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とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。故に知る、今時、是れ像法の最末時なり。彼の時の行事、既に末法と同じ。然らば則ち、末法中に於いて、但だ言教のみ有りて、而も行証無し。若し戒法有れば、破戒有るべし。既に戒法無くんば、何れの戒を破るに由りて、而も破戒有らんや。破戒、尚お無くんば、何に況んや持戒をや。『末法灯明記』そういえば、拙僧もそう習ったし、そう教えていたような気がするのだが、末法に至る「三時」について、「正法」は教行証が揃い、「像法」は教行のみとなり、「末法」は教のみとなるという話を聞いた。本書もその世界観を受けている。典拠というと、やっぱり中国法相宗の慈恩大師基だろうか?仏滅度の後、法に三時有り。謂わく正・像・末なり。教・行・証の三名を具すれば、正法と為す。但だ教行のみ有れば、名づけて像法と為す。...『末法灯明記』に見る「末法」の一様相
伝教大師最澄が著したとして伝承されてきた『末法灯明記』は、実際の末法に入り、それが強く自覚された鎌倉時代になると、引用例も見られるようになる。例えば、親鸞聖人『顕浄土方便化身土文類六(いわゆる『教行信証』)』などである。ウチの宗派の祖師方にも、引用例はある。それで、今回は『末法灯明記』の中でも、「像法」の様相について見ていきたいと思うが、その前に「像法」とは何かというと、そもそも、釈尊が入滅してから、仏教は徐々に衰えると考えられていて、最初の千年(五百年とも)が「正法」、続く千年が「像法」、そしてその後は「末法」となる(一万年続くとも)。経論によって、この年数は区々なのだが、とりあえず「像法」の定義的な文脈は以下の通り。復た像法に於いて比丘・比丘尼、破戒し、悪法、邪行、非行、無慚、無愧にして、供養法を毀し...『末法灯明記』で説く「像法」の様相