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「南天棒」こと中原鄧州老師(1839~1925)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶であり、常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡って修行者を容赦なく殴打したため、先のように呼ばれた。こういう「厳しいのが「禅」」だと思っている人には、とても人気であるという。それで、今回の記事は、先に挙げたタイトルの通りだが、南天棒の言葉に、道元禅師『正法眼蔵』「嗣書」巻への批判が見えたので、それを見つつ、批判の射程と、その可否について検討してみたい。まぁ、宗派が違うので、南天棒自身は「是」として主張したのだろうが、洞門の拙僧としてはそのまま同意するわけにもいかない。嗣法の原理はこの勘定では分からぬ。嗣法の広大無辺にして際涯なき無量心に参ぜねばならぬ。時間の不可得なる所をも参詳するがよい。早く合点の行くように...南天棒による『正法眼蔵』「嗣書」巻批判?
最近、出講している『正法眼蔵』勉強会で、「行持(上)」巻、「仏教」巻と立て続けに読み終えた。そこで、両巻に共通するかのような教えがあったので、まとめてみたい。なお、日本のように、数多くの宗派が残る国になると、何が真実の教えなのか?が気になることもあると思う。それは、現代だけではなく、これまでの各時代でも同様で、例えば道元禅師は以下のようなことを述べておられる。いま、有道の宗匠の会をのぞむに、真実、請参せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。ただ二十、三十箇の皮袋にあらず、百千人の面面なり。おのおの実帰をもとむ。授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす。あるひは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師また道取おはりぬ。耆宿尊年の老古錐、すてに拊掌笑呵呵のとき...道元禅師に於ける「師決」の話
「みどりの日」、以前は4月29日だったが、諸般の事情(?)から5月3日と5日との間にある「国民の休日」が名称変更されている。さて、せっかくだから、ちょっと「みどり」について考えてみようと思うが、手持ちの『漢和辞典』を見てみると「みどり」と読む漢字について以下のものが挙がっていた。・碧(あおいし、美しい青い色の石)・緑(みどり色の糸、絹)・翠(カワセミ)それぞれ、意味の原点を見てみると、宝石だったり、糸だったり、鳥だったりと、世の中に存在する緑色から、それぞれに意味が作られていることが分かる。ところが、実際の用語として使うとなると、そういう原点とは切り離されて色の指定のために使われている。例えば、素晴らしく澄んだ空や海を表現する場合には「紺碧」なんていう。道元禅師の漢詩にも、「碧浪」や「碧空」なんて語句があ...「みどりの日」の雑文
仏法を聴聞することについて、「聞法」と略されるのが一般的な気もするが、「聴法」という言い方はあるのだろうか?簡単に調べてみた。御入滅後正法も弘まりてあれば、仏法を聴聞して、未来を助かるは、只この世界の人間ばかり。『戒会落草談』その前に、道元禅師にも「正法を聴聞」という語句はあるが、まずは以上のように「仏法を聴聞」という語句が見られることが分かると思う。さて、それでは「聞法」と「聴法」だが、以下の結果となった。おほよそ聞法は、ただ耳根・耳識の境界のみにあらず、父母未生已前、威音以前、乃至尽未来際、無尽未来際にいたるまでの挙力・挙心・挙体・挙道をもて聞法するなり、身先心後の聞法あるなり。これらの聞法、ともに得益あり、心識に縁ぜざれば聞法の益あらず、といふことなかれ。『正法眼蔵』「無情説法」巻あくまでも一例だが...「聞法」と「聴法」について
全ての存在に慈しみの心を持ち、愛せる人は、全ての存在から慈しみの心を持たれ、愛される人。
無事是貴人(ぶじこれきにん)(臨済録 臨済禅師)この言葉の中の「無事」とは、大変な事、困った事が取り立てて起こらず、平穏無事に、普段と変わりない、平凡な日常が過ごせている、という意味ではありません。日々、自己を律して、仏道修行に猛進し、励もうとする心も、時に、煩悩に打ち負かされ、自己を律する事無く、怠慢な日々を過ごそうとする心も、そのような、善きも悪しきも、何かを求める心を完全に手離して、ありのま...
生きる時はただ生き死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない。薪は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時の在り方に過ぎない。ー道元禅師正法眼蔵
現在、2講座承っている『正法眼蔵』勉強会の内、1つでは「行持(上)」巻を読んでいる。その中で、以下のような一節が見られた。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。『正法眼蔵』「行持(上)」巻そもそも、この一節は、古聖・先賢と称される古来の優れた者達が、自らの時間を惜しんでなすべきことをなしていたと評した文章に続くものとなっている。そして、道元禅師は光陰(時間)が、我々から功夫(修行)を盗むとしている。更に、ただ1日のみでは無く、無限の時間に得たはずの功徳までも盗まれるという。そう考えると、この盗むとは、仏道の成就に直結しない、無駄な人生を過ごしていることを批判した教えだといえる。ただし、本当に時間が我々から修行や功徳を盗むのだろうか?むしろ、仏道の成就を目指していな...何が自分の修行の功徳を奪うのか?
今日から4月である。世間的には新年度となり、新たな気持ちで新たな環境に行く人もいれば、不安に感じている人もいると思う。居場所の不安を感じている人は、以下の記事などを読んでいただけると良いのでは無かろうか。・4月1日から居場所を失ってしまう方へ(Yahoo!ニュース)それにしても、今日は、多くの商品が値上げされたり、多分大変なのだが、年度最初から暗い話ばかりしていてもシャクに障るだけだから、とりあえず仏教の記事を採り上げていきたい。今日は、道元禅師が、曹洞宗と梅の華の関わりについて述べた文章があるため、見ていきたいと思う。吾宗に梅を本とすること、別なる事なし。六祖の在処は梅の道地なり、仏法もこの地より繁昌す。一花五葉にわかつなり、梅花も又五葉なり。夫五葉といふは、曹洞、臨済、雲門、潙仰、法眼なり。たとへば、...日本曹洞宗と梅の華(4月1日版)
一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
昨日から、『正法眼蔵』勉強会は、「仏教」巻に入った。そこで、最初から読んでいくと、こういった一節が見られる。このゆえに、朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたり、といはず。「仏教」巻この一節について、江戸時代の学僧・瞎道本光禅師が以下のように註釈している。須扇多仏、朝に成道して夕べに涅槃し、化仏の住世甚大に長りき。大智度論に証するが如し、後に当に附録すべし。『正法眼蔵却退一字参』「仏教」篇つまり、瞎道禅師は『大智度論』に見られる「須扇多仏」に因む話だと断定されたのである。典拠は、以下の通りである。亦た須扇多仏の如し、弟子本行未熟なり、便ち捨てて涅槃に入り、化仏として一劫留まりて以て衆生を度す。『大智度論』巻7つまり、須扇多仏は弟子が未熟だったため、涅槃に入った後で「化仏」という存在となって長く衆生...朝に成道して夕に涅槃する話
今日は、3月10日である。昨日まで、日付に従った記事を書いていたのだが、今日も懲りずに語呂合わせ的記事を書いてみたい。主として大乗仏教で広く用いられる「三世十方」という言葉がある。意味としては、過去・現在・未来の三世、そして、上下・八方を総じて十方となる語句を組み合わせ、あらゆる時間・空間を意味する言葉である。この言葉が用いられる背景としては、結局は存在する全ての事象に、特定の「法」が適用されることを示すものである。例えば、こういう一文だと理解しやすいのでは無かろうか。請仏といふは、請釈迦牟尼仏のみにあらず、請無量無尽三世十方一切諸仏なり。請諸仏の数にあづかる、無諱不諱の親曾見仏なり。『正法眼蔵』「見仏」巻この「請仏」とは、以下の一節を承けたものである。賓頭盧尊者、阿育王宮の大会に赴いて斎す。王、行香の次...「三世十方」の話(令和7年版)
3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」である。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは、我々にとって或る対象へ貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものである。ところで、同じ語呂合わせといえば、「参究」だってそうである。「参究」とは、以下のような意味である。参究とは、即ち此の一箇の話頭に参ずるなり。話頭に参ずるに、外に疑情を起こさず。所謂、小疑小悟・大疑大悟・不疑不悟なり。疑は、即ち参なり。『百丈清規証義記』巻8まぁ、だいたいこんな感じ。参究とは、疑悟一如の処に於いて行われる修行であり、一箇の話頭(公案)に対して、疑悟一体となって取り組むのである。疑悟一体とは、疑問だけを先に置くのではなく、自らをまず仏道に置いて(よって、熱心な坐禅が必要である)、その中で、疑悟が一...3月9日は「ありがとうの日」もとい「参究の日」
たった一人の少しの坐禅でも、その行いの功徳、因縁は、 全世界、全空間へ伝播し、それが人類を救う事になる。
仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふなり。 自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり。 自己(じこ)をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるなり。 万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるといふは、自己(じこ)の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心(しんじん)をして脱落(だつらく)せしむるなり。(正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 現成公案、げんじょ...
以前に、道元禅師の伝記を書いた時、結局古伝(14世紀までに成立した伝記群)に見付からなかったため採り上げなかった記事に、以下の一節がある。・(建長)四年夏、遺教経を講ず、黒白駢擁して聴き聳ゆ。『永平開山道元和尚行録』・四年壬子師、五十三歳○夏、遺教経を講ず、緇白雜襲す○師、預め前途促逼するを知りて、是の経を講ず。蓋し、如来最後の垂範を擬すなり。正法眼蔵大人覚巻、茲に萌ず。『永平仏法道元禅師紀年録』上記記事で、道元禅師は御入滅される前年の夏に、『遺教経』を講義したというのである。その結果、出家・在家が多く集まってきたという。また、上記の講義が行われた理由として、『紀年録』では前途(ご自身の寿命)が「促逼(追い詰められる)」していることを知って、『遺教経』を講義したという。つまり、釈尊が涅槃を前にして垂誡した...曹洞宗に於ける『遺教経』の学び(2)
拙僧的に、いつも疑問に思うことがあって、それが『正法眼蔵』「渓声山色」巻の以下の説示である。居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。「渓声山色」巻ここで、蘇東坡居士は、仏印禅師から「法衣・仏戒」などを授けられたという。この時授けられた「戒」とは、一体何だったのであろうか?しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。「袈裟功徳」巻12巻本『正法眼蔵』に分類される同巻に於いては、同じような文脈で、やはり「袈裟の受持」と「受菩薩戒」を説いている。気になるのは...この仏戒・菩薩戒は何だったのか?
拙僧的に良く分からないのは、ここでいう「仏祖正伝」という語句の典拠についてである。宗門の場合、「仏祖正伝」という語句は、道元禅師が「菩薩戒」に付けて表現されることが多かった。比丘戒をうけざる祖師かくのごとくあれども、この仏祖正伝菩薩戒うけざる祖師、いまだあらず、必ず受持するなり。『正法眼蔵』「受戒」巻このように、「仏祖正伝菩薩戒」という表現が見られ、また、天童如浄禅師から受けた作法は『仏祖正伝菩薩戒作法』とされ、ここに「仏祖正伝」と見える。そこから、道元禅師が如浄禅師から受けた口訣とされる『宝慶記』には、以下の一節が見られる。薬山の高沙弥は、比丘の具足戒を受けざりしも、また、仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらざるなり。然れども僧伽梨衣を搭け、鉢多羅器を持したり。是れ菩薩沙弥なり。『宝慶記』第43問答このよ...「仏祖正伝」という言葉について
道元禅師の『正法眼蔵』は、数え方によっても違うけれども、最後の一巻が著されたのは建長5年(1253)1月6日であり、仏陀釈尊最期の説法を論じた「八大人覚」巻である。よって、今日はその一巻の一節を学んでいきたい。一には少欲〈彼の未得の五欲の法の中に於いて、広く追求せず、名づけて少欲と為す〉。仏言く、汝等比丘、当に知るべし、多欲の人、多く利を求めるが故に、苦悩も亦、多し。少欲の人、無求・無欲にして、則ち此の患い無し。直爾、少欲、尚応に修習すべし、何に況んや少欲、能く諸功徳を生ず。少欲の人、則ち諂曲にして、以て人の意を求めること無し。亦復、諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に触れて余り有り、常に不足無し。少欲有る者は、則ち涅槃有り。是を少欲と名づく。『正法眼蔵』「八大人覚...一月六日『正法眼蔵』最後の一巻について(令和7年版)
まずは、この一節をご覧いただきたい。遺範要略一退蔵峯は老僧の在世隠棲・滅後葬身の地なり。有志の道者三五箇安居を結会して専要に元古仏の坐禅箴・儀両篇に依りて只管に弁道するなり。一老僧、化を戢むるの日は他に告報すべからず。且つ年回の時、牌前の荘厳、一切致すべからざるなり。一老僧を供養せんと欲する者は、欽んで『正法眼蔵弁註』を拝閲すべし。是を第一の孝順心と為すべきなり。云々享保二十年乙卯十二月十日老螺蛤天桂花押『永平正法眼蔵蒐書大成』巻15・709頁上段、訓読は拙僧以前、天桂伝尊禅師(1648~1735)は坐禅に熱心だったはずだと聞いたことがあったが、その典拠がこの一文だった(はず・汗)。その意味で特に見て欲しいのが第一条なのだが、この退蔵峯陽松庵にて有志の道者が3人でも5人でも安居して、道元禅師の『正法眼蔵』...或る眼蔵家の遺言
今日11月29日は、語呂合わせで「1129=いい服」の日らしい(世間的には、「いい肉の日」の方が有名だと思うが)。・いい服の日(トンボ)それで、敢えて「「いい服の日」と仏教」というタイトルにしたからには、今日は以下の一節を通して色々と考えてみたい。この十勝利、ひろく仏道のもろもろの功徳を具足せり。長行・偈頌にあらゆる功徳、あきらかに参学すべし。披閲して速にさしおくことなかれ、句句にむかひて久参すべし。この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修のちからにあらず。仏言、袈裟神力不思議。いたづらに凡夫・賢聖のはかりしるところにあらず。おほよそ速証法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの、法王身を証せること、むかしよりいまだあらざるところなり。道元禅師『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻上記引用文は道元...11月29日「いい服の日」と仏教
近所のブックオフで出会った「正法眼蔵」──古い文庫に挑戦する楽しみ 最近は読書といえば電子書籍が専らだった私ですが、たまには手にとって読んでみたい気持ちも湧いてきます そこで、お休みに久しぶりにブックオフへと行きました その時手に入れたのが道元禅師の『正法眼蔵』だったのです!
今日11月19日は「世界トイレの日」とのこと。詳細は、以下のサイトをご覧いただくと良いと思う。・11月19日は「世界トイレの日」(ユニセフ)さて、トイレといえば、我々曹洞宗の高祖道元禅師(1200~1253)の教えを学んでみたい。『正法眼蔵』の中に「洗浄」巻があり、衛生的なトイレの使い方について示されているのである。寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり、これを東司と称す。あるときは圊といひ、廁といふときもありき。僧家の所住に、かならずあるべき屋舎なり。「洗浄」巻こちらは、仏教が開かれた最初の頃はトイレが無かったが、寺院で過ごすようになってから、「東司」などと呼ばれたトイレが作られるようになったというのである。摩訶僧祇律第三十四云、廁屋不得在東在北、応在南在西。小行亦如是。この方宜によるべし。これ西...11月19日世界トイレの日
以下の一節については、【「安居」のシステム論的考察】という記事で、別の文脈の中にて用いたこともあったのだが、とりあえず、今回は「住持三宝」という観点から改めて考えてみたい。もし不安居は、仏及菩薩にあらず。仏祖の児孫なるもの、安居せざるはなし、安居せんは、仏祖の児孫としるべし。安居するは、仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは、仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり。いま泥木・素金・七宝の仏菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち、住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月つとむべし。『正法眼蔵』「安居」巻これまで、「住持三宝」というと、『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻や、『仏祖正伝菩薩戒作法教授戒文』などを用いて考察される場合がほと...「住持三宝」の真意とは?
こんな記事を見つけた。・ユニセフ・世界手洗いの日詳しいことはこのサイトをご覧いただければ良いのだが、昨日10月15日は「世界手洗いの日」だったらしい。全く知らなかった。で、せっかくなので、こんな一文を見てみたい。つぎに、洗手すべし。右手に灰匙をとりて、まづすくひて、瓦石のおもてにおきて、右手をもて滴水を点じて触手をあらふ、瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなを、とにあててとぐがごとし。かくのごとく、灰にて三度あらふベし。つぎに、土をおきて、水を点じてあらふこと三度すべし。つぎに、右手に皀莢をとりて、小桶の水にさしひたして、両手あはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して、慇懃にあらふベし。灰三、土三、皀莢一なり、あはせて一七度を度とせり。つぎに、大桶にてあ...昨日10月15日は「手洗いの日」だったらしい・・・
今日、10月10日は目の愛護デーである。何故、今日なのかは以下の通りである。一一〇〇このように、漢数字で並べてみると、目と眉毛になるためである。この目の愛護デーに関する歴史は古く、1931年(昭和6)に失明予防の運動として、10月10日を「視力保存デー」と定め、中央盲人福祉協会主催、内務省、文部省後援で毎年活動をはじめたのがきっかけとのことである。栄養状態が悪かったり、衛生状態が悪かったり、或いは生活環境が悪かったりすると、やはり視力が悪くなる。拙僧などは基本的に朝早く起きて勉強するタイプだったので、このブログを始めた20年前ではまだまだ視力も良かったが、そろそろ50歳という数字が目の前にまで来ると、流石に視力も落ちてくるし、目に関する問題点も複数見受けられる。今後はよくよく治療なども含めて行う必要がある...今日は目の愛護デー(令和6年度版)
【今日は達磨忌(令和6年度版)】の記事の通り、昨日は達磨忌だったのだが、道元禅師御自身は実は、達磨忌を実施しておられない。しかし、達磨尊者への尊崇の念を持っていないことはない。そこで、達磨忌を実施していなかった理由として、作法として一般化していなかった可能性を指摘しておきたい。確かに、道元禅師と時代的に近い虚堂智愚禅師(1185~1269)の『虚堂和尚語録』には、「施主捨田建達磨忌」と「達磨初忌拈香」とがある。ただし、道元禅師の時代に編まれていた『禅苑清規』と『入衆日用』には達磨忌を載せていない。だが、1263年に編まれた『入衆須知』には「祖忌」項が入り、「達磨忌十月初五、伝灯に出づ」とある。・・・あれ?達磨尊者の忌日について、『伝灯(景徳伝灯録)』にあるとしている。化縁を以て已に畢り、伝法して人を得る。...道元禅師と達磨忌
こういう日付が入った文章がある。真丹初祖の西来東土は、般若多羅尊者の教勅なり。航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや、雲煙いくかさなりの嶮浪なりとかせん。不知のくににいらんとす、身命ををしまん凡類、おもひよるべからず。これひとへに伝法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。伝法の自己なるがゆえにしかあり、伝法の遍界なるがゆえにしかあり、尽十方界は真実道なるがゆえにしかあり、尽十方界自己なるがゆえにしかあり、尽十方界尽十方界なるがゆえにしかあり。いづれの生縁か王宮にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。このゆえに、かくのごとく西来せり。救迷情の自己なるがゆえに、驚疑なく、怖畏せず。救迷情の遍界なるゆえに、驚疑せず、怖畏なし。ながく父王の国土を辞して、大舟をよそほふて、南海をへて広州にとづく。使船の人お...十月一日達磨尊者呼び出される
今日は敬老の日である。日本の国民の祝日に関する法律では、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨として制定されている。世間としては、それで良い。そこで、仏教には「長老」という立場が存在している。現代の曹洞宗では、一座の法会の首座を指す言葉となっているが、実際には以下のような定義であった。禅門規式に云く、凡そ道眼を具え、尊するべきの徳有る者を、号して長老と曰う。西域の道高くして臘長き、須菩提等を呼ぶの謂いなり。『禅林象器箋』巻6「長老」項こちらの通りで、長老というのは、いわゆる高徳の僧侶であり、更には、「臘長き」という言葉がある通りで、出家してからの年数なども考慮されたものであったらしい。ところが、同じ『禅林象器箋』でも引用されているのだが、以下のような見解も存在していたらしい。...今日は敬老の日(令和6年度)
朝食は、サンドイッチと、業スー9月広告品の甘くない冷凍イチゴとミカン 昼食は隣接市の「かつや」で。初めて注文した「とん汁定食(ロースカツ)」特大とん汁と80gロースカツが食べ応え十分。払いは当然100円引券使用で。 食べながら聴く朗読mp3は澤木
今日は8月10日である。世間の一部の企業なら、「ハットの日」かもしれないが、拙僧などは語呂合わせから、勝手に「法堂の日」としているので、色々と学んでみたい。仏殿を立てず、唯だ法堂を搆うるのみなるは、仏祖の親受を表して、当代の尊と為すなり。入門して仏殿無し。陞座して虚堂有り。即ち此れ心印を伝え、当に知るべし是れ法王なり。『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」これは、『百丈清規』の理念を表現したとされる『禅門規式』と、禅宗の修行理念に対して、頌を付したのが『百丈規縄頌』である。その中に、法堂の意義について以上のように表現している。意味としては、百丈懐海禅師が目指した禅宗叢林は、仏殿を立てずに、ただ法堂のみを建てたという。それは、禅宗叢林の住持とは、大法を親受した仏祖であり、まさしく仏陀と同じくらいにある当代の尊師で...今日8月10日は「法堂の日」(令和6年度版)
「加護」という言葉がある。これは元々、「加」が、神仏からの働き掛けを意味し、「護」は「衛護」などの意味であるから、諸仏が我々を守ってくれることを「加護」という。良く、道元禅師は密教的な「加持祈祷」は行わなかったとかいわれるが、用語的に「加持」を用いていないからといって、諸仏からの働き掛けまでも否定したわけでは無い。その意味では、「加持祈祷」は行わなかった、というのは早計である。仏言、剃頭著袈裟、諸仏所加護。一人出家者、天人所供養。あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳円満すべし。この人をば、天衆・人衆ともに供養するなり。『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻この「仏言」は、『大方等大集経』「月蔵分」からの引用であるけれども、意味としては、頭...道元禅師が説く諸仏の加護について
なんでも、最近読んだ、或る在家信者の方の文章によると、説法に於いては、確固たる“信念”を述べてくれるような禅僧がありがたいそうだ。確かに、そういう評価も必要かもしれない。なお、拙僧は、その方に何ら含むところはないので、以下の記事はあくまでも拙僧自身の問題意識に於いて考えていくのだが、正直、信念を述べることについては不可解な思いがしている。もちろん、全く歯も立たないような禅語録や、『正法眼蔵』といった著作を読むために、師から読み方を習うことがあるのは良いだろう。しかしながら、師が確定的に述べてくれることというのは、そんなにありがたいことなのか???また、拙僧は以前から、確定的言説を特定の師に求める態度に、「教条主義」を感じている。今回は、その想いというか、疑問を元に記事を書こうと思う。何だって人は、こういう...決定法はそれほどに大切か?
道元禅師の言葉は、様々な出典があるが、これなどは珍しい方に入るのかもしれない。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻なお、原典は良く知られていて、以下の一文がそれに当たる。敗軍の将は以て勇を言う可からず。『史記』淮陰侯列伝これは、漢の韓信に敗れた趙の李左車が、韓信から燕と斉を破る方法を尋ねられた際、恥じ入って述べた言葉とされる。要するに、戦で負けた者は、戦争について教えられることが無いという意味になろう。しかし、道元禅師の言い方は、「さらに武勇をかたる」となっていて、元々の意味とは正反対になっている。その意味で、何故このように改めたかが気になるわけである。この一文は、香厳智閑禅師が「王索仙陀婆」について尋ねられた際の問答が元になっている(なお、【昨日の記事】をご参照願いたい...敗軍之将さらにどうする?
いや、余り面白くない記事で本当に申し訳ないm(__)m香厳襲燈大師、因みに僧問う、如何なるか是れ、王索仙陀婆。厳云く、遮辺を過ぎ来たれ。僧、過ぎ去く。厳云く、鈍置殺人。しばらくとふ、香厳道底の、過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや、試請道看。ちなみに、僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。もし本期にあらずば、鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば、鈍置殺人なるべからず。香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻・・・((((((((;゚Д゚))))))))ガクガクブルブルガタガタブルブルとりあえず、香厳襲燈大師とは、香厳撃竹の話で有名な香厳智閑(?~898)のこ...「鈍置殺人」事件発生
今日は海の日である。もう何年か前から「ハッピーマンデー」になっていたので、今日となる。ところで、大乗仏教で「海」といえば「海印三昧」がある。この三昧は、本来無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味し、『華厳経』という仏典は、この「海印三昧」を説いたものであるとされる。道元禅師は、この「海印三昧」を承けて、中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって解釈し『正法眼蔵』「海印三昧」巻を、仁治3年(1242)4月20日に興聖寺で著されたが、他にも道元禅師の著作には「海」が多く登場する。寮中の清浄大海衆、いまし凡いまし聖、誰か測度するん者ならんや。〈中略〉但、四河海に入って復た本名無く、四姓出家しても同じく釈氏と称せよとの仏語を念え。『永平寺衆寮箴規』そもそも、修行僧は「清浄大海衆」とさ...道元禅師と「海の日」(令和6年度版)
明日は7月15日、仏教的には色々と重なっている。ただ、明日は「海の日」らしく、そのための記事も書いているので、今日は「色々と言いたい日」ということで記事を書いていきたい。まず、明日は解夏の日である。解夏の日は、旧暦で4月15日に始まる夏安居が90日間過ぎて終わる日となる。それはさておき、当然に夏安居が始まれば、終わる時も来るわけで、終わる時について道元禅師は以下の様に示されている。解夏。七月十三日、衆寮煎点諷経、またその月の寮主、これをつとむ。十四日晩の念誦、来日の陞堂・人事・巡寮・煎点、並んで結夏に同じ。『正法眼蔵』「安居」巻諷経と念誦くらい?始める時ほど、大変では無い印象。そこで、瑩山紹瑾禅師の時代になると夏中楞厳会を行うようになり(道元禅師の時代に行っていたかどうかは不明。「していない」という断定が...7月14日仏教的には色々と言いたい日
拙僧は、故・澤木興道老師について、色々と申し上げたいことがある。もちろん、拙僧の先師が駒澤大学で学生をしていた頃、坐禅の担当の先生で、ずいぶんと厳しくご指導を受けたご恩があったとしてもだ。その理由は、次のような一節を仰るからだ。・坐禅ということはいったい何ものか、これはわかったようでもいっこうわかっていない。大きな声ではいえないが、禅宗の坊主でもわからずに死んでしまう者が大方である。(154頁)・戦争がすんで一年ほどして勲章をもらったが、私は嬉しかった。年金やら恩給やらで勉強ができると思って嬉しかった。だが私は極端な坊主気質で押しとおしてきたから、その後一度もぶらさげたことはない。(156~157頁)それぞれ「坐禅による自己の完成」、『曹洞宗布教選書』巻11この文章だが、2点問題がある。「禅宗の坊主」のこ...先祖の菩提は自分の菩提
語呂合わせで、今日7月6日は「南無の日」だと勝手に認定。ということで、「南無」の素晴らしさを確認したい。いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆つくれる罪人の苦には、三陪すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは、南無の言をとなへて、悪心、すこしきまぬかる。うらむらくは、具足して南無仏と称せざること。阿鼻にしては、はるかに釈迦牟尼仏、帰命したてまつる、続善ちかきにあり。12巻本系統『正法眼蔵』「三時業」巻提婆達多は、釈尊の身内だったが、どうも信仰を異としていたようで(他には、律解釈の問題など)、教団を分けてしまった。しかも、ついでに色々とやらかしたと伝える仏伝もあって、結果的に「五逆罪」の内3つを犯したという。よって、道元禅師は、本来的に「一逆」でもとんでもない地獄の責め苦があるけれども、その三倍だと述...今日7月6日は「南無の日」
現在、【『正法眼蔵』勉強会】にて、『正法眼蔵』「海印三昧」巻を読んでいる。実際、拙僧にしてみれば、久方ぶりの同巻であった。無論、常日頃『正法眼蔵』を読みつつ目を通してはいるが、受講者にしっかり学んでもらえるくらいまで読むとなると、12年ぶりらしい。そこで、この記事では、勉強会で申し上げることをまとめているときに改めて、以前から気になっていた、「海印三昧」巻冒頭の一節について、私見を開陳してみたい。大学院生だった頃にまとめた、ゼミ用の予習ノートを見返していたところ、「海印三昧」巻冒頭について、「本則の場所が不明瞭」「これ、別の本則があったのではないか?」という書き込みがされていた。最初は、記憶の彼方にあったことなので、何のことか本人が分からなかったのだが、色々と考えている内に思い出した。それは、本文をご覧い...『正法眼蔵』「海印三昧」巻冒頭の話
拙僧が昨年度から講師を担当している【『正法眼蔵』勉強会】は2つあるが、その1つで「画餅」巻を読み終えた(次回からは「海印三昧」巻となる)。そこで、末尾に結構難しい一節があるので、それを学んでみたい。しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず、画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を、身心に究尽するなり。この功徳、いまだ現前せざるがごときは、学道の力量、いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり。『正法眼蔵』「画餅」巻さて、注意しなければならないのは、「飢」「不飢」「充」「...『正法眼蔵』「画餅」巻の一節の参究
拙僧の好きなことの1つに、ただ『東方年表』を眺めるという変なのがあるのだが、それを見ていると、或る元号について気になることがある。それは、曹洞宗の大本山永平寺の名前の由来になったとされる「永平」という元号についてである。現在、福井県永平寺町に所在する永平寺は、元々吉祥山大仏寺(『永平広録』巻2冒頭参照)と呼称され、その後改名された。大仏寺を改めて永平寺と称する上堂〈寛元四年丙午六月十五日〉。〈中略〉良久して云く、天上天下当処永平。『永平広録』巻2-177上堂このように、寛元4年(1246)6月15日に改名されたことが分かる。ただし、道元禅師が何に由来して「永平寺」と名付けられたのか、ご自身の御著作・御提唱などからは判明していない。しかし、永平寺5世・義雲禅師がご見解を示されている。夫れ、永平とは仏法東漸の...「永平」という元号(6月15日の記事)
ちょっと興味深い一節を見出したので、参究してみたい。一行鉢は朔望二十八日、毎月三度なり、故へあれば侍者寮より触れ出し休むる也、袈裟を搭することは、暁天より夜坐に至る迄、一座もかく不可、行鉢は新到初心の僧に能く教訓ある可し、此の事諸山になしと云て、悪言を吐く雲衲は好与無数棒たるべし、これを永祖の親伝を未夢不見の漢と云て、近くは鉢盂の巻、袈裟功徳等の巻を拝看すべし、衣鉢の護持は九旬中方丈和上より教訓ある可し、『太平山諸寮日看』「侍者寮要看」、『曹洞宗全書』「清規」巻・750頁上段まずは以上の通りだが、現在の埼玉県内に所在する太平山龍淵寺山内で用いられていた『諸寮日看』の一部を採り上げてみた。これは、「行鉢」とあるので、いわゆる鉢盂(応量器)を用いた食事についての話をしているものと思われる。そして、当時は毎月3...江戸時代の僧侶教育と『正法眼蔵』について
今日6月9日は「ロックの日」らしい。だが、禅宗にロック好きは多く、或る意味全員ロックな禅僧だという話があるくらいなので、誰でも良いのだが、敢えてこの一則である。鄂州巌頭清厳大師〈徳山に嗣ぐ、諱は全豁〉因みに僧問う、「三界の競起する時、如何」。師曰く、「坐却せよ」。僧云く、「未審し、師意、如何」。師曰、「廬山を移取し来れ、即ち汝に向かいて道ん」。『真字正法眼蔵』上75則この問答だが、徳山宣鑑禅師の弟子である巌頭全豁禅師(828~887)に、或る僧が聞いている。何を聞いたかといえば、「三界」というのは、この我々の世界を含めた全宇宙くらいの意味で考えて貰えば良いと思うが、それが「競起する」としている。昔、この意味を或る先生に聞いたら、向こうから盛んにドンドンくるようなイメージだと仰っていたように覚えている。よっ...今日は6月9日「ロックの日」らしい
現在、拙僧が承っている『正法眼蔵』勉強会では「渓声山色」巻を読み終えたのだが、同巻巻末に見られる或る一節について学んでみたい。その前に、曹洞宗の読誦教典として100年以上にわたって用いられている『修証義』の「第二章懺悔滅罪」の一節を見ていこうと思う。其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。下線は拙僧特に下線部をご覧頂きたいが、この...龍牙居遁禅師の言葉と懺悔
我々は、道元禅師が用いた言葉であっても、それが現代と同じ意味として使われているとは限らないことを知るべきなのだろう。例えば、次の御垂示はどう理解すべきだろうか?しかうしてのち、衆僧、おのおのこころにしたがひて人事す。人事とは、あひ礼拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は、堂中の法になずらふ、人にしたがひて今案のことばも存す。『正法眼蔵』「安居」巻これは、「安居(特に、道元禅師の時代は「夏安居」に限定)」が始まるときに、修行僧達がお互いに挨拶する行持(人事)について指摘されたものである。それで、今でもそうだが、当時、修行僧達は住持に対して挨拶をした後で、お互いに挨拶したのであった。「人事(読み方...「同安居」という言葉
昨日の【『正法眼蔵』勉強会】では、「画餅」巻を読んでいった。さて、禅語(禅の言葉)には、本来の仏教学からすれば独特なものがある。それは、いわゆる経典や論書(註釈書)で使われる仏教語を脱して、世俗で使われている日常語を大胆に導入した結果、生み出されたものが多い。その中に、極めて禅語的な響きを持つ言葉に「画餅」がある。古来は「わひん」だったそうだが、現在の曹洞宗では「がびょう」と読む言葉で、通常の日本語でも「がへい」と読んで、「画餅に帰す」といった用法がある。意味としては、「無駄」ということであり、様々な行いが、無駄になってしまったときに嘆息混じりでいわれる言葉ということになるだろう。又香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあ...画にかいた餅は飢を充たさず
ちょうど、【『正法眼蔵』勉強会】で「画餅」巻を読み始めたので、備忘録的に書いておきたい。この一言をあきらめざらん、たれか余仏の道取を参究せりと聴許せむ。『正法眼蔵』「画餅」巻この一節は、香厳智閑禅師はそれまで経論を学んだ秀才の僧侶だったのだが、潙山霊祐禅師の下で学んでいた時に父母未生以前の言葉を持ってくるようにいわれ、それが出来なかった時に発した言葉「画餅不充飢」を指したものである(詳細は「渓声山色」巻を学ばれると良い)。その言葉は、経論の学びをただ無駄なものだと、如何にも禅宗らしく理解されていたのだが、道元禅師はそういった理解は正しくないとし、真実の「画餅」理解を示すために本巻を著された。よって、先の一節は、「この一言を明らかにしないのなら、誰が他の仏であっても、この言葉を参究していたと許すことがあろう...「余仏の道取を参究せり」について
5月6日は、「5月(may)6日(ろ)」の語呂合わせで、「迷路の日」らしい。なお、いわゆる「迷路」の語句は、英語の「maze」の訳語として「曲折、混雑、迷惑、迷路、曲路」(明治6年『英和字彙』参照)の1つとして見える。なお、本来の漢語としては「路に迷う」という動詞で使われる。その意味で、以下の一節を学んでみたい。梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それ、なにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。悪業のひくによりて、他国に跉跰するなり。歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。なんだち、西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。『正法眼蔵』「行持(下)」巻「西天に迷路するなり」と示され...今日は「迷路の日」
まずは、以下の一節を見ておきたい。大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元、はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、仏仏祖祖面授の法門、現成せり。これすなはち霊山の拈華なり、嵩山の得髄なり、黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裏のみあり、余人は夢也未見聞在なり。『正法眼蔵』「面授」巻この一節を拝して、拙僧自身が思うことは、素直に、初相見されたのであろう、ということである。実際、道元禅師が中国に渡られて、最初に入られたのが天童山だったことは間違いない(その前に、別の律院に行ったりはしているが、安居ではない)が、その時の住持は臨済宗大慧派の無際了派禅師であり、無際禅師とは相見し、礼拝したことが知られている(『正法眼蔵』「嗣書...宝慶元年五月一日道元禅師が天童如浄禅師から面授
「密」という語を聞くとき、我々自身、どのように考えるべきだろうか?たとえば、「秘密」、要するに「密教」の「密」として採るべきであろうか?或いは、「親密」として、道元禅師の仰る「密語」の「密」として受け取ることも可能である。しかし、親しすぎる対象を、見ることは困難である。正しくは、見ることが出来ても、その「全貌」をありのままに見ることが出来ないというべきであろうか?畢竟、我々にとって、「密」とは、その全貌を対象として明確に受け取ること、知り得ることは不可能だといいたいのである。ただ、これは、安易な「不可知論」とは違う。その辺は、以下の問答からまず見ておきたい。上堂。記得す。雲門、曹山に問うて云く、「密密の処、甚麼と為てか有ることを知らざる」と。山云く、「祗だ密密なるが為に、所以に不知有なり」と。若し是、永平...親密過ぎる仏法
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏