1546(天文15)年の河越合戦で扇谷上杉氏が北条氏康に滅ぼされると北条氏に従属し、北条氏...
瑠璃光山 薬王院 長福寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中6丁目)は大日如来を本尊とする真言宗智山派寺院です。創建の詳細は不詳ですが、過去帳(→故人の俗名・戒名・死亡年月日などを記した帳簿)に戦国時代中期の1554(天文23)年7月18日に死去した良僅という僧侶の名が記されているため、戦国時代には長福寺、もしくは前身となる寺院が建立されていたことが分かります。1554(天文23)年頃のこの辺りは小田原北条氏(→当主は3代北条氏康)...
楽しい日本史 -戦乱と泰平の世へ- 20.東北地方・関東甲信越地方の戦国時代
戦国時代の東北地方、関東甲信越地方の変遷東北地方では伊達政宗の大きく躍進、北条早雲の下剋上から北条氏康、武田信
惺誉山 蓮慶寺(→東京都調布市布田2丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣・中条出羽守が開基、池上本門寺の12代住職日惺が開山た日蓮宗寺院です。寺伝によると当地に古くから存在した真言宗閻魔寺を、1532(天文元)年に中条中条出羽守が日蓮宗寺院に改宗して開基したといいます。しかし、北条氏康が河越合戦で武蔵守護の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を滅ぼして布田郷に進出するのは1546(天文15)年のことなので、創建はそれ以降のこと...
長谷山 祥泉院(→神奈川県横浜市青葉区みたけ台)は、戦国時代前期に玉雄山 宝泉寺(→神奈川県藤沢市遠藤)の2代住職・碧岑東全が開山した曹洞宗寺院で、江戸時代には本山・末寺の制により玉雄山 宝泉寺の末寺となりました。祥泉院の開基は、寺伝によると鎌倉公方足利氏の家臣で中鉄村(なかくろがねむら)の領主村田太郎左衛門祥本と伝わります。ただ、碧岑東全と村田太郎左衛門祥本が死去した1548(天文17)年の頃、鎌倉公方は下総古河城...