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若いころ、祭で俄をすることになったとき、村のお年寄りに、「しっかり遊んどいで」と言われた。俄は演劇の一種だが、「演じる」のではなく、「遊ぶ」なのだ。子どもたちが、輪にしたヒモの中に入り、電車にみたてて「出発!ガッタンゴットン・・○○駅です」とやる電車ごっこ。お母さんやお父さんになったつもりで「行ってらっしゃい」「ただいま」「ご飯が出来たよ」とやるままごとなどの「ごっこ遊び」と「にわか」は同じなのだ。子どもは、たんに、「何かにみたてる」「何かになったつもり」「何かをしたつもり」を繰り返し楽しんでいるだけで、演じるという気持はない。それでも、子どもが楽しく遊んでいるのを見ると、見ている大人も楽しくなる。俄は自分だけでなく、見ている人も楽しくさせる遊びなのだ。俄の命は〈遊戯性〉にある。宴会のかくし芸用に一人俄を...俄37/俄ごっこ
※連載です。①からお読みください。夢に春やんが出て来た。つんつるてんの着物一枚着て、犬を連れて、石川にかかる河南橋の欄干に腰掛けている。ワンカップの蓋をシュカーンと開け、ぐいと一口飲んで語り始めた。◇よーう調べたやないかいな。せやけど、もっとこだわらなアカン!大豆と麹と塩を寝かせて味噌を作ったら、次は美味しい料理にせなアカンやろ!「一かけ二かけて三かけて、四かけて五かけて橋をかけ」というのは、どういうこっちゃねん?教えたろか……征韓論に敗れた西郷さんは新政府から離脱して一人欠けた。それで、故郷の鹿児島へ馬で駆けた。ほんでもって、命を懸けて、明治政府に喧嘩を仕掛けた。一か八かの大勝負を賭けたんや!ところが、田原坂の戦いで大打撃を受けた。ほうほうのていで熊本を脱出して、国境にある下槻木(しもつきぎ)という村に...歴史38/一かけ二かけ③
春やんがよく言っていた。「歴史というのは年表を覚えるのと違う。年表の裏にあることを語る、喋らんとあかん!歴史みたいなもん語ってなんぼや!喋ったもの勝ちや!」学問としての歴史学は、古文書・記録・史書などの文献史料を読んで、一つの歴史像を構成することにある。春やんは、文献資料など関係なしに、一つの歴史像を構成してしまう。それが出来たのは、喜志村という舞台があったからだ。「ええか、歴史というのは、その当時の地理を頭に入れて考えんとあかん」喜志村という地理を舞台にして、楠正成を、吉田松陰を、関係する人々を動かす演出家、監督だったのだ。学校で習う日本史は政治史の色合いが濃い。そのため、庶民が出てくることは少ないし、文化や信仰は貴族や武士、僧侶のものだ。庶民の文化や信仰に光があてられたのは、1914年(大正3)に柳田...歴史37/あとがき……
楠木正成が、多くの人々に親しまれるようになったのは、江戸時代初期、南北朝の争乱を描いた『太平記』の注釈書『太平記評判秘伝理尽紗』が成立してからだ。大名・武士・儒学者にとって正成は、理想の政治家・指導者、兵学者だった。やがて、この『太平記評判秘伝理尽砂』を台本にした「太平記読み」が民衆にも広まり、17世紀後半には講談に発展する。民衆にとっての正成は、天皇に尽くす忠臣ではなく、権力に対して反逆し、強きをくじき弱気を助ける正義の味方だった。反体制のシンボルとして、由比正雪や大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりとして歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなった。この楠公像が一転したのは、『大日本史』を編集した徳川光圀が、1692年、湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立してからだ。その後、水戸藩士の会沢正志斎が『新論』を著し、万世一系...俄34/大楠公
以下の文章とスケッチは、川面出身の鶴島輝雄さん(故人)がかかれたものである。戦争が終わって軍国色が一掃されると、それまで自粛を強制されていた盆踊りや祭りが爆発的な勢いで復活した。この絵は昭和二十二年頃(一九四七)の、秋祭りにおけるだんじりの宮入りを示している。この当時、二〇台に近いだんじりが繰り出した。青年団が祭りを取り仕切り、九月中旬から〈にわか〉の練習に励んで、十月十八日の本祭りの日、神社の境内で〈にわか〉を奉納した。だんじりの周りには〈にわか〉を見る人で溢れていた。昭和十年刊の喜志尋常高等小学校〔現代の中学1・2年〕『学びの栞』の中に次の記事がある(国立国会図書館デジタルより)。(十月)十七日神嘗祭(かんなめさい)この日初穂を皇太神宮にお供へになり、勅使が立たれます。宮中でも、賢所でおごそかな祭典を...歴史36/祭りじゃ俄じゃ補筆
※連載ものです。①から順にお読みください。大歓声、大爆笑の中で、ハプニングがおこった。娘のお登勢(ミッツォはん)が母親の小浜(彦やん)に、なぜ兄を引き止めなかったのかと言い諭す場面だ。台本では「それでもあなたは母ですか」という一言なのだが、ここが見せ場だとミッツォはんもセリフを増やしていた。「それでもあなたは母ですか。子を持つ親というものは、そんな邪険なものでない。母に捨てられ父には死なれ、広い世間にただ一人、そんな兄さんを一人で返す親はない。たった一人の兄さんとともに涙を流したい」冬の場面設定に加えて、生娘なので付け下げを隙間なく着こんでいる。きりりとした顔で母を見つめて「それでもあなたは母ですか」まではよかった。ところが、西日がまともにあたって暑い。たらりと汗が流れる。「子を持つ親というものは・・・」...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑨
※連載ものです。①から順にお読みください。南河内に心地よい秋風が吹きだした。稲穂がそよいで金色に揺れる中を、十年ぶりに太鼓の音が響く。今の地車囃子には小太鼓と摺鉦(すりがね)が入るが、昔は大太鼓だけだった。揃いの法被も無く、各自が自由の服装でよかった。当時の秋祭りは曜日に関係なく10月16日(宵宮・試験曳)、17日(本宮・渡御)、18日(後宴祭・地車宮入り)の三日間と決まっていた。天候にも恵まれ、宮さん(美具久留御魂神社)の境内は、富田林中の人々が集まったのではないかと思うほど、秋祭りを心待ちにしていた人々でうまった。楠公崇拝の神社で戦中の風が残っているのか紋付袴の人もいる。女性はモンペ姿ではなく、着物を着た中にスカート姿が目立つ。終戦まで宮さんは高等小学校だったので、下拝殿の前は運動場として整地されてい...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑧
※連載ものです。①から順にお読みください。徳ちゃんが一週間かけて読んだ台本を皆が書き写し、それを照らし合わせて一つの台本が完成した。コピーなんぞは無かった時代。完成した台本を順ぐりに一人ずつ書き写す。一回りした頃には、誰もがすべてのセリフを覚えていた。田んぼの真ん中で「母の面影瞼の裏に、描きつづけて旅から旅へ。昨日は東、今日は西、尋ね尋ねてやって来た・・・」と一人芝居をやっている。見回すとあっちでもこっちでもやっているものだから、負けてはならぬと余計に練習に熱が入る。いよいよ配役を決めることになった。希望など採るまでもなく、全員が主人公の番場の忠太郎だった。我々子どものヒーローがウルトラマンなら、春やんたちのヒーローは、番場の忠太郎であり中乗り新三だった。祭事で内輪もめはよくないというので、徳ちゃんに決め...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ➆
※連載ものです。①から順にお読みください。徳ちゃんのオッチャンから台本を見せてもらったが、達筆すぎて読めない。それで、徳ちゃんに読んでもらったのを皆で紙に書き写すことになった。晩飯を食べて会所に集まる。本来ならば縄を編んだりして夜なべの作業をしなければならないのだが、「俄の稽古に行ってくるわ」と言うと、親たちも快く許してくれた。この時点では、まだ配役は決まっていない。祭の花形である奉納俄がしたくて、我こそが主人公の番場の忠太郎だと意気込んでいる者が十人ほど集まった。一杯機嫌の徳ちゃんがやって来て講義を始めた。「ええか、忠太郎が別れた母親に会いに来る、料亭水熊の場や!」昔は、誰もが映画や浪曲で見たり聞いたりしていたから、あらすじどころか結末までわかっていた。「口に出して覚えながら書きや。母の面影瞼の裏にや」...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑥
※連載ものです。①から順にお読みください。川面に新しい地車がやって来た昭和22年という年は、5月3日に日本国憲法が施行された年だ。5月20日の第1特別国会で、吉田茂内閣が総辞職して、23日に社会党の片山哲が内閣総理大臣になった。農村の川面は、前の年から実施された農地改革で、大地主の農地の大半が政府に買収され、それが安い価格で小作に売却され、悲喜こもごもながらも、民主主義、平等、自由が感じられるた。物資はまだまだ不足していたが、出生267万8792人,出生率3.43,昭和最高のベビー・ブームとなった。新しい日本の歯車が回り出した年だった。春やんたちの円陣は俄の話になっていた。相も変わらず、学芸会のセリフ回しで、まどろっこしいのでまとめて記す。昔は「祭=地車=俄」で、喜志の宮さん(美具久留御魂神社)で地車の上...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ⑤
※連載ものです。①から順にお読みください。三十代半ばくらいのミッツォはん(満男さん)が、「新しい地車(だんじり)を買うたんは何時でしたかいな?」と皆に尋ねた。会所の南側の地車小屋にある地車のことで、我々が物心着いた頃にはもう曳いていなかった。それからは放ったらかしで、入口に閂(かんぬき=鍵)があるのだが、周りの壁のあちこちに穴が空いていて出入り自由で、我々の秘密基地になっていた。四十歳くらいのトタさん(藤太郎さん)が「覚えてないんかいな!おまえが初めて俄したときやないかい!終戦の20年やがな!」と言った。同じ四十歳くらいのノブさん(伸雄さん)が「ちゃうちゃう、終戦の年に祭する余裕みたいあるかい!次の年の昭和21年やがな!」と言う。四十代半ばくらいの彦やん(彦一さん)が「あんだら、次の年も引き上げ(本土帰還...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ④
※連載ものです。①から順にお読みください。春やんが立ち上がり、大きな紙袋を持って我々の円陣に来て、紙袋の中身をドカっとぶっちゃけた。畳の上に色とりどりのお菓子が広がった。「さあ、好きな物を食べ。そや、辛いお菓子は残しといてや。後でオッチャンらの酒のアテにするさかい!」消防団の屯所の清掃整備当番の帰りで、そのお下がりのお菓子だという。春やんたちは、竹寿司の握りをアテに酒を飲んでいる。我々も説教されずにすんだという安堵感で、お菓子をほおばった。「ところで、最前におまえらが科学特捜隊やら宇宙警備隊やら言うてたけど、何のこっちゃ?」と春やんが訊いてきた。「悪い怪獣から世界を守る地球防衛隊や!」「わしがいた特設警備工兵隊みたいなもんやなあ」「オッチャン、そら何やねん?」「悪い奴から日本を守る本土防衛隊や!」春やんは...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ③
※連載ものです。①から順にお読みください。小学校の高学年ともなると、少し大人になるのか、体温調節機能が少しずつなくなって寒い。そこで、金剛山が白くなるような日は、町内の集会所で遊ぼうということになる。集会所といっても、木造平屋・瓦ぶきの建物で、暖房も無いから気温は外とさほど変わらない。ただ、雨風はしのげるので寒い日の格好の遊び場になっていた。当時は、どこの家も戸の鍵を締めなかったから、会所も鍵がかかってなくて出入りは自由にできた。20畳ほどの広間があるだけで、これといった遊び道具は無かったが、何十枚とある座布団をビー玉に見立てて陣取りしたり、瓦に見立てて瓦当てしたり、座布団で三角ベースをつくってピンポン玉を打って野球をしたり、無いなら無いなりに遊びを考えた。一通りで遊んで、最後は必ず座布団投げになった。一...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ➁
夜中に寒さで目が覚めた。トイレへ行って、コーヒーでも飲むかと、台所の椅子に座ってポットのスイッチをいれる。ぶるっと寒気がして「おおさぶ~」と思わずつぶやく。それが懐かしい節になっていたので、ふと思い出した。♪おおさむこさむ~山から小僧が飛んでてきた♪同じフレーズを何度か繰り返すが、次が出てこない。「次の文句(歌詞)は、なんあったかいな?」と独りツッコミ。その「なんあった」で思い出した。♪なんといって飛んできた~なんといって飛んできた~寒いといって飛んできた~おおさむこさむ~山から小僧が飛んできた♪寒い冬の戸外で遊んで、みんなで家に帰るときのテーマソングだった。永遠に続くのだが、各自の家に来るごとに、一人減り、二人減りして、ようやく終わる。ポットのお湯がシュンシュンと湧きだす。昔、火鉢の五徳にかけられた鍋の...歴史36戦後/祭りじゃ俄じゃ①
4月11日にバターン半島を攻略したが、半島尖端から4キロの距離に浮かぶコレヒドール島の攻略という難関が待ち受けていた。東西7キロほどのオタマジャクシのような形をした島なんやが、周囲6キロの島は断崖絶壁で、その上にコンクリートに鉄板を張り詰めた陣地を巡らし、オタマジャクシの頭には、十六インチ要塞砲や三十サンチ加農砲、高角砲などがズラリと砲口を並べている大要塞や。そんな「浮沈軍艦」と呼ばれたコレヒドール島攻略作戦に、我々の部隊にも出動命令が出た。島の攻略に歩兵が刈り出されるということは、最も危険な敵前上陸をせよというこっちゃ。小さな島の敵の懐に上陸したんでは逃げることも出来んがな・・・。こら、ほんまにアカン!三日後の5月4日は、半島の突端のジャングルの中で夜を過ごした。夜空に輝く南十字星を見ながら、いよいよ明...歴史35昭和――春やん戦記➆
第一次防衛線は突破したものの、第二次防衛線は20キロほど先の山の中腹にあった。それを攻撃するためにはジャングルの山道を登っていかんとあかんかった。しかも、昼間は敵の目につきやすいので、行動はすべて夜間あった。尻の上のバンドに白い手拭いをぶらさげて、それを目印にして、はぐれんように闇の中を行軍した。ほんでもって、適当な場所を見つけてジャングルの中で寝たんや。キキッ、ギャーギャーと、名前も知らん鳥の鳴き声で目が覚めた。眠たい目をこすりながら山の中腹を見てびっくりしたがな!山の上から白旗をかかげたアメリカ兵が、蟻の行列のように降りてくるやないかい。一人、二人・・・十人、二十人・・・百人、二百人・・・、千人、二千人・・・?!小便ちびるほどびっくりした!わしら日本兵を見つけると「グモーニン」やら言うて、ニコニコ笑い...歴史35昭和――春やん戦記⑥
こらアカン!2月に米軍の基地からバターン半島の地図が見つかったんやが、バターン半島は、戦争が始まる一年前から、三段構えの防御線を造り、6カ月の攻防に耐えられる物資を貯えた大要塞あったんや。そのうえ、半島の先にはコレヒドール島というもう一つの大要塞がある。こらアカン!思わず女房の小春の泣いとる顔が眼に浮かびよった。ところがや、わしらが上陸した次の日から、リンガエン湾に次々と兵隊が到着してきた。砲兵部隊も続々とやってきた。重爆撃機を中心とした航空隊も配属されて、日本軍は五万人ほどの大軍団になっていた。ああ、これで助かった!しかし、そう思たのもつかの間や。日本軍が侵攻した島々から撤退してきたアメリカ兵が、バターン半島に集結して二倍の8万人に膨れ上がっていた。そこにフィリピンの避難民2万人も加わって日本軍を上回る...歴史35昭和――春やん戦記⑤
昭和16年の7月5日に大阪城のそばにある歩兵第八連隊に入営をして、十日も経たんうちに、大阪港から上海に移動させられた。そのときの日本軍は、国際都市の上海どころか南京も占領してイケイケの時あった。当時は何の情報も知らされずに分からんままに行ったが、あとで調べたら、アメリカもイギリスも「黄色人種同士で戦っとけ」みたいな気持ちあったんやろなあ。おまけに、ドイツがソ連と交戦したために、その年の四月に日ソ中立条約が結ばれて、中国は虫の息あった。そやから、大工をしていたわしは、上海では銃を持ったことがなかった。駐屯地の兵舎やら、日本からぎゅうさん移住して来た日本人街の建築やらに刈り出されて、そら、忙しい毎日あった。せやけど、このまま日中戦争が終わってくれたらええのになあと思てた。ところが、7月28日に日本軍が、フラン...歴史35昭和――春やん戦記④
最初の現役を終えて、昭和14年の暮れ、大阪の聖天坂の家に帰ってきて、久々に小春との正月を迎えた。小春は道頓堀の劇場でお茶子(客接待)して、舞台にもちょこちょこ上がっとった。わしも、いつまでもぶらぶらしてられんので、入隊前に勤めていた岸里の工務店の社長はんに働かせとくなはれと頼みに行った。社長はんは、ご苦労さんあったと言うて、心良う引き受けてくれはったがな。大工に左官に電気の配線と忙しかったが、一ぺん軍隊にいったら多少のことは辛抱できるもんや。贅沢は出来んけども、まあまあ幸せな日々あった。しかし、それも一年半ほどや。わしが満州から帰ってきた昭和14年9月には、ドイツが突如ポーランドへ侵攻して、すでに第二次世界大戦が始まてた。おまけに、三年前のから始まった日中戦争がまだ続いてる。そこへきて、昭和15年9月に、...歴史35昭和――春やん戦記③
「15年前の今日ら(8月14日)あったら、酒飲んで、こんなごっつぉは食べられへんかったがな!」そう言いながら春やんが、ちびちびと飲んでいたコップの酒をゴクリと飲んで続けた。富田林は、大阪(市内)から疎開してくるぐらいやから、まだましなほうあった。ほやけど、酒どころか醤油は無い、砂糖も塩もなかった。それやのに、ラジオから流れる大本営発表は『勇猛果敢に敵戦力を撃砕せり』ばっかしや。当時は、こんなこと言われへんかったけど、みんな負けると思てた。せやのに、なんで戦争を続けるねん!もうええわ!もうどうなろうがかまへん。もうええから戦争を止めて、もはや玉砕あるのみ。あのときの「もうええわ」には、諦めのような、願いのような、覚悟のような複雑な思いが込められてた。そやさかいに、15日に終戦の詔書を聞いたときには、どない言...歴史35昭和――春やん戦記②
1/15(日)南河内羽曳野・藤井寺の冬の歴史散策に参加してきた。今年もウォーキングをライフワークに。近鉄古市駅を出発し、白鳥陵古墳を通り過ぎ、誉田八幡宮へ。境内を散策していると、源頼朝寄進の「塵地螺鈿金銅装神輿」が収められているらしい。こんなところに、頼朝さんからこないだ鎌倉へ行ったばかりなので、すごく親近感・・・。しかも国宝。実物が見れないことが残念。 しかもパネルてーーとんど焼が終わるといよいよ本...
わしが17(歳)の時や。小学校のそばに喜楽座という芝居小屋が出来た。いろんな一座が入れ替わりで興行をうつのやが、年に数回、小泉劇団というのがやってきた。その劇団に橘小春という可愛らしい子がいてな、村の若い者は芝居見に行くのやなしに、小春ちゃんを見に行ってたようなもんあった。時々、村の素人も出演させてくれはってな、わしも早ようから俄や村芝居に出てたんで何回か出演させてもろうた。いうても、町娘にちょっかいだすチンピラみたいな役あった。それでもな、「つべこべぬかさんとわいに付いてこんかい!」と言うて、一瞬でも小春ちゃんの手を握れんのが嬉しかった。小春ちゃんは、わしより二つ上で、よう似た歳あったさかいに、いつしか仲ようなった。そんなんで、ある日、楽屋で小春ちゃんと話をしている時に、今回の興行が終わったら大阪に帰る...歴史34昭和――春やん恋しぐれ③
小春もわしも若かった。よう働いたし楽しかった。せやけど、それも三年ほどや・・・。二十歳になった昭和12年の5月頃に徴兵検査の通知がきよった。身体に悪いところはなかったから甲種の合格や。それを機に、小春を喜志に連れて帰って祝言をあげた。村の中の親戚の家を小春の実家に見たてて、白無垢の着物に文金高島田で我が家まで歩いて嫁入りや。橘小春見たさに近隣の村から人が仰山集まってきて、えらい騒ぎあった。昭和12年の7月に日中事変が始まると、すぐに入隊通知がきて法円坂の歩兵第八連隊に入営した。「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」と言われた連隊や。(京都の歩兵第9連隊を「勲章をくれんたい(もらえませんよ)」という九州弁の洒落でもわかるように、九州の連隊のやっかみや。他所の連隊は「突撃」かけられたら突撃して玉砕するけ...歴史34昭和――春やん恋しぐれ④
大学2年生の長い夏休みだった。アルバイトはしていなかった。その代わり、朝8時半ごろ家を出て阿倍野に行く。阿倍野筋の旭屋書店の下にあるパチンコ屋がアルバイトのようなものだった。10時の開店前に並んでいると高校の同級生が、たいがい五、六人いた。パチプロのエーちゃんというのがいて、ハンカチを預ける。ドアが開いて軍艦マーチがけたたましく鳴る中を台探し。エーちゃんが目ぼしい台を見つけて、預けたハンカチを台の上に置いてくれる。まだ一発ずつはじいて打つ手打ちの時代だった。一時間半ほどすると1500発で終了になる。一発2円の頃だったので3000円だが、2割引かれて2500円前後。二台目に挑戦している途中に食事時。「食事中」の札を貼ってもらって皆で昼食。豪華にいくならKYKの豚カツ定食350円。腹いっぱいならアポロの下の熊...歴史34昭和――春やん恋しぐれ①
聖天坂駅、駅というより停留場といった方がいいほど小さな駅を降りると、すぐに広い道がある。踏切を渡ってニ、三分ほど歩いたところにアパートがあった。アパートというよりは二階建ての離れを借家にしたようなもので、一階と二階の二部屋しかなかった。人一人がやっと通れるような階段を上るとすぐにドアがあって、入るとすぐに六畳の畳の間があった。合鍵を持っていた居候のTが先に帰っていた。バンドをするというだけあって、すらりとした長身で恰好よかった。野菜を適当に切って、エーちゃんと私とTとFの四人ですき焼きをつついた。クーラーはなかったが、窓を開ければ涼しい風が入り、大阪市内だからか蚊もいなかった。ぐっすりと寝て、翌朝の8時くらいに四人でアパートを出た。線路沿いに北に向かって松虫通りを少し通って左に曲がると聖天下という簡素な住...歴史34昭和――春やん恋しぐれ②
「ほんまに、人情味のある、優しい、兄貴あった・・・」そう言って春やんは鼻をすすり、ちびりと酒もすすった。オトンは何も言わなかった。私は、勇ましくも、なんとも悲しい話で聞かなければよかったと思った。「そやから、本来ならば『篠ヶ峰』と彫った墓石にするものやが、陸軍歩兵何某と書かれた立派な墓に入ってしまいよった」「兄弟の中にひとりぐらい賢いやつがおらんとあかん。わしが中学校までやってもらえたのも兄貴のお陰や」とも言った。気をとり直したのかオトンが言った。「ほんで、春やん、今日はなにしに来たんや?」「ああ、そやそや。喜志の宮さんのお札と祝い箸を配りにきたんあった」「もう、そんな時期か・・・」「はやいなあ。来年は戦争も災いもない良いとしでありますようにやなあ」そう言ってお札と祝い箸をテーブルの上に置き、「ごっつぉは...歴史33大正――人情大相撲⑥
大坂相撲は春夏秋冬10日ずつの本場所に、東京相撲との対抗戦を加えた五場所を中心に興行していた。今の本場所といっしょで、一日一番の取り組みや。兄貴は千田川親方の許しを得て篠ヶ峰の四股名で土俵に上がり、序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両と勝ち進んだ。一年後の22歳の夏場所では幕下の前頭八枚目まで出世しよった。それからは前頭あたりを勝ったり負けたりして、23歳の5月場所の新番付では前頭三枚目まで上がってた。そのときや、事件が起きたんは。「そのときや、事件が起きたんは」と繰り返して、春やんはぐびりと酒を飲んだ。そして、アテがなくなったのか、私が食べていた、その年発売されたポッキーを一本取って、トッポジージョのようにかじった。そして、「乙な味やなあ」と言って、ポッキーをもう一本取った。春やん、あかんで、僕のや。困っ...歴史33大正――人情大相撲④
「ほんでどないなったんや?」「死によった」「なんでや?」内地で半年ほど訓練した後に満州に派遣された。一年ほどした後の昭和6年(1931)9月18日に満州事変が起こったんや。後に記録班あった戦友から聞いた話やが、奉天北大営の攻撃、紅頂山兵営の攻撃を戦い、12月15日の馬家要塞の戦闘に先乗り部隊の軽機関銃手として従軍した。夕暮れ時、敵が攻撃をかけてきた。小高い丘から、しかも夕陽を背にしてるのを利用した奇襲攻撃や!こっちは先乗り部隊の百数十名の兵で、五倍ほどの大敵を相手の戦いあったそうや。兄貴は小隊長のところへ詰めより、「ここは敵と四つに組んでは勝ち目はなし。左右に換わって敵の横腹を攻めるのが得策。その頃には後方部隊も到着し、三方から攻撃が可能です。それまで私が敵を食い止めます」18歳のときの八朔相撲のお返しや...歴史33大正――人情大相撲⑤
村相撲は野外でやるんで冬場の興業はない。八卦の又の親分さんとこの仕事を手伝い、あとはひたすら稽古の毎日や。三か月余りたった3月25日羽曳野誉田八万能まつりの宮相撲が兄貴の初土俵あった。村相撲とはいえ、大きな興行ともなると、頭取が15名、相撲取りが700名、行司45名、世話人(スポンサー)100名という大所帯や!勝負は5人抜きの勝ち抜き戦やから朝から晩まで取り組みが続いた。朝の早よから大勢の人がひっきりなしに集まって来た。昔は、村相撲が庶民の一番の娯楽あったんや。まどろむ暇もあらばこそ決戦告げる暁の、5丈3尺櫓の上でドドンと鳴りだす一番太鼓。一番太鼓で目を覚まし、二番太鼓で身支度をし、三番太鼓で場所入りや。強いとはいえ力の世界。兄貴は番付け序の口からの取り組みあった。初の土俵の一人目は、立ち上がるなり張り手...歴史33大正――人情大相撲②
大碇の部屋に入ったその翌年や。兄貴は二十歳になっとった。三月から始まった興行から勝ち進んで、9月の道明寺天満宮の八朔相撲の時あった。このときは東の張出横綱まで上がってた。東西の正横綱が二人、張出横綱が二人やから番付では三番目や。下から勝ち抜いてきた大関とが一番目や。これを下手で投げ倒し、二番目の西の張出横綱を掬(すく)い投げ、三番目は西の横綱を首投げして、いよいよ結びの大一番、東の横綱との一戦になった。この一番をみなければ、男と生まれた甲斐がない。見に行かなければ先祖の位牌に申し訳があい立たんと、押すな押すなの人の声。押すなと言うたら押すのじゃない!そんなに押したら背中の握り飯や潰れて、梅干しゃ裸で風邪をひくやないかい!大入り満員札止めの中、呼び出しが、どとんとんとんと駆け上がって、西と東と読み上げる。名...歴史33大正――人情大相撲③
昭和40年代(1965~)のジャイアンツ(巨人)は強かった。長嶋・王のON砲に加えて川上監督が就任し、昭和40年から48年にかけて日本シリーズ9連覇(V9)を成し遂げた。もう一つ(一人)強かったのが大鵬だ。昭和36年11月場所で横綱に昇進してから昭和46年5月場所で引退するまで、優勝32回(6連覇2回)、45連勝などを記録した。「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行るほど、とにかく強かった。その年も巨人・大鵬は強かった。巨人は、二位の中日に13ゲーム差をつけて優勝。三位阪神とは25ゲーム差だった。日本シリーズでも4勝2敗で南海を下してV2優勝した。大鵬は、初場所こそ柏戸に負けたものの、その後6連覇を果たしている。その年の九州場所の千秋楽、14勝0敗の大鵬と10勝4敗の横綱柏戸との結びの一番をテレビで見てい...歴史33大正――人情大相撲①
春やんが酒に酔ったとき、たまに歌うことがあった。♪国求(ま)ぎましし大国の神をまつりて幾千歳和邇の大池すめらぎの恵みたたえし喜志の古郷(さと)♪♪春北山に桜咲き秋石川に菊かおる茅原ひらけて稲の波中にそびゆる喜志の学びや♪忠と孝とは国の華つとめ励まんもろともに御祖(みおや)の勲(いさお)慕いつついざ起(た)ちゆかな学び子我ら爆弾の破片の入った目をしくしくさせて歌い終わると、破片の入った膝をさすりなから帰っていった。喜志村にある喜志小学校の戦前の歴史である。明治5年8月14日富田林村内の興正寺別院・妙慶寺の本堂で、富田林村・毛人谷村・新堂村・中野村・喜志村・新家村の6ヶ村連合により『河内国第27区郷学校(富田林郷学校)』が開校。※通学不便のため、新堂村は光盛寺・圓光寺に、喜志村は明尊寺(桜井)に富田林郷学校教...歴史32大正――創立50周年②
日清戦争(明治27年1894)・日露戦争(明治37年1904)に勝利した後、明治天皇が崩御1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。大正時代になってすぐに第一次世界大戦が始まる。戦争は4年間にわたって続けられた。ロシア、フランス、イギリスなど連合国と、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟との戦争である。日本は日英同盟を理由に8月、ドイツに宣戦布告し、ドイツの植民地だった中国の青島に攻めこみ大国の仲間入りを果たす。主戦場から遠く離れた日本は、輸出が急増し空前の大戦景気(バブル)がおとずれる。大正時代を一口で言えば「甘く辛く、楽しく苦しい」が混在した時代だ。春やんがよく歌っていた『うめぼしのうた』である。♪二月三月花ざかり、うぐいす鳴いた春の日の楽しい時も夢のうち。五月六月実がなれば、枝からふるいお...歴史32大正――創立50周年③
――日本の歴史を考えるときは〈神仏習合〉〈神仏分離〉〈神社合祀〉というのを頭に入れとかんとあかん――これもまた春やんがよく言っていた言葉である。明治という時代は神と仏の大転換期だった。古来の日本では、岩や海、大木、大岩など様々なところに宿る神(国津神・地祇)を信仰する自然崇拝があった。それと、大和朝廷が編纂した「古事記・日本書紀」の日本神話に出てくる神々(天津神・天神)を信仰する神道があった。そこに、中国から伝来した仏教が加わる。この時、仏像を巡り崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏)との争いはあったものの、しだいに、神道と仏教を同一と見なすようになる〈神仏習合〉。お寺の中に神社があり、神社に仏像を置きお経をあげても不思議でない生活が1000年も続いていた。ところが、明治政府は(神仏習合)を禁止し(明治3年)...歴史32大正――創立50周年①
明治時代の話や。明治という時代がきて日本は大きく変わった。江戸時代は、土地の持ち主は領主のお殿さんで、その下に広い土地を持つ庄屋はんがいて、それなりの土地を持つ本百姓。それと、庄屋の土地で働く水呑み百姓とに別れていた。それが明治になって地租改正というのがあって、お殿さんはが無くなった(廃藩置県)。土地はその土地の持ち主のものになったんや。ええこっちゃないかいと思うやろけど、広い土地を持つ庄屋はんが大地主になって、それなりの土地を持つ本百姓が自作農家。それと、庄屋の土地で働く水呑み百姓が小作農家と名前が変わっただけや。それどころか、米で払っていた年貢を税金、お金で払えということになったんや。米を作って年貢を払うて、残った米でしゃぶしゃぶのオカイさんすすってコーコかじって自給自足してたとこへ、税金を払えや。現...歴史31明治――大深の一寸③
冬休みに入ったばかりのある日のことだった。野球をしようということになって、前の日から人数集めをして、朝の9時に墓の横にある田んぼに集合ということになっていた。川面には公園はなく、広い遊び場は田んぼしかなかった。墓の横の田んぼは稲の株を短く刈っていたし、真四角で野球するにはもってこいだった。友達ニ、三人で墓につづく細い道を歩いていると、焼き場の煙突から黄色い煙がうっすらと上がっている。「誰か死なはったんやな。見に行こか」ということになった。墓で走って転ぶと死ぬという言い伝えがあったので、ゆっくり歩いて阿弥陀堂に行き、裏の焼き場をのぞくと春やんと二人のオッチャンがいた。オンボ(隠亡)という一晩中、火の番をする役目で、年寄りが交代でやっていた。冷ましている途中だったのだろう。釜の火はほぼ消えていた。喪主からの接...歴史31明治――大深の一寸②
――歴史を考える時は当時の地形・地理を頭に入れておかんとあかん――春やんがよく言っていた言葉である。地形の変化は海や川・湖などの水の影響が大きい。鎌倉時代までの大阪がそうだ。上町大地の半島より東側は河内湖(後に河内潟)だった。それが淀川や大和川が運ぶ堆積物によってゆっくりと縮小していった。そして、江戸時代の大和川の付け替え工事(1703年)によってまた大きく変化する。川面の浜の剣先舟の水運が盛んになったのも大和川の付け替え工事のお陰だ。川面は東を流れる石川によって大きく変化する。江戸時代の石川は西の河岸段丘沿いに流れていた。明治の中頃に河南橋の上流に堤防が築かれ、石川は東寄りに流れを変えた。新田開発が行われ「裏脇」と呼ぶ田畑ができた。そして、石川に河南橋が架けられて新道(府道美原太子線)が出来たことで、石...歴史31明治――大深の一寸①
瓦当ての事件があってから三日ほど経った日。学校からの帰りに春やんの家の前を通ると、春やんが自転車のパンクを直していた。大工はもちろん機械や電気なども自分で修理する器用な人だった。「パンクしたんかいな」と言うと、「可難こっちゃ、ほれ見てみ!こんな釘が入とった」3センチほどの曲がり釘だった。修理は終わっていたのか、空気入れを押しながら、「ほんで、みな仲ようやってるか?」「そらそや、僕ら川面のわたしなんやから」「わたし(私)?私と違うて舟で川を渡る渡しやで!」「わかってるがな、戦艦大和ほどある船やろ!」「解ってるやないかい。可難奴っちゃなぁ」「そやそや、聞こ聞こ思てたんやけど、河南町にあったら河南橋でええねんけど、喜志にあるのに何んで河南橋というねん?」「そんなん、簡単なこっちゃ。ちょっと待っときや」と言って春...歴史30明治――川面の渡し①
【補筆として】明治22年、川面の浜の上流に河南橋の元となる仮の橋が架けられた。同時に新道や河南橋東詰めから太子街道につながる道が開通する。仮の橋は幅1.8m、長さ200mで、途中に車のすれ違い用として幅3.6mの待避所が設けられていた。このことで川面の渡しは250年の歴史の幕を閉じることになる。渡し舟の運営は次のようなものだった。・舟の新設および修繕は川面住民の負担とし、喜志全村より多少の補助をする。・舟の使用および保管は、川面住民より、一定の期限を決め、舟仲間と称する四、五人に請け負わせる。・舟賃は舟仲間が、近隣各村の一戸につき「船米」と称して五合もしくは一升の米を徴収し、その中から舟仲間の受け負い料として一か年一石六斗を川面に納め、請負料とし、残りおよび臨時収入は舟仲間の所得とする。ただし喜志村から船...歴史30明治――川面の渡し②
この船溜まりに止まっていた舟というのは、長さ20m、幅2mほどの刀みたいに細長い舟あったから「剣先舟」というてた。その剣先船が20台ほどここに止まってた。この辺りはなあ「川面の浜」というて船着き場あったんや。太子(町)や大ヶ塚・森屋などの河南町。千早赤阪村。石川の上流の富田林・甲田・錦織などで採れた米・木綿・酒・油・材木なんかがこの川面の浜に集まってくる。それを剣先舟に積んで石川を下り、大和川に入って大阪の難波まで運んでた。帰りは、塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆(千早の高野豆腐製造用)なんかを積んで石川を上って川面の浜で下ろされたんや。ほれ、そこ(北側)に工場があるやろ。あの辺りには「みやでん(宮殿)」と呼ばれた、国会議事堂ほどもある問屋さんがあったんや。(そらウソやろと思ったが、誰も何も言わない)道を挟ん...歴史29明治――川面の浜②
河南橋の近くにある建具屋さんの材木置き場の空き地で「瓦当て(かわらあて)」をしていた。10センチほどの割れた瓦を拾ってきて、地面に立てやすく、投げやすいようにコンクリートでこすって加工する。グッパーで二つのチームに分け、5、6メートルほど離れた二本の線を引き、攻撃側と守り側に別れる。守り側は線の上に瓦を立てる。攻撃側がそれを瓦で倒す。全部倒すことが出来れば次のフェーズ(段階)に移って攻撃が続けられるが、一つでも残れば攻守交替になるという遊びだ。フェーズは、足の甲から始まって、膝・股・腹・胸・肩・額・頭に瓦を乗せて当てるるという具合にグレードアップしていく。攻撃側が、片手をグーにして胸にひっつけ、その上に瓦を乗せて当てるフェーズになった。攻撃側のコウンチャンがトモヤンの瓦をねらって見事に倒した。「あかん。胸...歴史29明治――川面の浜①
天誅組が代官所を襲撃したのは午後4時ごろ。五條代官所の座敷には、代官の鈴木源内と妻のやえ、取次役の木村裕二郎。そして、病み上がりの源内に按摩をしていた嘉吉という男がいた。「ああ、嘉吉、もうよい。ずいぶんと楽になったわい。そなたは名人じゃ」「めっそうもございません。そこらの田舎按摩でございます」その時、遠くでドドンドンドンと太鼓の音。「木村、なんじゃ、あの太鼓は?」「秋祭りが近いゆえ、村人が俄の稽古をしているのでございましょう」しばらくして、表門の方で鉄砲の音が一発、二発・・・。刀を抜いた役人が「代官様。天誅組と申す者たちが攻めてまいりました。ご用意を!」源内は奥座敷へと逃げる。嘉吉は羽織を頭からかぶって震えている。木村は刀の柄に手をかけて庭に出た。役人が四、五人座敷に逃げて来た。その後ろから天誅組の池内源...歴史28幕末――テンチュウ③
「みんながちゃんと集まってるのに、なんで来えへんかったんや」そう言うやいなや、コガキが私の頬っぺたを思い切りたたいた。涙もでなかった。クラスのみんなは「・・・!」。ただ幸いだったのは、その時もその後も誰も私を非難しなかったこと。たぶんその日は誰とも話さなかったように思う。話す気力もなかった。一人で下校して、庭の片隅に積んである風呂柴の上に座ってぼんやりしていた。前栽の樹々で庭は暗いのに、夕陽をうけた東の空はやけに明るかった。そこへ秋日の中をふらふらと春やんが歩いてきた。私を見つけて、「どないしたんや?えらい寂しそうやなあ」「・・・」「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し・・というやつか」春やんがわけのわからないことを言ったので、少しおかしかった。それで、その日あったことを春やんに話し...歴史28幕末――テンチュウ②
昭和41年(1966)は台風の発生が多い年だった。6月の下旬から8号が大きな被害をもたらした。9月には今でも最高風速(85.3m/s)の記録を残す18号が宮古島に大被害をもたらし、下旬には24号、26号が続けて上陸して日本列島を襲った。その都度、学校は臨時休校になるので、小学生の私にとっては少しばかりうれしかった。ところが、それが私に大被害をもたらす。9月最後の学級会(ホームルーム)の時だった。20歳代後半くらいの担任のコガキが教室に入ってくるや、10月にある学級発表会について話し出した。普段なら、みんなで話し合って出し物を決めるのだが、休校続きで時間がなかったのだろう。勝手に話を進めて、最後には15分ほどの寸劇を参観に来た保護者に見せようと言う。普段なら「どんな劇にする?」とみんなで話し合うのだが、焦っ...歴史28幕末――テンチュウ①
富田林を旅立って、わずか二か月後に、24歳の吉田松陰が目の当たりにした「黒船来航」は、その後の松陰の人生を大きく変える。29才で刑に処せられるまでの五年間の半分を、獄舎の中で過ごすことになる。ベリーは開国を促す親書を幕府に手渡し、「1年後に再来航する」と告げて6月10日に浦賀を去った。黒船来航を目の当たりにした松陰はどう感じていたのか?松陰曰く、「天下の大義を述べて、逆夷(=外敵)の罪を征討(=討伐)すべし」。水戸藩と並んで長州も攘夷(じょうい=外敵を追い払う)思想の強い藩だった。それも単なる「攘夷」ではなく、「敵愾(てきがい=外敵と戦う)」という過激なもので、1863年の高杉晋作らによる四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)は、長州藩としては当然の行動だった。その一方では密航を試みる。佐久間象山の「男子たるも...その27幕末「松陰独行」②
安政元年(1854)10月24日、吉田松陰は萩の野山獄の囚人となり一年余りを過ごすことになる。安政二年(1855)12月15日、藩主毛利敬親の温情により、病気保養の名目で野山獄を出され、実家の杉家に閉門蟄居する。家には人を入れられないので、松下村塾の納屋を改造、増築し多くの門下生を育て、明治維新へとつながっていく。二年間あまりのしばしの安穏の時だった。29年間の生涯の中で松陰が成し遂げた業績は、松下村塾で後進を育てた以外、形として残っているものは何もない。それどころか為すことすべてに失敗している。それは、どうしようもない現状を打破するために、真っ先に自ら艱難辛苦に飛び込んで行ったからだった。真個(しんこ=まことの)関西志士の魁(さきがけ)、英風(=立派な姿は)我が邦(くに)を鼓舞し来たれり高弟高杉晋作の彼...その27幕末「松陰独行」③
2月23日に岸和田に着いてから3月3日までの十日間、二人は岸和田に逗留している。その間、佐渡屋と中家の仲を取り持つこともさることながら、岸和田の多くの学者と議論を交わしている。岸和田を立った後も堺、貝塚の学者を訪ね、3月18日の午後にようやく富田林に帰ってくる。それから4月1日に旅立つ11日間、富田林に逗留する。よほど居心地がよかったのだろう。3月27日晴弥生も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまる。千早の峰々かすかに見えて、庭の中の桜花の梢(こずえ)はまだまだ心ぼそい。旅の疲れもようやく癒える。もうニ、三日もすれば江戸に向かうことを告げると、佐渡屋の六つばかりの子がよちよちと寄ってきて、膝の上に乗のって「いやや」と言う。散歩がてらに石川の堤にあがる。江戸までの前途三千里...その26幕末「松陰一人旅」④
2月15日晴なおしばし佐渡屋に逗留する。董其昌(とうきしょう)や趙礼叟(ちょうれいそう)などの中国の画家および空海の書や雪舟の龍虎図などを観る。どれもこれもめったには見ることの出来ないもので、節斎先生も大いにお褒めになっていた。また、伊勢神戸藩が河内の国に7000石を領しているが、近頃は財政困難に陥り、新しく領民たちに法令を掲げていうことには、「百両出せば名字帯刀を一代だけ許し、百五十両出せば苗字は世襲として帯刀は一代だけ許す。二百両出せば苗字太刀を世襲、二百五十両出せば名字帯刀持槍を世襲、三百両出せば名字帯刀槍騎馬を世襲とする」これによって7000石の地ながら三千両を得て、借金をことごとく返却したという。河内大和は公領(幕府直轄)で、管轄する組頭である伍長(五人組頭)や年寄(庄屋の補佐)や庄屋(村の長)...その26幕末「松陰一人旅」③
吉田松陰が富田林に向かうことになる理由を先に述べておく。嘉永五年(1852)富田林の造り酒屋佐渡屋と泉州熊取の大庄屋だった中家との間で縁談の約束が取りかわされた。ところが、両家との間になんらかのトラブルが生じてもめ事になった。そこで、佐渡屋は、中家当主の中左近が尊攘派学者として大和五條の森田節斎と知り合いであることを知り、節斎に両家の仲裁を頼んだ。佐渡屋徳兵衛の叔父増田久兵衛が五條に住んでいた関係から、森田節斎とも親交があったようで、節斎もこころよく引き受け、2月14日に富田林へ行くと約束をしていたのだった。さて、話を日記にもどす。2月13日雨午前1時頃に晴れる。竹内の宿場を立ち、今市(葛城市)を経て御所に着く。御所は公領なり。高取藩の植村出羽守に託されている。竹内から今北(御所市)に着く。土地はがらんと...その26幕末「松陰一人旅」②
受験まであと二か月に迫った頃だった。離れの自室で勉強をしていた。11月の半ばだったが、ぽかぽかと暖かかったので窓を開け放していた。するとそこへ春やんが骸骨のような顔をにゅうっと出した。少しどきりとした。親に用事があって来たのだろう。用事が終わってそのまま裏から回って来たのだ。「勉強か?しっかりやりや!」そう言って、めずらしく帰ろうとしたのだが、振り返って、「ええ言葉教えたろ。ちょっと紙と鉛筆かして」手渡すと春やんが紙に「至誠而不動者未之有也」と書いた。「至誠にして動かざる者、未だ之(これ)有らざるなりと読むんや。誠を尽くせば、人は必ず心動かされる。一所懸命にやれば物事は叶うという意味や。頑張りや」そう言って帰ろうとしたのだが、また振り返って、「誰の言葉か知ってるか?」知らなかったので首をかしげると、「松下...その26幕末「松陰一人旅」①