『末法灯明記』に見る「末法」の一様相
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。故に知る、今時、是れ像法の最末時なり。彼の時の行事、既に末法と同じ。然らば則ち、末法中に於いて、但だ言教のみ有りて、而も行証無し。若し戒法有れば、破戒有るべし。既に戒法無くんば、何れの戒を破るに由りて、而も破戒有らんや。破戒、尚お無くんば、何に況んや持戒をや。『末法灯明記』そういえば、拙僧もそう習ったし、そう教えていたような気がするのだが、末法に至る「三時」について、「正法」は教行証が揃い、「像法」は教行のみとなり、「末法」は教のみとなるという話を聞いた。本書もその世界観を受けている。典拠というと、やっぱり中国法相宗の慈恩大師基だろうか?仏滅度の後、法に三時有り。謂わく正・像・末なり。教・行・証の三名を具すれば、正法と為す。但だ教行のみ有れば、名づけて像法と為す。...『末法灯明記』に見る「末法」の一様相
2025/05/08 09:08