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【多摩エリア】午後には品薄な洋菓子屋【ル・ジャルダンブルー】の紹介◎
昔から多摩ニュータウンエリアで人気のケーキ屋さん【ル・ジャルダンブルー】 私が、多摩エリアに住んだことをきっかけに街のケーキ屋さんの中でもダントツで人気なこちらのお店を知ることとなり本当に美味しいケーキを知るきっかけとなったお店。 なんと、
こんにちわ! 本日も、訪問といいねありがとうございます。 今日は、ピューロランド購入品記事です。 帰りは、友達と一緒にお土産を購入。 お菓子の他に、手作りのネ…
こんにちわ! 本日も、訪問といいねありがとうございます。 今日は、サンリオのショー記事です。 ピューロランド内では、とっても可愛かったパレードを観賞。 ミラク…
こんにちわ! 本日も、訪問といいねありがとうございます。 今日は、サンリオのスウィーツ記事です。 フードの他に、友達と一緒にスウィーツも堪能。 友達は、シナ…
こんにちわ! 本日も、訪問といいねありがとうございます。 今日は、ピューロランドのフード記事です。 ピューロ内では、可愛いフードを友達と一緒に堪能。 まずはラ…
こんにちわ! 本日も、訪問といいねありがとうございます。 今日は、サンリオピューロランド記事です。 昨日、久しぶりに友達と再会。 一緒に、サンリオピューロラン…
永山諏訪神社(→東京都多摩市諏訪1丁目)は、室町時代に武蔵国守護代で由井城主の大石信濃守顕重(おおいし しなののかみ あきしげ)が諏訪大社(→長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町)を勧請し、大風(→台風)除けの守護神として崇敬されたと伝わります。永山駅周辺は由井領(→国衆大石氏の領国)に含まれ、戦国時代の1559(永禄2)年11月には、北条氏照(→北条氏康三男)が養子縁組の形で大石氏の家督を譲られ、氏照の奉行人として付けられた家老...
貝取山 大福寺(→東京都多摩市貝取1丁目)は、江戸時代前期に僧の起厳伝秀によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。起厳伝秀は1640(寛永17)年7月6日に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ヶ丘4丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。境内の地蔵堂に対して幕府より堂領5石5斗の朱印地を拝領しています。地蔵堂には行基(→東大寺の廬舎那...
青木山 東福寺(→東京都多摩市落合2丁目)は、江戸時代前期の元和年間(→1615年~1624年)にもと永福寺の住職で白山社(→現在の落合白山神社)の創建にも名を連ねる僧の円能が創建したという真言宗智山派寺院です。創建当初は上落合村の「堀合堰」という場所にあったと記されますので、遅くとも文政年間(→1818年~1831年)までに、現在地に移されたことが分かります。江戸時代には、本山・末寺の制により高幡山 明王院 金剛寺(いわゆる高...
落合白山神社(→東京都多摩市落合2丁目)は、創建年代は不詳ですが、江戸時代前期の1618(元和4)年11月11日に、甲斐武田氏の旧臣で徳川氏の旗本になった八王子代官小宮山助為と、もと永福寺の住職で青木山 東福寺(→東京都多摩市落合2丁目)を開山した円能が、能登国の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ→石川県白山市三宮町)を勧請して東福寺領に再興したと伝わります。1648(慶安元)年7月19日に、幕府(→3代将軍徳川家光の頃)より社領10...
乞田八幡神社(→東京都多摩市豊ヶ丘1丁目)は、室町時代(→戦国期)の1490(延徳2)年9月に創建され、江戸時代前期の1668(天和2)年に乞田村と貝取村の鎮守社として社殿を創建したと伝わります。1668(天和2)年の棟札控には「上乞田・下乞田・貝取・宇竜(→瓜生)」の4村とあり、それぞれ再建に携わった村民の名が書かれています。『多摩市史』には1726(享保11)年に神祇道宗家の吉田家より正一位の神階が贈られたと記されます。江戸時代には...
唐木田稲荷神社(→東京都多摩市唐木田1丁目)は、江戸時代後期の1843(天保14)年に上落合村の組頭(→村方三役の1つ、名主の補佐役)の横倉重衛門が記したものを下落合村の有山文衛門が書き写したという『落合旧記』によると、現在も唐木田に住んでいる唐木田三家(→横倉家・高村家・古沢家)が江戸時代初期に稲荷社を氏神として祀ったことから始まります。明治時代後期には国の一村一社政策を受けて近くの秋葉社を合祀したようです。現在...
小野神社(→東京都多摩市一ノ宮1丁目)は、平安時代前期の927(延長5)年に作成された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんじょうちょう→朝廷より官社に指定された全国の神社一覧)に記載された武蔵国多磨郡八座のうちの「小野神社」に比定される神社の1つです。東京都府中市にも小野神社がありますが、多摩川の氾濫にともない移転を繰り返した結果2社に分かれたとも、どちらかが本社でもう片方が分社であるとも言われています。鎌倉時代に...
金比羅宮(→東京都多摩市桜ケ丘1丁目)は、江戸時代後期の文化年間(→1804年~1818年)に当時の関戸村の名主紺屋井上林蔵が勧請し、大山(→神奈川県伊勢原市)の宮大工手中明王太郎が造営を請負ったと伝わります。上棟祭は1817(文化14)年8月に行われたようです。境内地は、天保年間(→1830年~1844年)に編纂された『江戸名所図会』に景勝地と記され、「物見の松」「鞍懸け松」「祈り松」などの伝承が残されています。往時の社殿は昭和時代...
関戸城跡(→東京都多摩市桜ヶ丘1丁目)は、金比羅宮付近の「天守台」と呼ばれた地域にあった中世の軍事施設跡です。多摩市教育委員会が設置した標柱には「一帯の山を城山」といい「物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙(のろし)などで知らせる通信拠点であった」と記されています。「天守台」は江戸時代になってからの呼び名ですが、江戸時代に関戸城はなく、この場所に天守閣が存在したことはありません。1213(建暦3)年の...
山神社(→東京都多摩市桜ケ丘4丁目)は、戦国時代の1557(弘治3)年に吉祥山 寿徳寺の僧守頓坊が、出身地の山城国(→京都府)から取り寄せた岩石を神体として寺域に創建したと伝わります。江戸時代前期の1648(慶安元)に寺方村の鎮守社と幕府に認められ、寿徳寺が別当寺として祭祀を司りました。記録には、1826(文政9)年と1839(天保9)年に寺方村・原関戸村・新田村の3村で屋根の葺き替えと太鼓の張替えを行い、ペリー来航の7年前にあたる1...
吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ケ丘4丁目)は、南北朝時代の1390(明徳元)年に真言宗の僧・念阿によって創建されたと伝わります。1441(嘉吉元)年に念阿が死去したのち廃寺となったようですが、戦国時代に武蔵守護・扇谷上杉氏の被官(もしくは国人領主)といわれる佐伯一助道永が菩提寺として再建し、日舜宗栄を中興開基として曹洞宗に改めたといいます。なお、関戸郷は「松田盛秀判物」から、1555(天文24)年1月までには小田原北条氏の...
寺方大屋敷(→東京都多摩市東寺方)は、吉祥山 寿徳寺の観音堂前に建つ中世の豪族屋敷の跡地です。主などは『多摩市史』にも記録がなく不詳ですが、西側に開けた谷の窪地に位置し、山を背に乞田川と大栗川を活かした中世の豪族館の典型といえます。関戸は戦国時代には小田原北条氏の直轄領となり松田盛秀が代官となり、屋敷跡に建つ吉祥山 寿徳寺は小田原北条氏の家臣で関戸城代を務めた佐伯氏が菩提寺として開基したと伝わります。...
関戸熊野神社(→東京都多摩市関戸5丁目)は、室町時代中期の1489(延徳元)年9月に紀伊国熊野三社(→熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を勧請したといい、江戸時代後期の1786(天明6)年に名主の相沢源左衛門休郭が願主となり関戸村の鎮守「熊野三社宮」として社殿を建立したと伝わります。江戸時代には隣接していた尼寺の無量山 熊慶寺(ゆうけいじ→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。関戸熊野神社境内にある井戸は熊慶...
霞ノ関南木戸柵跡(→東京都多摩市関戸6丁目)は、鎌倉時代前期の1213(建暦3)年におきた和田合戦を契機に、北関東からの侵攻を防ぐ要衝として鎌倉幕府が設置した軍事的な関所と言われ、関戸熊野神社の参道で発見された南木戸柵の柱穴上に木柱がたてられています。和田合戦 (「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)和田合戦では、横山党(→武蔵武士団)の横山時兼(よこやまときかね)が姻戚関係にあった和田義盛(わだよしもり)加勢してお...
鳳凰山 阿弥陀寺(→東京都多摩市桜ケ丘1丁目)は、昭和時代中期の1951(昭和26)年に五十嵐妙法という尼僧によって新潟県長岡市で創建され、1967(昭和42)年に現在地に移転された浄土真宗本願寺派寺院です。縁起を記した境内の石碑には、次のように記されています。**************************当寺は昭和二十六年(→1951年)に新潟県長岡市で創建され、同四二年(→1967年)に当地に移転したもので、開基は五十嵐妙法である。妙法尼は長岡市...
慈眼山 唐仏院 観音寺(→東京都多摩市関戸5丁目)は、鎌倉時代前期の1192(建久3)年にこの地に移住した唐僧が聖観音菩薩を草庵に安置したのがはじまりと伝わる真言宗豊山派寺院です。古くは「関戸観音堂」と呼ばれて信仰を集めたといいます。昨日ご紹介した関門山 地蔵院 延命寺(→東京都多摩市関戸5丁目)と同様に、観音寺でも毎年5月16日に、1333(元弘3)年5月16日の関戸合戦で討死した幕府軍の無縁仏の供養を行っているようです。真言...
関門山 地蔵院 延命寺(→東京都多摩市関戸5丁目)は、鎌倉時代に鎌倉街道を往来する人たちの安全を祈願した地蔵尊を祀った堂宇からはじまる時宗寺院です。江戸時代の1702(元禄15)年に、藤沢山 無量光院 清浄光寺(→神奈川県藤沢市西富1丁目)の23代住職で、遊行48世(→一遍から数えて48代目の遊行上人)の賦国が、自身の隠退の地とするため延命寺を開山したと伝わります。ただし、賦国は延命寺に入らず1711(正徳元)年に音響山 伝相院 善...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、北条泰家(ほうじょうやすいえ→高時の同母弟)率いる幕府軍との間で行われた戦いです。5月15日~16日には多摩川を挟んだ対岸で分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)が行われ、幕府軍は敗れています。南北朝時代の軍記物の『太平記』によると、新田義貞に多摩川を越えられた北条泰家は、関所のある霞...