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今日は近隣の寺院 台観寺 を少し紹介します。 場所は名古屋市千種区城山新町にて、ここら周辺には以前のブログでも紹介した末森城址(※現:城山八幡宮)など他にも沢山の寺院が密集している場所
ちょっと前から目を通すようにしている日蓮宗系の『草山清規』(明治29年刊)なのだが、その中にも「五観」があることが分かった。それで、これは典拠があるのか?と思い調べていたところ、日本の天台宗系の規範にも出ているようなので、「法華系『五観の偈』」ということでまとめてみた。そこで、台巌編『法華礼誦要文集』(村上勘兵衛、明治11年)から「五観」を引用してみたい。観実相食計其来処忖己徳行全欠三行防心離過三毒為宗法性良薬為療形苦為資法身応受此食引用に当たって旧字体を新字体に改めるなお、同著ではフリガナも無く、ただこの本文のみが掲載されている。なお、6年後に出た同著のカタカナ付きではフリガナがあるのだが、一句目が「クワンジツサウジキケゴライショ」などとあって、ただ音読みしている様子が分かる。そこで、今度は意味が通るよ...法華系「五観の偈」について
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、己が為さぬなりけり。
一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)、自我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(ぐしゅつりょうじゅせん) (妙法蓮華経如来寿量品偈、みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ) ただ一心に、仏を見たいと願い、真実を見定めたいと強く念じながら、心を一つにして、集中して、没頭して、仏の道をひたすらに信じ切る事。 そのような心で、身命を惜しまず、捧げ尽くす気...
幕府から弾圧をされていた切支丹が信仰を貫くため密かに拝んでた?切支丹灯籠目黒区の大聖院に祀られておりました。大聖院は天台宗のお寺さんです。日本全国には切支丹灯籠が百数十基存在すると言われています。お寺や神社にも多く祀られています。これぞまさしく和合です。※和合仲良くなること。親しみ合うこと。調和。日本の外から見たら仏教と神道が一緒になるのも不自然なんでしょうけど。切支丹灯篭まで調和させてしまうのが...
周囲を支える人は、周囲から支えられ、周囲を喜ばせる人は、周囲から喜ばれ、周囲を愛する人は、周囲から愛される。
紀元前の古代中国では、秦の始皇帝によって中国全土が統一される以前の時代を、春秋戦国時代と呼び、斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙という7つの国が存在し、激しい争いを繰り広げていました。そのうちの斉の国の君主である威王と、魏の国の君主である惠王とが、相互親善を目的に、狩猟をしていました。その時に、魏の惠王が、斉の威王に問いかけます。 「ところで威王、あなたは、どのような宝をお持ちですか。」 斉の威王は、 「...
平泉・中尊寺に遺された奥州藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡のミイラ(他に四代目にあたる泰衡の首級も)については、あまり詳しいことは分かっていないようだ。その中でも三代・秀衡のケースを見てみると、実は大変に忙しい最中だったにも関わらず、彼もきちんとミイラになっ
天祐寺てんゆうじ函館を盛り上げる!って事で企画された事のある「函館七福神巡り」。 函館山近辺の神社やお寺に祀られた七福神を巡ると言う企画。(一部サイトでは、1…
今日の寺院は 日輪寺【天台宗】を紹介します。 場所は春日井市二子町にて、それは先日から紹介している二子山古墳のある二子山公園・味美白山神社北面に隣接しております。 当寺は万治3年(1660)
11月最後の寺院は 成願寺【天台宗】の紹介です。 場所は北区成願寺町にて、矢田川沿いに位置する古刹であります。 現在は本堂など建替えられそれら意表を突くデザインとして様変わりしております。
木製の御朱印帳【七福神 木の朱印帳 8788】七福神 弁財天(べんざいてん) 毘沙門天(びしゃもんてん) 大黒天(だいこくてん) 恵比寿(えびす) 布袋(ほて…
天台宗の恵心僧都源信(942~1017)が作者の名前に冠せられている『出家授戒作法』(『大日本仏教全書』第33巻所収)が存在している。無論、昨今の研究では、当作法書が本当に源信作かどうかについては、慎重な判断を求められるようになっているけれども、中世の天台宗が行っていた得度作法を伝えるものとして、貴重である。それで、拙ブログの問題意識に基づいてこの作法書を読み解いてみるとどうなるか?記事にしてみたいと思う。まず当作法書の差定としては、以下の通りである。・準備・四方洒水・受者の四方礼拝・剃髪・法服被着(袈裟以外)・三礼・毀形唄・薬師散華・表白・周羅の一結を剃除(ただし、周羅の一結とは表現されない)・袈裟授与(法名授与含む。搭袈裟偈)※以下、授戒三帰戒菩薩沙弥戒(従今身至仏身)・四弘誓願・回向以上である。それ...恵心僧都源信『出家授戒作法』について
「毛越寺」平泉駅から徒歩10分🐾チャリで3分🚲平泉観光、こちらも外せない。「もうつうじ」と読む。天台宗の寺。慈覚大師により850年に開山、その後焼失し奥州藤原氏第2代基衡、第3代秀衡が再興した寺。東西約180m南北約90mの大泉が池を中心とした浄土庭園は平安時代の優美な
こんばんはご訪問頂き有難うございます(乱筆、乱文、すいません)今年のお盆は特別暑いのでご先祖様の食事を作るのはなんか😖しんどいです夫は畑の草刈りや水やり等してくれていて段々なれたのか?スポーツの様に思っていて草刈りも体力作り!なんていってます今日は夫、暇になってきたのか、私は先祖の賄いで忙しいのに、どこかへ行こう~~と言うので、へぇ~~😓て思ったけど、息抜きに思い付いたのが比叡山延暦寺で夫は行こう!と言ってくれて、約1時間くらいで行けるので、仏壇にお昼ご飯を供えてから家を出ました🚗💨何回も行ってるけど前回は5年前?くらいですびわ湖大橋を渡って行きます比叡山延暦寺へ車で行くのは奥比叡ドライブウェイを走りますが有料道路ですもみじの木が道路の両脇に...比叡山延暦寺に行って来ました
こんにちは~~ご訪問頂き有難うございます、上の見出しは天台宗の「一隅を照らす…,」ですさてさて、お盆が始まりご先祖様をお迎えする事で在家の檀家では夜には灯りを付けてお経を唱えたり、11日は墓参りと言ってお寺で法要があるので、境内にあるお墓に参り、住職が一軒一軒の追善供養を唱えられ順次名前を呼んで頂くので、あ、我が家の番、と言う事で、皆さんが本堂でおられる中で前に出て頭を下げて、そして、ご本尊の前に立って焼香して半紙に包んだお賽銭をいれて、お経が終わるまで暫く座っていますそして、次のお家の檀家さんがまた名前を呼ばれるので、そこで交代します。そして今日(13日)は棚経と言ってお寺の住職の仕事と言うか朝から檀家の家のお仏壇にお経を唱えに回られます我が家は端の家なので2番目?朝、7時30分頃に来られました天台宗の...お盆は浄土真宗さんが羨ましい😆
さてさて…最近、仏教ネタが多いけれども今日も行くぜ… 奈良には東大寺と西大寺、東西両方のお寺があるけれども…京都では東寺は有名だけど西寺は?… 東寺の五重塔……
皆さま、こんにちは。 龍翠です。 巫師麗月チャンネルに「稲荷大神秘文」をアップしましたので、よろしければご覧下さい。 さて、霊性と社会というジャンルを作って…
お天気のいい日が続くし、紅葉も見に行ってなかったので先日お散歩がてらに行ってきました。以前からこちらのブログにお越しの方はご存じかもですが2016年と2020年に赤山禅院は記事にしています。その時とチョットだけ違っていることもあるのですが今回はほぼノーコメントで、え~、こう書くと意味が違っているような雰囲気になったりして~・・・まあ、ほとんどコメントなしで(いやぁ、前にいっぱい書いているし同じこと...
先週末、篠山へドライブしてきました。令和元年に篠山市から丹波篠山市になっています。紅葉を見るべく安泰山大國寺に参拝しました。大國寺は天台宗の寺院です。本堂と仏像5体がが国の重要文化財に指定されています。大黒天堂の周囲も紅葉が赤く染まっていました。池があります。弁財天が祀られています。本堂と紅葉をからめて1枚撮りました。そばにパワースポットがあり、手をかざすと感じられると書いてましたが、よくわかりせんでした。小さなお地蔵様を紅葉バックに。本堂の裏手の散策路からも綺麗な紅葉が見れました。安泰山大國寺へは舞鶴若狭自動車道の丹南篠山口インターから車で5分です。見ごろは今週までということです。散る前に訪れてみてください。NHKニュース「丹波篠山の大國寺モミジが色づき晩秋の風景に」にて報道されています。今日も貴方様の...安泰山大國寺の紅葉(丹波篠山市)
今回は近隣にある 石山寺【天台宗】の紹介です。 この寺は自宅より3キロほどの場所にあって、ウォーキングがてら行きました。 寺の開山は寛元年間(1243)その後、延宝4年(1676)尾張藩主の徳川
読者のみなさま、おこんばんわ m(_ _ )m本日もご訪問ありがとうございます。 たった一度で生涯の加護が得られる神仏融合アチューメント3100名以上の実績逢…
読者のみなさま、おこんばんわ m(_ _ )m本日もご訪問ありがとうございます。 幸運エネルギーをONにして人生を書換える神仏融合アチューメント3100名以上…
医王山 法徳院 正福寺(しょうふくじ→神奈川県川崎市宮前区土橋6丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、宮前区が刊行した『宮前区歴史ガイドまち歩き』によると、江戸時代中期に僧の了廓(りょうかく)が開山した天台宗寺院といい、当時は第六天社(→現在の和田八幡宮)とともに土橋太田という小字にあったようですが、江戸時代後期の天保年間(→1830年~1844年)に火災で伽藍を焼失し、現在地に移転・再建されたといいます。江戸時代に...
平栄山 泉福寺(→神奈川県川崎市宮前区馬絹2丁目)は義天法印によって創建された天台宗寺院で、創建は江戸時代前期と推察されます。江戸時代には浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担うとともに、女体権現社(→現在の馬絹神社)の別当寺として祭祀を司りました。泉福寺には川崎市重要歴史記念物に指定される「板面着色・絵馬・泉福寺薬師会図」と「板面着色・絵馬・泉福寺境内相撲図」が...
聚海山 正観院 西蔵寺(→神奈川県川崎市宮前区野川)は、奈良時代に聖武天皇の勅命により行基(→東大寺の廬舎那大仏造立に貢献した高僧)が創建したと伝わる威徳山 月光院 影向寺(ようごうじ→神奈川県川崎市宮前区野川)の塔頭十二坊の1つと伝わる天台宗寺院です。創建時の本尊の正観世音菩薩は「余り木観音」と呼ばれ、慈覚大師(→円仁)が、行基が彫った薬師如来と阿弥陀如来の余った木で製作したと記されます。ただ、行基(668年~749年...
青龍山 龍厳寺(りゅうごんじ→神奈川県川崎市多摩区堰3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、中興開山は深大寺67住職の宣海と伝わる天台宗寺院です。その頃の山号は自立山だったと記されます。江戸時代には浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担う一方、別当寺として保谷稲荷神社の祭祀を司りました。寺宝に天台宗の開祖最澄(伝教大師)が彫刻したと伝わる大黒天像があり、観音堂に...
諏訪山 普門院 観音寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田4丁目)は、平安時代前期の貞観年間(→859年~877年)に「顕密の博士」と称された僧の安然が創建したと伝わる天台宗寺院です。一説には、信濃国諏訪の僧・堯観が山田の沢に霊地を求めて、大樹の根本に草庵を結んだとありますが、真偽の程は定かではありません。ただし、本尊の聖観音菩薩立像は、神仏習合の頃は諏方明神像の胎内に安置されていたと伝わるので、山号にもなっている諏...
祇央山 龍頭院 妙法寺(→神奈川県川崎市高津区久末)は、開基不詳の天台宗寺院ですが、本堂には1976(昭和51)年春に山門前から出土した鎌倉時代中期の「建長七年」と彫られた鎌田政清(かまたまさきよ→源義朝の乳兄弟)の往生を願うと記された板碑が安置されています。1255(建長7)年は鎌倉幕府の5代執権北条時頼(→泰時の孫)の治世で、鎌田政清の没後100年(→百回忌)にあたります。「主君聖霊」とあるので政清の家臣の子孫たちによって建...
星王山 宝蔵院 能満寺(→神奈川県川崎市高津区千年)は、もとは奈良時代の740(天平12)年頃に聖武天皇の勅命により創建された威徳山 月光院 影向寺(ようごうじ→神奈川県川崎市宮前区野川)の塔頭十二坊の1つとして行基が創建した天台宗寺院と伝わりますが、戦国時代の天文年間(→1532年~1554年)に現在地に移転し、僧の快賢によって開かれました。塔頭十二坊は本尊の薬師如来両脇侍像を守る12神の1体ずつを祀った堂宇で、「能満寺」もそ...
今回は近隣にある 龍泉寺【天台宗】を紹介します。 場所は名古屋市の北東に位置しており尾張四観音のひとつといわれています。 それはかの徳川家康が名古屋城を築く際に北東の鬼門にあたる場所のこの寺
中世室町期に後花園天皇に授戒した天台宗の鎮増和尚が詠まれた偈頌を紹介したい。生死の大海を渡り、無生の彼岸に到る、木叉を以て船筏と為し、無明の迷闇を除き、仏果の智見を開き、戒光を以て伝灯と為す。『円頓戒要義』なお、後花園天皇の受戒は、宝徳2年(1450)12月だと伝わるので、この文献もまた、中世の天台宗の戒観を知る手掛かりということか。調べてみると、鎮増和尚とは、元々京都白川に所在した天台宗寺院にいて、寺内には戒壇もあったという。また、独自の戒灌頂という作法も行っていたようだが、当方、勉強不足でこれ以上、この辺は深めることが出来ない。そういえば、この元応寺だが、応仁の乱に於いて伽藍を焼失して衰退し、16世紀後半には現在、滋賀県大津市にある聖衆来迎寺(天台宗)に吸収されてしまったという。さて、経緯は以上のよう...或る天台僧が示した授戒の偈
いわゆる菩薩戒は大乗戒とも呼称されるけれども、そこから更に、「一乗戒」という用語にも展開する。いわゆる「法華一乗思想」との関係で、天台宗が用いた印象ではある。日本の文献にはなってしまうが、以下の一節を見ておきたい。弘仁十四年四月十四日、一乗戒を比叡峯延暦寺一乗止観院に於いて乞い、自性清浄一心戒を受く。前入唐天台法華宗内供奉付法伝灯大法師位義真和上、一乗戒和尚と為す。承和元年四月十四日、一乗戒を比叡峯延暦寺戒壇院に於いて乞い、自性清浄一心戒を受く。内供奉延暦寺伝灯大法師位円澄和尚、一乗戒和尚と為す。『伝述一心戒文』巻上この文脈は、「被最初年分試及弟得度聞傳宗旨文」と名付けられたものの一節で、要するに、光定自身がどのような受戒遍歴を辿ったかを記録したもののようである。それで、ここに「一乗戒」という表現が複数見...「一乗戒」という用語の雑感
大蔵山 杉本寺(すぎもとでら→神奈川県鎌倉市二階堂)は、奈良時代中期の734(天平6)年に光明皇后(→聖武天皇の后)の発願により藤原房前(ふささき→藤原氏北家の祖)が開基、僧の行基(→東大寺の廬舎那大仏造立に貢献)が開山したと伝わる天台宗寺院で、鎌倉最古の寺として知られています。本尊は三体の十一面観音像で、それぞれ734(天平6)年に行基が、851(仁寿元)年に円仁(→慈覚大師)が、986(寛和2)年に源信(→『往生要集』を著した恵心僧...
渋谷山 新王院 東福寺(→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1173(承安3)年に源義家(→源頼義の嫡子)が開基、僧の円鎮が開山した天台宗寺院です。創建当初は「新王院」といい、鎌倉時代前期の1202(建仁2)年にこの地の地頭渋谷高重が住職の円証に帰依したことから「渋谷山 常照院 円証寺」と改めたといいます。東福寺と寺号が改められたのは江戸時代に堂宇が再興されてからですが、ここでは全て「東福寺」で表記を統一します。1...
金龍山 宝戒寺(→神奈川県鎌倉市小町3丁目)は、正式には金龍山 釈満院 円頓宝戒寺という天台宗寺院で、鎌倉時代には得宗家小町亭(とくそうけこまちてい→北条氏の家督である得宗家の邸宅)がありました。「北條執權邸旧蹟」(→北条執権邸旧跡)の石碑が建っているのはそのためです。本尊は地蔵菩薩で、「萩の寺」と形容されるように季節によっては白萩が人の入山を拒むかのように咲き乱れます。宝戒寺の開基は鎌倉幕府の討幕に執念を燃...
京都市と滋賀県大津市にまたがる比叡山延暦寺。天台宗の寺院です。天台宗は1200年前、伝教大師最澄によって開かれました。数年前に一度訪れたが、桁違いの総本山。もはや広過ぎて参拝できてない部分もあるため、再訪したいと思います。 ◆比叡山延暦寺HP◆https://www.hieizan.or.jp/※一部、比叡山延暦寺HPより引用。 皆さんは延暦寺の千日回峰行をご存知でしょうか?僕もこれを知った時は、衝撃を受けました。 千日回峰行は、7年間かかります。一度、挑戦するとなれば、途中でやめることはできません。ただ唯一のやめる手段として、自害という選択はあります。やり切るか、断ち切るか。 修行の中身は見ただけで、厳しいのは分かります。1年目から3年目までは、1日に30キロの行程を毎年100日。定められた礼拝の場所は...千日回峰行
何につけそれなりの「イメージ」というものが付きまとうもので、時にはその イメージによって、逆に真実の方を見誤ってしまうことさえあり得ます。 たとえば、平安時代に唐に渡った二人の留学僧、最澄(767-822年)さんと 空海(774-835年)さんについてもそうしたことは無きに...
長尾山 勝寿院 妙楽寺(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、平安時代前期の仁寿年間(→851年~854年)に創建された長尾山 威光寺(→別名長尾寺)の跡地に建立された天台宗寺院です。仁寿年間は天台宗寺門派の宗祖となる円珍(智証大師)が新羅商人の船で入唐(にっとう→唐に入国)した時期でもあります。長尾郷は、鎌倉時代前期の頃は関東御領(→鎌倉幕府の経済基盤となった荘園・公領)となるなど、源氏将軍家...
神木山 等覚院 長徳寺(→神奈川県川崎市宮前区神木本町1丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、安土桃山時代初期の1573(元亀4)年に中興された天台宗寺院で、地元では等覚院の名で親しまれています。江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。現在の本堂は、将軍継嗣問題と通商条約締結に揺れた幕末期の安政年間(→1854年~1860年)に再建され、山...
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。上堂、僧問う、無心、即ち是れ戒なり。如何なるか是れ無心戒。師云わく、野色に寒霧籠もり、山光に暮煙を斂む。『古雪哲禅師語録』巻4中国明代の禅僧・古雪真哲禅師の言葉であるが、ここで「無心戒」について問われている。それに対し、自然の風景を読み込むことで、「無心」を表現したものとなっている。この辺、徹底無心を追究すると、自然の様子に自ずと展開されることを意味している。そこで、問題も残る。つまり、その無心の様子が、「戒」になるかどうか、である。そうなると、明らかに異なる宗義を持つ宗派も存在している。即ち知る、全心是れ戒なり、全戒是れ心なり。心を離れて戒無く、戒を離れて心無し。南嶽慧思『受菩薩戒儀』これは、伝説的な天台宗の祖師となる南嶽慧思の見解ともされる文脈だが、ここで、「...或る禅僧の語録に見える無心戒の話
神王山 観音院 妙見寺(→東京都稲城市百村)は、奈良時代後期の760(天平宝字4)年に47代淳仁天皇(→藤原仲麻呂政権)の勅願で創建された妙見宮(→神王山 北辰妙見尊)の祭祀を司る別当寺として、平安時代後期の1112(天永3)年に創建された天台宗寺院です。本尊は阿弥陀如来像です。妙見寺は、現在も境内山頂にある神王山 北辰妙見尊の行事を行うなど神仏習合が色濃く残り、江戸時代前期の1662(寛文2)年から行われている「蛇より...
金剛山 福昌寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、寺伝によると安土桃山時代前期の1573(天正元)年に僧の恵賢が開山したと伝わる天台宗寺院です。当初は現在の野戸呂稲荷神社(→神奈川県川崎市多摩区菅野戸呂)あたりに建立されたようですが、江戸時代初期に現在地に移転したようです。戦国時代の小沢七村は、小田原北条氏の家臣佐保田河内守某・佐保田山城守政房父子が治めていたため、野戸呂稲荷社あたりへの建立は佐保田氏が行...
大谷山 吉祥院 法泉寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、この地を治めていた鎌倉時代前期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が、1195(建久6)年7月7日に亡くなった妻の秋楽院妙林大姉のために建立した重成山極楽寺を起源とする天台宗寺院です。1197(建久8)年には源頼朝・北条政子夫妻が参詣して供養料を寄進し、両者の死後、その法要が行われたと記されます。1229(寛喜元)年7月13日には...
浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)は、奈良時代中期の733(天平5)年に虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市須佐町2丁目)を開基した満功(まんく)上人が創建した天台宗寺院です。750(天平勝宝2)年に水神の深沙大王像を安置して淳仁天皇の勅額で「浮岳山 深大寺」と名付けられました。全国的にみても創建時の記録がしっかりと残されている数少ない寺院の1つといえます。創建時は法相宗(ほっそうしゅう→南都六宗の1つ...
一昨日に続き、虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市須佐町2丁目)についてです。祇園寺は寺伝によると、奈良時代中期の750(天平勝宝2)年に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)を創建した満功(まんく)上人が創建したと伝わる法相宗(→南都六宗の1つ)寺院で、平安時代に天台宗に改宗され今に至ります。秘仏される鉄造僧形八幡神坐像は鎌倉時代後期に彫られたもので調布市文化財に指定されています。江戸時代には本山・...
虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市佐須町2町目)は、寺伝によると奈良時代中期の750(天平勝宝2)年に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)を創建した満功上人が創建したと伝わる天台宗寺院です。鎌倉時代後期に彫られた神仏習合の影響が色濃い僧形八幡神坐像は、調布市文化財に指定されています。江戸時代には本山・末寺の制により法縁から深大寺の末寺とされました。ただし『調布市百年史』によると、祇園寺はしば...
平栄山 泉福寺(→神奈川県川崎市宮前区馬絹2丁目)は、生没年不詳の僧・義天法印によって創建された天台宗寺院です。境内の文化財などから江戸時代前期に創建されたと考えられます。江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、馬絹(まぎぬ)神社(→神奈川県川崎市宮前区馬絹5丁目)の前身である女体権現社の別当寺として祭祀を司りました。泉...