「聞法」と「聴法」について

「聞法」と「聴法」について

仏法を聴聞することについて、「聞法」と略されるのが一般的な気もするが、「聴法」という言い方はあるのだろうか?簡単に調べてみた。御入滅後正法も弘まりてあれば、仏法を聴聞して、未来を助かるは、只この世界の人間ばかり。『戒会落草談』その前に、道元禅師にも「正法を聴聞」という語句はあるが、まずは以上のように「仏法を聴聞」という語句が見られることが分かると思う。さて、それでは「聞法」と「聴法」だが、以下の結果となった。おほよそ聞法は、ただ耳根・耳識の境界のみにあらず、父母未生已前、威音以前、乃至尽未来際、無尽未来際にいたるまでの挙力・挙心・挙体・挙道をもて聞法するなり、身先心後の聞法あるなり。これらの聞法、ともに得益あり、心識に縁ぜざれば聞法の益あらず、といふことなかれ。『正法眼蔵』「無情説法」巻あくまでも一例だが...「聞法」と「聴法」について

2025/05/02 09:21