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九月の末に、こども会から、俄を作って教えてもらえませんかと依頼があった。子ども俄は、うちの息子が演じて以来だから25年ぶりになる。しかも、祭りまで一ヶ月もない。俄なんて、その名の通りすぐに出来るだろうという感覚らしい。「それで、出演者はどんなメンバー?」「とりあえず、男女2名ずつくらいで」「とりあえず……では、台本を書かれへんがな!」毎年続けていないと、俄がどういうものか分かっていない人間が増えて来る。「もっと早く、夏休み頃に言うてきてーな」とぼやきつつも承諾。その日の夜に、6年生の男子2名でお願いしますとメールがあった。2名のやりとりは漫才になりやすい。十年ほど前に大人2名用のを書いたのがあったので、そいつを子供用にリメークして、次の日に渡した。すると、その夜に年長の男の子が出演したいと言って来たとメー...俄38/子ども俄2024
若いころ、祭で俄をすることになったとき、村のお年寄りに、「しっかり遊んどいで」と言われた。俄は演劇の一種だが、「演じる」のではなく、「遊ぶ」なのだ。子どもたちが、輪にしたヒモの中に入り、電車にみたてて「出発!ガッタンゴットン・・○○駅です」とやる電車ごっこ。お母さんやお父さんになったつもりで「行ってらっしゃい」「ただいま」「ご飯が出来たよ」とやるままごとなどの「ごっこ遊び」と「にわか」は同じなのだ。子どもは、たんに、「何かにみたてる」「何かになったつもり」「何かをしたつもり」を繰り返し楽しんでいるだけで、演じるという気持はない。それでも、子どもが楽しく遊んでいるのを見ると、見ている大人も楽しくなる。俄は自分だけでなく、見ている人も楽しくさせる遊びなのだ。俄の命は〈遊戯性〉にある。宴会のかくし芸用に一人俄を...俄37/俄ごっこ
江戸時代に書かれた『古今俄選』にある俄の技法をいくつか紹介する。※は筆者注。【あぶら】俄の最初から終わりまで、出放題で言葉で引っ張ることだ。※理屈の通らないことを次から次へと連発(出放題)すること。やすきよの漫才のようなものだろう。【なえこ】おかしみを出すために、下をなやして言葉を遣うこと。※「なやす」とは「力を抜く」ことで、阿呆のような間の抜けたしゃべり方をすること。藤山寛美の「あほぼん」のしゃべり方だ。【でたらめ】はだかにて出る俄に多し。※「はだか」とは文字通りの「裸」の意もあるだろうが、役柄として演じず、地のまんまのこと、アドリブだろう。以上を踏まえたうえで、次の【俄の稽古の事】を読んでいただきたい。座敷で充分に稽古をして出演すれば「でたらめ」もよく効いて面白い。稽古が不足している時は、「あぶら」が...俄36/台本にない笑い
「俄」は、地域共同体のメンバーが他のメンバーを相手に、地域共同体の皆に演じる祝福芸である。俄の面白さは〈素人性〉と〈方言性〉という〈土着性〉にある。A:おい、八兵衛!B:なんじゃい?A:われとこの嫁はんのお六さん、このごろ太ったんとちゃうか!B:ええ?さよか?A:ええもんばっかし食わしてたらあかんで!B:ええもんみたい食わしとるかい!A:せやけど、腹がえらい膨れてきよったと、ここらのもんが言うとるで!B:ちゃうがな、子ぉーでけたんや。A:ええ、どこでこーろげたんや?B:転ろげたんやなしに、子が出来よったんやがな。A:ええ、八とお六がエエことしてお三(産)かいな!B:ややこしものの言いよさらすな!A:ややこしいけど、ややこ欲しいやろ!B:またニワカ(駄洒落)かい!A:ええもん食わしたり。B:われ、先っきええ...俄35/聖なる俄
楠木正成が、多くの人々に親しまれるようになったのは、江戸時代初期、南北朝の争乱を描いた『太平記』の注釈書『太平記評判秘伝理尽紗』が成立してからだ。大名・武士・儒学者にとって正成は、理想の政治家・指導者、兵学者だった。やがて、この『太平記評判秘伝理尽砂』を台本にした「太平記読み」が民衆にも広まり、17世紀後半には講談に発展する。民衆にとっての正成は、天皇に尽くす忠臣ではなく、権力に対して反逆し、強きをくじき弱気を助ける正義の味方だった。反体制のシンボルとして、由比正雪や大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりとして歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなった。この楠公像が一転したのは、『大日本史』を編集した徳川光圀が、1692年、湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立してからだ。その後、水戸藩士の会沢正志斎が『新論』を著し、万世一系...俄34/大楠公
明治時代の下水分社(美具久留御魂神社)氏子町関連の年表である。明治元年(1868)神仏分離令廃仏毀釈明治5年(1872)富田林尋常小学校(興正寺別院)明治6年(1873)新堂尋常小学校・富田林に芝居小屋明治8年(1875)喜志尋常小学校開校(明尊寺」明治22年(1889)河南橋架設美原太子線開通明治22年町村制の施行=富田林村・新堂村・喜志村(単独村制)明治27年(1894)日清戦争明治31年(1898)河陽鉄道開通道明寺-富田林、国道170号線・楠公道路開通・高野鉄道堺東-長野間開通明治35年(1902)河南鉄道長野線開業明治37年(1904)日露戦争明治39年(1906)神社合祀下水分は40年合祀鉄道と道路の開通は富田林を大きく変えていく。駅前が繁華街になり、新しい道路にそって家が建っていった。上の地...俄33/神社合祀
「歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ」で使われた俄です。[番場の忠太郎・小浜(母)・お登世(妹)](下手から忠太郎が登場)忠太郎母の面影瞼の裏に、描きつづけて旅から旅へ。昨日は東と訊いたけど、今日は西だと風便り。縞の合羽が涙に濡れて、母は俺らをどうして捨てた。恨む心と恋しい想い。宿無し鴉の見る夢は、覚めて悲しい幕切れさ。生れ故郷も遥かに遠い、母恋い番場のこの俺さ。もしやもしやと逢う度毎に、尋ね尋ねてやって来た。此処はお江戸の柳橋、人に知られた水熊よ。ご免めんなすって、おかみさん。(上手から小浜が登場)小浜中へ入って、用があるんならさっさと言っておくれ。わたしゃ忙しいんだから。忠太郎ご免こうむります。(敷居を越えて下手に坐り、しばらく何も言えずにいる)小浜何とか云わないのかい。用があって来たんだろう。忠太郎おかみ...俄32/瞼の母
以下の文章とスケッチは、川面出身の鶴島輝雄さん(故人)がかかれたものである。戦争が終わって軍国色が一掃されると、それまで自粛を強制されていた盆踊りや祭りが爆発的な勢いで復活した。この絵は昭和二十二年頃(一九四七)の、秋祭りにおけるだんじりの宮入りを示している。この当時、二〇台に近いだんじりが繰り出した。青年団が祭りを取り仕切り、九月中旬から〈にわか〉の練習に励んで、十月十八日の本祭りの日、神社の境内で〈にわか〉を奉納した。だんじりの周りには〈にわか〉を見る人で溢れていた。昭和十年刊の喜志尋常高等小学校〔現代の中学1・2年〕『学びの栞』の中に次の記事がある(国立国会図書館デジタルより)。(十月)十七日神嘗祭(かんなめさい)この日初穂を皇太神宮にお供へになり、勅使が立たれます。宮中でも、賢所でおごそかな祭典を...歴史36/祭りじゃ俄じゃ補筆
※連載ものです。①から順にお読みください。大歓声、大爆笑の中で、ハプニングがおこった。娘のお登勢(ミッツォはん)が母親の小浜(彦やん)に、なぜ兄を引き止めなかったのかと言い諭す場面だ。台本では「それでもあなたは母ですか」という一言なのだが、ここが見せ場だとミッツォはんもセリフを増やしていた。「それでもあなたは母ですか。子を持つ親というものは、そんな邪険なものでない。母に捨てられ父には死なれ、広い世間にただ一人、そんな兄さんを一人で返す親はない。たった一人の兄さんとともに涙を流したい」冬の場面設定に加えて、生娘なので付け下げを隙間なく着こんでいる。きりりとした顔で母を見つめて「それでもあなたは母ですか」まではよかった。ところが、西日がまともにあたって暑い。たらりと汗が流れる。「子を持つ親というものは・・・」...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑨
※連載ものです。①から順にお読みください。南河内に心地よい秋風が吹きだした。稲穂がそよいで金色に揺れる中を、十年ぶりに太鼓の音が響く。今の地車囃子には小太鼓と摺鉦(すりがね)が入るが、昔は大太鼓だけだった。揃いの法被も無く、各自が自由の服装でよかった。当時の秋祭りは曜日に関係なく10月16日(宵宮・試験曳)、17日(本宮・渡御)、18日(後宴祭・地車宮入り)の三日間と決まっていた。天候にも恵まれ、宮さん(美具久留御魂神社)の境内は、富田林中の人々が集まったのではないかと思うほど、秋祭りを心待ちにしていた人々でうまった。楠公崇拝の神社で戦中の風が残っているのか紋付袴の人もいる。女性はモンペ姿ではなく、着物を着た中にスカート姿が目立つ。終戦まで宮さんは高等小学校だったので、下拝殿の前は運動場として整地されてい...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑧
※連載ものです。①から順にお読みください。徳ちゃんが一週間かけて読んだ台本を皆が書き写し、それを照らし合わせて一つの台本が完成した。コピーなんぞは無かった時代。完成した台本を順ぐりに一人ずつ書き写す。一回りした頃には、誰もがすべてのセリフを覚えていた。田んぼの真ん中で「母の面影瞼の裏に、描きつづけて旅から旅へ。昨日は東、今日は西、尋ね尋ねてやって来た・・・」と一人芝居をやっている。見回すとあっちでもこっちでもやっているものだから、負けてはならぬと余計に練習に熱が入る。いよいよ配役を決めることになった。希望など採るまでもなく、全員が主人公の番場の忠太郎だった。我々子どものヒーローがウルトラマンなら、春やんたちのヒーローは、番場の忠太郎であり中乗り新三だった。祭事で内輪もめはよくないというので、徳ちゃんに決め...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ➆
※連載ものです。①から順にお読みください。小学校の高学年ともなると、少し大人になるのか、体温調節機能が少しずつなくなって寒い。そこで、金剛山が白くなるような日は、町内の集会所で遊ぼうということになる。集会所といっても、木造平屋・瓦ぶきの建物で、暖房も無いから気温は外とさほど変わらない。ただ、雨風はしのげるので寒い日の格好の遊び場になっていた。当時は、どこの家も戸の鍵を締めなかったから、会所も鍵がかかってなくて出入りは自由にできた。20畳ほどの広間があるだけで、これといった遊び道具は無かったが、何十枚とある座布団をビー玉に見立てて陣取りしたり、瓦に見立てて瓦当てしたり、座布団で三角ベースをつくってピンポン玉を打って野球をしたり、無いなら無いなりに遊びを考えた。一通りで遊んで、最後は必ず座布団投げになった。一...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ➁
※連載ものです。①から順にお読みください。徳ちゃんのオッチャンから台本を見せてもらったが、達筆すぎて読めない。それで、徳ちゃんに読んでもらったのを皆で紙に書き写すことになった。晩飯を食べて会所に集まる。本来ならば縄を編んだりして夜なべの作業をしなければならないのだが、「俄の稽古に行ってくるわ」と言うと、親たちも快く許してくれた。この時点では、まだ配役は決まっていない。祭の花形である奉納俄がしたくて、我こそが主人公の番場の忠太郎だと意気込んでいる者が十人ほど集まった。一杯機嫌の徳ちゃんがやって来て講義を始めた。「ええか、忠太郎が別れた母親に会いに来る、料亭水熊の場や!」昔は、誰もが映画や浪曲で見たり聞いたりしていたから、あらすじどころか結末までわかっていた。「口に出して覚えながら書きや。母の面影瞼の裏にや」...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑥
※連載ものです。①から順にお読みください。川面に新しい地車がやって来た昭和22年という年は、5月3日に日本国憲法が施行された年だ。5月20日の第1特別国会で、吉田茂内閣が総辞職して、23日に社会党の片山哲が内閣総理大臣になった。農村の川面は、前の年から実施された農地改革で、大地主の農地の大半が政府に買収され、それが安い価格で小作に売却され、悲喜こもごもながらも、民主主義、平等、自由が感じられるた。物資はまだまだ不足していたが、出生267万8792人,出生率3.43,昭和最高のベビー・ブームとなった。新しい日本の歯車が回り出した年だった。春やんたちの円陣は俄の話になっていた。相も変わらず、学芸会のセリフ回しで、まどろっこしいのでまとめて記す。昔は「祭=地車=俄」で、喜志の宮さん(美具久留御魂神社)で地車の上...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑤
※連載ものです。①から順にお読みください。三十代半ばくらいのミッツォはん(満男さん)が、「新しい地車(だんじり)を買うたんは何時でしたかいな?」と皆に尋ねた。会所の南側の地車小屋にある地車のことで、我々が物心着いた頃にはもう曳いていなかった。それからは放ったらかしで、入口に閂(かんぬき=鍵)があるのだが、周りの壁のあちこちに穴が空いていて出入り自由で、我々の秘密基地になっていた。四十歳くらいのトタさん(藤太郎さん)が「覚えてないんかいな!おまえが初めて俄したときやないかい!終戦の20年やがな!」と言った。同じ四十歳くらいのノブさん(伸雄さん)が「ちゃうちゃう、終戦の年に祭する余裕みたいあるかい!次の年の昭和21年やがな!」と言う。四十代半ばくらいの彦やん(彦一さん)が「あんだら、次の年も引き上げ(本土帰還...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ④
※連載ものです。①から順にお読みください。春やんが立ち上がり、大きな紙袋を持って我々の円陣に来て、紙袋の中身をドカっとぶっちゃけた。畳の上に色とりどりのお菓子が広がった。「さあ、好きな物を食べ。そや、辛いお菓子は残しといてや。後でオッチャンらの酒のアテにするさかい!」消防団の屯所の清掃整備当番の帰りで、そのお下がりのお菓子だという。春やんたちは、竹寿司の握りをアテに酒を飲んでいる。我々も説教されずにすんだという安堵感で、お菓子をほおばった。「ところで、最前におまえらが科学特捜隊やら宇宙警備隊やら言うてたけど、何のこっちゃ?」と春やんが訊いてきた。「悪い怪獣から世界を守る地球防衛隊や!」「わしがいた特設警備工兵隊みたいなもんやなあ」「オッチャン、そら何やねん?」「悪い奴から日本を守る本土防衛隊や!」春やんは...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ③
夜中に寒さで目が覚めた。トイレへ行って、コーヒーでも飲むかと、台所の椅子に座ってポットのスイッチをいれる。ぶるっと寒気がして「おおさぶ~」と思わずつぶやく。それが懐かしい節になっていたので、ふと思い出した。♪おおさむこさむ~山から小僧が飛んでてきた♪同じフレーズを何度か繰り返すが、次が出てこない。「次の文句(歌詞)は、なんあったかいな?」と独りツッコミ。その「なんあった」で思い出した。♪なんといって飛んできた~なんといって飛んできた~寒いといって飛んできた~おおさむこさむ~山から小僧が飛んできた♪寒い冬の戸外で遊んで、みんなで家に帰るときのテーマソングだった。永遠に続くのだが、各自の家に来るごとに、一人減り、二人減りして、ようやく終わる。ポットのお湯がシュンシュンと湧きだす。昔、火鉢の五徳にかけられた鍋の...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ①
元々は歌舞伎「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」を題材にした沖縄舞踊があって、それを喜劇にしたのを俄にしたものです。ダンスの上手な演者が息を合わせて、踊るように駕籠を担げば、それだけで面白いと思います。ただし、台本中ではムーンウォークとしましたが、地車の上なので、前に進まずに前に進んでいるようなダンスです。詳しくは「沖縄喜劇『戻り駕籠』」のユーチューブをご覧ください。駕籠は竹竿に段ボールで駕籠の絵を画くだけでOKです。三人俄『もどり駕籠』(次郎吉・藤四郎・車太夫)下手から次郎吉が登場。次郎吉わいは、次郎吉という籠かきや。上手から藤四郎が登場。次郎吉さあ、お客さん迎えに行くで。今日もよろしく頼むで、藤四郎。藤四郎こっちこそ頼むで、次郎吉。後ろに段ボールで作ったぺらぺらの籠。二人でかつぐ。次郎吉ほな行く...俄31――もどり駕籠
明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)、三玉(後の鶴家団十郎)らが俄を競い合っていた。明治11年(1878)には、中村雁治郎らも舞台に立った大阪弁天座で四本立ての合同公演が行われ、以後の十年間は大阪俄の最後の隆盛期であった。その一方で、文明開化の波が演劇界にも押し寄せてきた。東京に端を発した演劇改良運動が大阪にも波及してきたのだ。渋沢栄一、外山正一をはじめ、名だたる政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成し、歌舞伎を標的にして、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにし、作り話をやめることなどが申し渡された。歌舞伎を拠り所としていた俄師たちはと惑わざるを得なかった。歌舞伎が大きく変わりつつある一方で、歌舞伎と異なる現代劇の新...俄――明治以降の俄
【登場人物】母・兄=直三・弟=兼松下手(右)から商人姿の兼松が登場。兼松久々に川面の浜に帰ってきたがな・・・、やっぱり故郷はええなあ。とはいえ、大阪に出て商売人になるんやと言うて、家飛び出してから十年。直三の兄貴も、オカンも怒ってるやろなあ・・・。上手(左)からオカンが登場。もうろくして気が付かない。母せがれ直三の船大工の腕も上がり、剣先船の注文がようさんくるようになった。ああ、けっこなこっちゃ、けっこなこっちゃ。言いながら兼松の前を行き過ぎる(左へ)。兼松も、も、もし。母は振り向いて兼松を見るが気が付かない。母はあー?兼松もしもし。母♪カメよ♪・・・あんた、カメさん!兼松ちゃうがな。わしや。母ワシかいな。兼松ちゃうがな。オレオレ、オレや。母(びっくりして)ワシやのうて詐欺(サギ)やがな!(しゃがみこんで...俄――浜の人情兄弟
下手から佐助が登場。祭衣装。法被を前であわせにして紐で縛っている。佐助(くたびれた様子)ああ……今日も一日が終わった。明治になって世の中が変わったけど、わしの暮らしは相変わらずの貧乏やがな。神も仏もあるかいな。さあ、さあ、帰って屁ーこいて寝よ。舞台の下手で寝る。上手から神様が登場。白のシーツを頭からかぶり、腰で帯を結んでいる。神様おい、佐助。おい、佐助。佐助(眠そうに目をこすり、ハッと気づいて)なな、なんやお前!神様神さんや。佐助神さん?間男してるとこを丹那に見つかって逃げ出した男にしか見えん。神様あほ言うな。おまえが神も仏も無いと言うさかいに、出てきたったんや。佐助ほんまかいな。神様ほんまや。佐助、毎日精出して、正直に働いとるさかいに、ええ目、見さしたろ。佐助ええ目に……ほんまかいな。神様よう疑うやっち...俄――川面の渡し最後の日
三年ぶりの秋祭り。同じ村に住んでいても、しばらく会ってなかった人がかなりの人数。「ひさびさやなあ。どないや?」「まあ、ぼちぼちですわ」「そうか。そらよかった。気いつけや」と年配者から言われる祭り。校区の同級生とも久しぶりの再開。「おっ、久々やないかい。元気か?」「あかん。ぼろぼろや・・・では、祭りに来てないやろ!」「そやなあ。ほなら、また!」それで互いに通じるのが祭り。都市型の大きな祭りではなく、鎮守の森の昔ながらの祭り。それだけに、祭り=地域のコミニティー=結び=連帯を感じた久々の祭り。三年ぶりではなしに、やっぱり、年に一度の秋祭り。というわけで、久しぶりの記事投稿。そして、四日ぶりに、心身ともに癒えて、五日ぶりの畑仕事。里芋、赤芽大吉、小遣い稼ぎ。ちょっといっぷく37ぶりぶり
【舞台転換】上手(右)より吉原大門、真ん中に関所の建物。弁慶が関所を通ろうとすると勘太が上手より出て止める。勘太「節季に借金、お払いそうらえ」弁慶「あいや我々は吉原へ女郎買いに参る者にて候。わけなくここをお通し下され」勘太「近頃、養子の常公殿と鎌倉屋殿との間の勘定払いにつき、時貸(とがし)の催促〈富樫左衛門の洒落〉殿より一人も通すなとのご命令」弁慶「それは鎌倉屋に借りのある者のこと」勘太「たとえ借り無き者にもせよ、借りある者が姿を変えて通行するがため。今も今とて一人の男の衣類三枚はぎ取って候」弁慶「そりゃ借りある者は苦しからねど、借り無き者の衣類はぎ取るはいかがなものか」勘太「やあ?」弁慶「返答いかに!」勘太「さあ?」弁慶「さあ!返答いかに、いかーに[見得を切る]」奥から関守の富樫左衛門〈=富蔵〉の声。富...滑稽勧進帳②
曾我廼家五郎・十郎が人気を博すきっかけとなった喜劇『滑稽勧進帳問答」の台本を紹介する。歌舞伎の『勧進帳』のあらすじ①~⑥をそのまま利用している。【あらすじ】①兄の源頼朝から謀反の疑いを掛けられて追われる身となった源義経一行は、山伏姿に変装して、東北へ落ち延びようとしていた。②石川県の安宅の関の関守・富樫左衛門は、関を通ろうとしていた義経一行を疑い、山伏なら持っているはずの勧進帳(東大寺再建の寄付を募った巻物)を読むように命じる。③弁慶はとっさに何も書いてない巻物を取り出し、勧進帳の内容が書かれているかのように朗々と読み上げた。④なおも疑う富樫は、山伏の心得や装束、いわれ、秘呪などを次々と問いただすが、弁慶はよどみなく答えて見せる。⑤富樫は怪しみながらも通行を許可し、お詫びにと酒を献じる。ほっとした一行は関...滑稽勧進帳①
〇着物の両腕に大きな風呂敷を掛けて素袍を着ている体。頭に鉢巻きをして前に扇子を挟み、忠臣蔵の三段目、殿中の刃傷の場の趣向。師直の物真似で、「判官殿、貴殿のような侍は」と言いながら、袖の中からお椀の蓋(ふた)を一枚、また一枚また一枚と三枚出して、「蓋だ、蓋だ、蓋三枚だ」※「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」杜陵や淀川の批判をよそに、俄興行は人気を博し、大阪名物として全国に鳴り響いていく。江戸時代末の俄を記した書がいくつかあるのだが、活字に直されたもの(翻刻)がない。なんとか解読してやろうと思ったが、翻刻されている『古今俄選』でさえ、オチの意味がわからないものが2/3あるのでやめた。しかたなく、話は明治へと飛ぶ。明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に、大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)...俄――またしても転換期
〈座敷俄〉は座敷でするので、「人に見せる」ことより、「自分たちで楽しむ」ことが中心で、夏祭り期間の素人の遊びには違いなかった。ところが、大勢でする芝居がかった〈座敷俄〉が大転換をもたらす。やがて、俄好き(数奇者たち)が「谷」と呼ばれる集団をつくり、神社や寺の境内に小屋を設けて興業をするようになったのだ。数日にわたる興業なので、決まった演目、しかもそれなりの長さを持ったものでなければならない。そこで歌舞伎、浄瑠璃の演目を縫い合わせて笑いにする〈縫い俄=俄芝居〉となる。俄は俄師によって興業化され、より華美になっていき、大阪俄が全国に広まるきっかけともなった。しかし、俄の本質が衰退していくことを嘆く者もあった。江戸時代末期の嘉永(1848~)に書かれた『古今二和歌集』で、作者の倉腕家淀川は次のように述べている。...俄――転換期
浪花の夏の風物詩となった俄は、町の辻々で演じる〈流し俄〉だった。〇黒装束の忍者姿の男忍者「源氏の財宝、この白旗。手に入れたからには大願成就。ああ、嬉しや」と白布を押しいただいて行く。すると後から寝まき姿の男が出てきて、男「曲者(くせもの)待て!わしのふんどしをどこへ持っていく」このような〈流し俄〉が、嶋内や道頓堀、曾根崎や堀江界隈の花街に広がっていった。それを商家の旦那衆が座敷へ上げて俄をさせる。「ほんなら、わしも俄とやらをやつてみよ」と、俄はやがて旦那衆の趣味・遊びとなり、太鼓持ちや仲居を巻きこんだ〈座敷俄〉となる。〇揚屋(遊女屋)の掛け取り(借金取り)が出て来る。反対側から数人の家来を連れた侍が出て来る。掛取「コリャ、よい所で出会うた。ここで会うたが百年目、サア、五十両の揚代を返せ」侍「イヤ、ここは途...座敷俄
不動明王の真言(お経)に「のうまくさんまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん」というのがある。それをふまえたうえで〈座敷俄〉の一例。山伏「わしは葛城より熊野へ駆け抜けの山伏。来たるほどに人跡絶えて家もなきが、ぽつんと一つの家。もしもし、あるじ(主人)に申し上げます。葛城より熊野へ通る山伏なれど、今日のひもじさ。先へも後へも参りがたし。空腹な時にもむない物なし。冷めたお粥を一杯だけでも、お頼み申します」主人「お安いことながら、我さえ食べる物がなく、飢えて死ぬのもいつの日やら。ほかをお頼みなされませ」山伏「そんならそなたも空腹か」主人「なにとぞご推量くださりませ」と泣く。「今しばし、思い出したることがある。この向こうの畑に誰かが芋を作ってございます。その芋盗んで食わしゃりませ」山伏「実に...俄――遊びをせんとや
日本全国に残っている俄からいくつかを紹介する。【博多にわか】〇あの相撲取りゃぁ、朝から晩まで酒飲みづめじゃが、稽古も強かが、土俵に上がっても酔うとる。※良く取る〇今日は十五夜で幸い友達がみな寄っとるけん、月見で飲もうじゃなかや。酒ん肴は何んが好いとるや?「俺らあ下戸じゃけん望月」※餅好き【美濃流しにわか】〇トランプ大統領の乱暴な言動は嘆かわしかねえ。「でも本心は優しからしやて」。そらまたどうじゃら?「トランプにもハートがあるわな」〇東京五輪は、あげいに巨額のお金をかけてええんかいのう?「へともなかね」。これまたどうしてじゃな?「必ずせいかは上がるわな」【佐喜浜にわか】高知県〇行政を批判した有識者に市長が「なんぞ確かな証拠かあるか?」と尋ねた。有識者は腰掛けを取り出し、腰掛けの足をたとえにして、「一つ一つは...俄の味
司馬遼太郎の小説に『俄浪華遊侠伝』というのがある。俄師の話ではなく、維新前後の浪花を舞台に生き抜いた大親分の波瀾万丈の物語である。その主人公万吉が、晩年に己の人生を振り返って述懐する。「わが一生は一場の俄のようなものだった」と。たった一度の短い人生、アハハと笑うてオチをつけてお終いや、そんな思いなのだろう。「ほな往てくるで」と陽気にこの世を去っていく。司馬遼太郎が小説の題名に『俄』と付けたのは、人生は俄のようなものだと言いたかったのだろう。死ねば全てが終わる〈一回性〉、何が起こるかわからない〈意外性〉、そのときどきを生きる〈即興性〉、笑いで吹き飛ばす〈滑稽性〉、良くも悪くも良しとする〈遊戯性〉、最後にすべてを納得させる〈饗宴性〉、より良かれを神仏に祈る〈神事性〉が人生と俄の本質だと。若いころ、32年ぶりに...俄の本質
河内俄のオチは単なる駄洒落ではない。なぞかけ(三段なぞ)」の発想に近い。前回、紹介した俄を例にすると、〇「亭主の浮気」とかけて、「女房が牛の刻詣りをしたが効きめがなかった」と解く。その心は「浮気の相手が糠屋の娘」〇「百姓息子の改心」とかけて「大根」と解くその心は「いつか孝行になる」A「こないだ、嫁はんに浮気がバレてしもうた」B「えらいこっちゃ、どないしたんや?」A「うちの嫁はん一升飲み干すほどの酒好きやから、仲直りしよう思うて、五合徳利に酒を買うて、持って帰ったがな」B「ホー、嫁はん、喜んだやろ!」A「それがや。えらい怒られたがな」B「ハテ、なんて怒られたんや?」A「一生(一升)つまらん、言われた」〇「酒飲みの女房への浮気のお詫び」とかけて「五合徳利の酒」と解くその心は「一生つまらんと怒られた」大阪人が社...俄のオチ
お茶屋で演じられた〈座敷俄〉は、お囃子を入れることができる。そこで、しだいに芝居じみたものになり、次の明和(1764~)になると歌舞伎を真似た〈もじり俄〉が登場する。その例を一つ。意味不明部分は省き、歌舞伎調なので七五調に近づけて現代語にした。声を出して読んでもらうと自然とリズムが出てくる。〇牛の刻詣り三味線の出囃子がはいる。女「あらうらめしの女子(おなご)やなあ」女が登場女「枕はほか(他の女)とは交わさじと、言いし亭主も今はあだ浪、浪は越すとも松山の、女子(おなご)につもるこの恨み。とり殺さいでおこうか」【浄瑠璃】右に持ちたる灸箸で、左のモグサひとつかみ、女子に灸をすえてやると、神社に伸べ伏す松の木を、憎い女と狙い寄り、幹のくぼみに目をつけて、女「ここぞ女子の咽ぶえなり」【浄瑠璃】モグサをいくつも並びか...もじり俄
再び大阪俄に話をもどそう。享保末(1730年頃)に起こった大阪俄は大阪市中に広まり大流行となる。とはいえ、一年中やっていたわけではなく、六月、七月の夏祭の期間中だけである。夏祭は天災や疫病を引き起こす神をなだめることを目的としている。したがって、俄には笑いで神を慰め、心安らかにしてもらうという大義名分があった。「俄じゃ、俄じゃ」とことわるだけで、多少はめをはずしても誰も文句はなく、お上も大目に見てくれた。現代でも、全国各地の俄が祭りの中の一つの出し物であるのはそのためだ。この〈神事性〉が俄の本質の一つである。〇ある年、どうしたことか、六月の祭りがはなはだ寂しく、遊里では軒に吊るすはずの提灯もなく、行き交う客もまばらなことがあった。俄をする者もなかった中で、痩せ細った背の低い男が、金襴の直垂(ひたたれ)に金...俄――祭
建武3年(1336)の湊川の戦いにおいて、南朝の名将楠正成を敗死させたという伝説が残る大森彦七という侍がいる。功績により讃岐国を与えられる。この彦七が、伊予の国のある寺へ向かう途中、矢取川で楠正成の怨霊の「鬼女」に出くわしたという伝説がある(太平記)。それをあつかった俄である。〇男が、大きな布を頭にかぶった女を背負って出てくる。男「さてもさても、えらい重たい。重たいぞ」女「そっちは深い、こっちは浅いぞえ」男「ほに、そなたは賢い。えらいなあ。えらいついでに思い出したが、大森彦七が鬼女を背負ったという話がある。どうもこのふわふわとした尻が怪しい。どれ、一度、顔を見てやろう!」そう言って女を下ろし、かぶっていた布を取るとタコの頭。男「さては、大タコに教えられて・・・浅瀬じゃなあ!」※諺「負うた子に教えられて浅瀬...俄のチカラ
ウィキペディアで「俄」を調べると、次のような説明がある(以下抜粋)。「俄とは、またの名を茶番(ちゃばん)。俄狂言(にわかきょうげん)の略。遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられた」全国に広まった俄だが、「茶番・俄狂言」などと呼んでいるところはない。みな「にわか」だ。それに、俄は神に奉るという〈神事性〉が根本にあるので遊郭のものではない。あきらかに東京びいきの人によって書かれた茶番(下手な芝居・行ない)である。この説明の大元となっているのは、江戸後期に書かれた『新吉原略説』という書物で、俄の発祥は享保19年(1735)の江戸の吉原であるとしている。そして、この説をもとにまとめられた『演劇百科大事典全6巻』(1961年早稲田大学演劇博物館)によって権威づけられ、俄の定義は一人歩きしていく。天下...俄――大阪vs東京
「突然で一時的な、仮装、物真似などの、笑いを目的とした、戯れ、遊びを〈にわか〉と言うようになった」と定義した。しかし、全国の祭礼で行われる「にわか」を調べると様々である。。①山車・屋台をにわかと呼ぶもの②仮装・即興・滑稽な踊りをにわかと呼ぶもの③神楽舞の中の演目をにわかと呼ぶもの④囃子・囃子唄をにわかと呼ぶもの⑤祭り全体をにわかと呼ぶもの⑥作り物・短歌・川柳をにわかと呼ぶもの⑦地歌舞伎をにわかと呼ぶもの⑧滑稽な寸劇をにわかと呼ぶもの「祭礼の中で行われる人々の工夫」が「にわか」ということになる。実は「にわか」という言葉が使われる前、この「祭礼の中で行われる人々の工夫」を「風流(ふりゅう)」と呼んでいた。古文で習った「ふうりゅう」とは少し違う。・風流(ふうりゅう)=しみじみとした情緒(貴族のもの)・風流(ふり...俄と風流
前に使っていたパソコンのデーターを整理していると、懐かしいのが出てきた。我が町の地車新調の入魂式で上げた「口上」の原稿である。普通に上げれば5分もかからないのだが、例によって(昔は30分ほどやったことがある)、改行部分ごとに余計なアドリブが入るので、15分ほどやっただろうか。猛暑の暑気払い、疫病退散に、思い出・記録として残しておく。東西、東西と鳴り物をばうち鎮めおき、一段高こうはございまするが、不肖私ええ歳こいて、不弁舌なる口上をもって申し上げます。富田林は広いとこ東にいただく金剛山。西に長きは羽曳丘陵。平尾の峠で東を望めば、朝日が昇る二上山。南の方(かた)には喜志の宮。北の方には平・尺度。峠下れば、外環状。並んで走る近鉄電車。新家、喜志駅打ち過ぎて、商店街をちゃらちゃらと、高野街道横切れば、左に木戸山、...入魂式口上
江戸時代になり、世の中が落ち着きを取り戻す。すると都市に人口が集中してきて、庶民が娯楽をもとめるようになった。歌舞伎=慶長八年〈1603〉出雲阿国――江戸に中村座〈1624〉落語=元禄期〈1700頃〉京に露の五郎兵衛、大阪に米沢彦八、江戸に鹿野武左衛門が登場俄=享保末〈1730頃〉住吉祭りの男が登場――大阪俄へ。「俄とは落語が立って歩くなり」という古川柳がある。扮装するか、小道具を持って街に出て、一言で落語のようなオチを付ける。歌舞伎のように踊りや歌の素養はいらない。落語のように知識や話芸は必要ない。一般庶民にとってはうってつけの芸である。俄はあっという間に大阪市中に広まっていった。★「俄じゃ、俄じゃ!思い出した(思いついた)!」と囃して通りを歩く。誰かが「所望、所望(やってくれ)」と声をかけると、一言で...俄の原型
大阪俄の元となった「住吉祭りの男」の俄〈流し俄〉から数年後の元文(1736~)になると、風呂敷や暖簾(のれん)などの身のまわりにあるもので能楽の狂言の扮装をした、八幡大名と太郎冠者による〈大名俄・狂言俄〉と呼ぶものが登場してくる。狂言の声色で主人「太郎冠者はあるか」太郎「ハァー、お前にございます」主人「主人にいとまもこわずに、なんじはいづ方へ行きたるぞ?」太郎「住吉へ参りました」主人「言語道断。憎いやつながら、許してくれるぞ。して、住吉になんぞおもしろいことはなかりしか?」太郎「ハア、何ぞかを土産にと思い、反り橋を求めてまいりました」主人「なに、反り橋とや。それは一段と珍しい、どれどれ」太郎「これでございます」主人「ナニ、これは雪駄(せった=ぞうり)ではないか。ハテ?」〈ツッコミ〉太郎「ハテ、裏が川(革)...俄と狂言
奈良県大塔村(現五條市大塔町)の天神社に「惣谷(そうたに)狂言」という郷土芸能のがある。文化庁『篠原踊・調査報告書』には、復活の当初からこの狂言を三度にわたり調査した民俗学者の本田安次氏の言葉を引用している。――惣谷狂言はもと、能の間々ではなく、風流踊りの間に行われてきた狂言である。後に歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたちを伝えたものである――。※「風流踊(ふりゅうおどり)」とは、中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである(ウィキペディアより引用)。広い意味での〈にわか〉の一種。歌舞伎がどのように変化したかを簡単にまとめると、①江戸時代の初め頃(17世紀初め)出雲の阿国という女性が演じる〈かぶき踊り=女歌舞伎〉が京で人気を集める……...俄――惣谷狂言
悪性の風邪がはやったとき、村人が総出で囃し立て、疫病をもたらす風邪の神を村から追い払うという風習があった(風の神送り)。それを題材にした〈狂言俄〉を紹介する(『古今俄選』より)。能狂言の言葉で。男「まかり出でたるそれがしは、この辺りの者でござる。殊の外悪い風邪がはやって、人々を悩ましておる。人のために、賑やかに囃し立て、風の神を送ろうと存ずる」ドラと太鼓の鳴り物ドンデンドン・・・男「風の神送ろ」ドンデンドン男「風の神送ろ」ドンデンドン風の神がよろつきながら出てくる。風の神「こりゃかなわんワイ。逃げるが先じゃ」風の神が向こうへ逃げようとすると、後ろから大勢の医者が出てきて、医者「行ってはならん。行ってはならん。行くまいぞ。やるまいぞ」『諸艶大鑑』巻七(井原西鶴)の中の風の神送りの挿絵民俗学者の西角井正大氏が...俄――南河内の芸能文化
歴史カデゴリーの『その16室町――【番外編】』で、能楽師の世阿弥と一休和尚の話を書いた。今一度そのときの「春やんの楠家系図」を示す。伊賀上野の上嶋家本『観世系図』に、能楽の観阿弥の母は〈河内国玉櫛庄橘入道正遠の女〉とある。この〈橘入道正遠〉という人物は、『尊卑分脈』の楠家系図によれば楠正成の父の正遠である。とすれば、正遠の女(娘)は正成の妹ということになり、観阿弥は楠正成の甥にあたることになる。だとすれば、すでにその当時から、南河内では能・狂言を見る機会があったのかもしれない。南朝と縁の深い大塔村に惣谷狂言が残っているのもなんらかの因縁が感じられる。当時の狂言は、一字一句もセリフを間違えてはいけない現代の狂言とは大きく違っていた。まだ台本が存在せず、おおまかな筋立てをもとに、大部分をアドリブで演じていたよ...俄――観阿弥と楠正成
大阪俄が生まれる前から、南河内には素人による狂言を真似た芝居〈物真似狂言〉が行われていた。もちろん、南河内に限らず全国各地に存在していただろう。出雲の阿国は三十郎という狂言師を夫に持ち、それに傳介(でんすけ)という狂言師くずれの男が加わり、三人で狂言仕立ての芝居を踊りの合間に入れていたという。しかし、オチはなく、最後は座員全員の総踊りでしめくくっていた。念仏踊りや風流踊りに〈物真似狂言〉が加えられたものが〈歌舞伎〉になる。〈物真似狂言〉にオチがつくと〈にわか〉になる、河内俄の一例を紹介する。銭形平次(平)・子分の八五郎(八)・男右手から男が出てくる。真ん中で突然苦しみだす。見ると胸に包丁が刺さり血がたらたらと流れている。男は中央で一分ほど苦しみ、バタと欄干に顔を乗せて、死んだように倒れる。そこへ、平治の子...俄――ハテ!わかったわい!
「ハテ、ハテ、ハテ」とつなげてオチにするのが河内俄だが、三つの「ハテ」は同じ調子ではない。「ハテ?」〈小さな疑問〉「ハーテ?」〈大きな疑問〉「ハテ!わかったわい。オチ」〈感嘆〉「ハテ」とツッコミを入れてオチをつける型が初期の大阪俄にあることから、河内俄が大阪俄に伝わったと結論したが、確証があるわけではない。一歩ゆずって、「ハテ」でオチをつけた大阪俄が南河内に伝わったとも考えられる。どちらにせよ、江戸時代の元文・寛宝の頃(1740年頃)には河内俄は存在していたことになる。「ハテ」でオチを付ける〈大名俄・狂言俄〉の後に〈そりゃなんじゃ俄〉が登場する。〇白い障子紙を貼った行燈(あんどん)をすっぽりとかぶった男が三人ほど、仰向けに寝ている。一人が出てきて、「そりゃなんじゃ」とたずねると、中から「フカのかまぼこ」〈...俄――ハテ?ハーテ?ハテ!
現在、大阪府内で俄という芸能が残っているのは南河内の一部の地域だけだ。南河内という限定された土地に、なぜ俄が残ったのか。そのヒントとなるのが物流だ。図は大阪南部の江戸時代にあった主たる街道である。河内長野市にはほとんど俄が残っていない。河内長野市は南北に通る四つの街道の合流地点で、陸路で大阪とつながっていた。対して、河内俄が残っている地域は、大和川の支流石川の水運によって大阪とつながっていた。江戸時代、喜志村には剣先舟の船着き場(喜志の浜)があった。喜志より上流は水流が強いため、喜志の浜から富田林、河南町、千早赤阪村へと物資が運搬されていた。喜志の浜から米・木綿・酒・油・材木・綿花などを積み出し、石川、大和川を経て大阪へと運び、帰りは大阪からの塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆などを積み喜志の浜に下ろしていたの...水が運んだ俄
俄の発祥の一つとして、〔京都島原発祥説〕がある。江戸時代、井原西鶴『好色一代男』(1682年刊)の中にある太鼓持ちたちの思いつきの遊びを記した部分を俄の最初とするものだ。――道を隔てた数件の揚屋〔あげや=遊女と遊ぶ店〕の二階へ、太鼓持ちたちがそれぞれ上がり、おのおのが窓から姿を現して趣向を競う。揚屋丸屋の二階から恵比須大黒の人形が差し出されると、柏屋からは二匹の塩焼きの小鯛が差し出され、これを見て庄左衛門が瀬戸物の焙烙(ほうらく)に釣髭を付けて出す。今度は弥七が烏帽子をかぶって顔を出せば向かいの家から十二文の包み銭が投げられるという具合だ――。物で見立てた発想をつなげていく遊びで、答は次のようになろうか。恵比須様の人形(福の神)……塩焼きの小鯛(供え物)……焙烙に釣ひげ(大黒様の顔)……烏帽子(神官)……...俄――もんさくす