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山崎の合戦・古戦場を巡る 宝寺から天王山・小倉神社 自主練習
はい今回は3月23日に開催予定で雨天中止になった阪急ハイキング回を ぼっちで歩いてきました 4月2日 8時20分 スタートは阪急大山崎駅から徒歩 […]
丸岡町の真ん中の小高い丘の上にこの天守閣は存在しています。丸岡町はかつて明智光秀が寺子屋を開いていたそうです。細川ガラシャ夫人もここで産まれたようです。そんな歴史ロマン溢れる城下町と天守閣です。宜しければポチお願いします🙇⤵️にほんブログ村過去の投稿記事です。名古屋城冬景色-リタイアじーじの徒然絵日記名古屋城の天守閣はコンクリートですが、風格は充分あります。天守閣の規模は大阪城に匹敵します‼️構造的には天守閣と小天守閣を通じる廊下があり彦根城の天秤櫓前の橋を彷...gooblog国宝彦根城-リタイアじーじの徒然絵日記過去に彦根城は行ったことがありましたが、今回は彦根に宿泊してじっくり訪れました。前回の短時間の訪問では解らなかったお城の色々な顔に接することが出来ました。先ずは...gooblog秀吉の長浜城...丸岡城天守閣
2023年4月2日の大河ドラマ『どうする家康』の第13話『家康。都へゆく』、前半の主要キャラクター揃い踏み、15代将軍足利義昭、明智光秀、浅井長政にと お市と…
#256 『信長公記』を読むその31 巻14の4 :天正九(1581)年 信長公のお馬揃え
『信長公記』巻14 天正9(1581)年のその4は、豪華な信長公のお馬揃えについてです。 信長公、豪華なお馬揃えを開催 京都・安土でのお馬揃えに向けて信長公は…
明智光秀敗走す!山崎の戦い本陣跡そして光秀最期の城「勝龍寺城」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、明智光秀敗走す!山崎の戦い本陣跡そして光秀
#266『信長公記』を読むその38 巻15の6 :天正十(1582)年 本能寺の変直前
『信長公記』最終巻の巻15 天正10(1582)年のその6は、本能寺の変直前までの動きについてです。 四国攻めの準備、家康の京・堺見物の中、本能寺の変へと進む…
#267『信長公記』を読むその39 巻15の7 :天正十(1582)年 本能寺の変
『信長公記』最終巻の巻15のラスト 天正10(1582)年のその7は、本能寺の変について、『信長公記』は本能寺の変で信長、信忠が明智光秀に討たれ、家康がどうに…
秀吉と光秀の天下分け目の天王山"山崎の戦い"!秀吉の本陣跡「山崎城」へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、秀吉と光秀の天下分け目の天王山"山崎の戦い
明智光秀の「幻の城」坂本城跡から30mの石垣発見!野面積みの外堀と判明!
明智光秀の幻の城、坂本城の発見は本当に興奮しますね。築城から約500年ぶりの発見ということで、歴史的な意義も大きいです。まさに幻の城と言われるだけのことはあります。<関連する記事> 明智光秀の「幻の城
歴史を揺るがす謀反劇「本能寺の変」!織田信長、明智光秀に討たれ死す
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、歴史を揺るがす謀反劇「本能寺の変」!織田信
ここの所、春日局を持ち上げる番組が増えています。 秀忠の嫁のお江(ゴウ)を虐めてなかった云々。 お江の墓は春日局と同じ寺の境内にあるそうで、 秀忠とお江の子・忠長の供養塔もあるとか。 そんなものは何の証拠にもならないと思いますが。 自分たちが謀殺した人物を神社で供養して 恨みをしずめようとする事など多々あるかなと。 家光は秀忠とお江の子ではない可能性が高いです。 家光誕生の前年の同じ七月に江が初を出産https://president.jp/articles/-/76747?page=3 初を産んですぐに家光を妊娠というのは ありえなくはないけれど、少々無理をする事になります。 家光は側室の子…
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の本能寺の変-英雄の最期- について、どのように描かれていたのか革命児だからこそ安定させるこ…
#325 第27回「安土城の決闘」感想~大河ドラマ『どうする家康』
天下取りと「信長を殺す」ことを決め、その策実行のために信長の本拠安土城に乗り込み、信長と対峙して、本能寺の変直前までの2023年7月16日の大河ドラマ『どうす…
2023年12月10日関西方面の城巡りニ城目は京都にある山崎城です。明智光秀が本能寺の変で織田信長を打ち、備中高松城(岡山県)にいた羽柴秀吉が中国大返しと呼ばれる凄まじいスピードで戻って明智軍と戦いました。その際にこの天王山付近に羽柴秀吉は陣を張り、明智光秀に勝利。羽柴秀吉は標高270mの天王山の山頂に山崎城を築きました。天主もあり、高層建築物があったとされています。翌年、大阪城の工事が本格化したことで山崎城は破却。時の城となりました。勝龍寺城のあるJR京都線、長岡京駅から一駅。山崎駅が搭城口の最寄駅となります。ローカルな駅。この一帯は山崎合戦で激戦を繰り広げた地であるものの、今はすごくのどかな街並み。京都の駅から比較的近いのに、景色が変わります。この山崎駅から歩いて5分ほどで、天王山の登山道に到着。京都...山崎城@京都府
2023年12月10日またしても関西方面の城巡りにやってきました。12月10日〜12月12日の2泊3日。12月11日は設計の打ち合わせがある為、動けるのは12月10日丸一日と、12月12日の午後のみ。これは行く城とルートを念入りに考えないと効率よく動くことができないので、数日前から計画を練りました。その時に役に立つのが、こちらの本。城の本はたくさんありますが、地理感が分からないエリアでは、城と城の距離感が分からず計画するのに苦労します。こちらの本は、まず100名城や続100名城以外の城の掲載も多く、県によって城の位置が分かるように地図で記載されているので、個人的には最強アイテムです。線路が乗っているのもありがたい。話は逸れましたが、最初に訪れた城は京都にある勝龍寺城です。京都駅から京都線に乗って長岡京駅で...勝龍寺城
先日、大河ドラマ『どうする家康』が最終回を迎えました。 最終回に登場した、南光坊天海役を、前回の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主人公・北条義時役を演じた小栗旬さんが演じ、異例の2作連続大河ドラマ出演として話題になりました。 南光坊天海といえば、徳川家に仕え、徳川幕府を支えた天台宗の僧であります。 歴史好きの方々なら聞いたことが有ると思いますが、この天海にはある仮説が立てられています。それは、 「南光坊天海=明智光秀説」です。 明智光秀といえば、仕えていた織田信長を本能寺の変で討ち取り、その後山崎の戦いで羽柴秀吉らに討たれ亡くなったとされている人物であるが、この説が本当であれば、この山崎の戦いで…
#332 第28回「本能寺の変」感想~大河ドラマ『どうする家康』
唯一の友、家康に討たれたかったかのような信長と討てなかった家康の別れが描かれた2023年7月23日の大河ドラマ『どうする家康』の『本能寺の変』について唯一の友…
#334 本能寺の変と神君伊賀越えを『三河物語』から見る ~『どうする家康』を楽しむため
7月23日の大河ドラマ『どうする家康』でついに最期を迎えた織田信長、その本能寺の変とその後の家康の伊賀越え”神君伊賀越え”を大久保彦左衛門忠教の(忠世の弟)の…
#337 本能寺の変がどう伝わったか~『松平家忠日記を読む』から見る
7月23日の大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」について家康領国の家臣にいつどのように伝わったのかを『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角…
#339 第29回「伊賀を越えろ!」感想~大河ドラマ『どうする家康』
後年、天下人になっても語ろうとしなかった思い出といわれる伊賀越えを7月30日大河ドラマ『どうする家康』の第29回「伊賀を越えろ!」について真面目にやらかす天然…
アメーバブログ『yutake☆イヴのモノローグ』の 映画記事です。登録・関連TBご自由にど~ぞ♪警告出てブログ訪問できない方ごめんなさい。
作品について https://www.allcinema.net/cinema/389034↑あらすじ・クレジットはこちらを参照してください。 ・監督・羽柴…
ダイヤモンド・オンライン天皇陛下は明智光秀の子孫、皇室に引き継がれる「戦国武将たちのDNA」と
にほんブログ村にほんブログ村 豊臣秀吉は人命を大切にする優しい武将だったのか?戦国合戦に見られる残虐性(JBpress) - Yahoo!ニュース 歴史上には…
にほんブログ村にほんブログ村 私は間違ったことはしていない…石田三成が関ヶ原の戦いまでに多くの武将に見捨てられた根本原因 能吏としては完璧だが、人心を読み解く…
桔梗の一番花が咲きました。 明智光秀の家紋が「水色桔梗」でしたが、これは清和源氏の土岐氏の支流に明智家があたることに由来すると言われています。 美濃の土岐家発祥の地である「土岐」という地名には、桔梗の古語「オカトトキ」(丘に咲く草)のトトキに由来しているそうです。それで土岐家の家紋が桔梗になったようです。 桔梗という文字には、「更に吉」という文字が隠されてもいます。 家紋の大半が、白と黒で表されている中で、明智家の家紋は、水色で彩られる珍しい家紋を使っていました。 水色選んだ訳は? そこでこんな推理が出て来ました。 桔梗の花とダビデの星(六芒星・ろくぼうせい)が似ている事、ダビデの星が青色で表されている事。イスラエルの失われた10支族の一部が日本に流れ着いたのではという言い伝えがある事。明智光秀に謎が多い事(光秀は明智氏に生まれたとされているが、一次史料がありません) 「もしかして、光秀はユダヤ人の子孫だったのでは?」と思ってしまいました。ちょっと飛躍しすぎだとは思いますが・・・ 光秀は、戦国武将としては珍しく側室を置くことなく、正室の熙子(ひろこ)と仲睦まじく暮らしましたが、ユダヤ教
去る令和5年(2023年)5月28日、丹波周山城跡の発掘調査現場見学登城会に参加してきました。ちょっと旬ネタを過ぎてしまった感はありますが、先日の丹後田辺...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜信長さんが『本能寺の変』で討たれて、さぁ大変だぁ〜ってことで第29話の感想ぉー!家康の3大危機の最後、それ…
滋賀県大津市坂本の西教寺は、坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置しています。総門は、天正年間に明智光秀が坂本城の城門を移築したものと伝えられています。門前には、「明智光秀公と一族の菩提寺」という石柱があります。西教寺は、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山で、寺伝によると、聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。平安時代...
東山区梅宮町の「明智光秀の首塚」は、通称「光秀塚」とも呼ばれています。白川沿いを歩いて行くと、白川橋を南に下がった東側に「東梅宮 明智光秀墳」の石碑が見えてきます。ここを入るとすぐ左手に首塚があります。光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 38.徳川家康・二十六
徳川家康は、甲州征伐後、駿府において、織田信長を接待した。 徳川家康は、織田信長の接待のために、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営した。 織田信長は…
山崎の合戦は「天王山の戦い」とも呼ばれ、羽柴秀吉の軍勢が、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎の地(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)において、明智光秀の軍勢と激突しました。天王山登り口から急な坂を登っていきます。宝積寺は、天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝わり、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した...
山崎の合戦(1)山崎合戦古戦場跡~明智光秀本陣跡~恵解山古墳
羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していましたが、6月3日に本能寺の変の報を受け、ただちに毛利軍との和議を結び、「中国大返し」と言われる驚きべき速さで備中から京都に軍を返し、6月13日、秀吉軍4万の兵力で山崎にて1万6000の明智光秀軍と戦いました。両雄がぶつかった「山崎合戦の地」は、現在は京都縦貫自動車道の高架下に「天王山夢ほたる公園」として整備され、広場には、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記さ...
どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~
本能寺の変の報せを受けた徳川家康一行は、たちまち大ピンチとなります。というのも、織田と同盟関係である徳川は、明智光秀からみれば敵といえました。もし、明智軍...
惟任姓で名乗りましたな,光秀サン。久々に聞いたわ,その名乗り。大抵,通りのいい明智でいくもんね,ドラマの場合。ヒールぶりに磨きがかかっちゃって,もう。 で,らしい最期で,よきよき。お疲れ様でした。 「やれたからやった」って,いい表現だなー。 金が尽きって,出立前に四郎次郎サンからもらっときなさいよ・・・ 誰かさん・・・怪しげな役が似合いますな www伊賀で神君からポンコツが取れたネ♪(チョットダケヨ) やっと戻...
【どうする家康】#28 恋愛コメディの主人公は、寄せられる愛に鈍感
岡田信長&松潤家康、本能寺の「恋」 NHK大河ドラマ「どうする家康」第28回「本能寺の変」が7/23の先週放送され、あまりにも有名な戦国武将・織田信長が討たれた。 今の時点で、多分そうだ。まだ茶屋四郎次郎がセリフで言うだけで武田勝頼のように首を画面で拝見した訳じゃないので、今作の場合、一応ね、警戒はしておく。遺骸を回収したという阿弥陀寺のお坊さんたちも出てこないし。 こんなことを440年も経っている後世の人間までが書いたりするぐらいだから、当時の人間は本当に疑心暗鬼になっただろうなあ。信長の、首を含めて、亡骸が晒されることは無かったから。「上様は死んでない」と秀吉みたいに喧伝する人間がいれば、…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜本日よりブログ再開だねって第28話の感想ぉ〜!織田信長が宿泊していた本能寺が炎上!ついに家康が信長を攻めた…
京都市バス、京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分、現在「京都国際マンガミュージアム」(旧龍池小学校)となっている建物の裏側に、「此附近 二條殿址」の石碑が立っています。二条殿は、もとは南北朝時代の公卿・歌人・連歌師であった二条良基の邸宅で、押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり、洛中洛外図屏風にも描かれており、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。信長は天正5(1577)年に移り住...
どうする家康 第28回「本能寺の変」 ~家康の堺遊覧と信長の横死~
時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家...
元々は清洲城下の現在地(旧北市場村)に總見寺がありました。現在の清洲の總見院は、慶長15年(1610)の清洲越しにより名古屋に移った總見寺址に再興した寺です。当寺には、織田信長の焼兜が寺宝として伝わっています。總見院の由緒によると、「織田信雄が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年(1583)に現在の地に「景陽山総見寺」を建立。しかし、慶長十五年(1610)「清須越し」によっ...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜本能寺に迫る回だねってことで第27話の感想ぉ〜!ついに家康、家臣たちに心の内を話します。「信長を殺す、天下…
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。 本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。本堂信長公廟本能寺の変...
【どうする家康】#27 サイコパスじゃない岡田信長、蓄積疲労で限界だった模様
瀬名ロスです NHK大河ドラマ「どうする家康」第27回「安土城の決闘」が7/16に放送された。タイトルは「決闘」だけれど、物理的に乱闘があった訳でもなく(7/22「土スタ」出演の岡田准一によると、脚本上は相撲を取る設定だったらしい)・・・狸の化けの皮が剥がれた子どもっぽい家康が、疲れ切った信長に「告白」された話だった。そこからの「国譲り」みたいな。 テンション低めですみませんね・・・瀬名ロスですよ、どっぷりと。 オープニングでは、主役の家康直後のヒロイン席「瀬名 有村架純」がぽっかり空いていて、これまで瀬名推しで見ていたこちらとしては大層悲しかった😢於愛の広瀬アリスの表記はもう少し後ろの方で、…
普段大河ドラマ見ないのに「どうする家康」は見ていて、気になったので行ってきました交通アクセス大曽根駅から、徒歩15分程度です遮るものがなく、非常に暑いので個人的にはバスをお勧めします!30分に一本程度と本数は少なめですが、徳川町バス停や森下
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。妙覚寺の山門本堂京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用す...
どうする家康 第28回「安土城の決闘」 ~家康の安土入りと光秀の饗応役~
甲州征伐の論功行賞で、織田信長は徳川家康に駿河一国が与えられました。そして、その帰路、信長は富士山見物をし、家康の居城である浜松城に立ち寄った話が前話で描...
書に囲まれた御寝所で死ぬというのは,読書人としては・・・♪(違) 前回の繰り返しで,ポンコツ神君の虚無に捉われたとも見えるお顔がなんともよき。始まった時はどうかと思ったけど,主役の演技,どうしてどうして・・・ ・・・光秀サンの役回りを代行してたら,計算が狂ったというパターンでつか。と思ったら,光秀サンが余計なことを提案していて,逆鱗に触れちゃったのねえ。どこまでもヒールな描かれ方(苦笑)於愛チャンは,知らず...
【どうする家康】#26 狸と狼の化かし合い、絶品海老すくいで切り抜ける
アイドル松潤家康、面目躍如の舞 NHK大河ドラマ「どうする家康」第26回「ぶらり富士遊覧」が先週7/9に放送され、アイドル松本潤はやっぱり伊達じゃなかったと感嘆するしかないキラキラの「海老すくい」を見せて頂いた。今回はこれが白眉。 上半身を真っ直ぐに、舞台上にスススと滑るように進み出るブレない姿は、古いけど「徳川慶喜」本木雅弘が禁中で走る姿を思い出した。それでいて腰を曲げて跳ねる時の軽やかさ。よろけそうもないバランスの良さ。上品だな~これは絶品って言うべきでしょう。 松潤の「嵐」としてのダンスはいつが最後だったのだろう。彼が踊るのはそれ以来じゃないのか。お宝ダンスだったかな。 それに、後編突入…