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拙僧的に良く分からないのは、ここでいう「仏祖正伝」という語句の典拠についてである。宗門の場合、「仏祖正伝」という語句は、道元禅師が「菩薩戒」に付けて表現されることが多かった。比丘戒をうけざる祖師かくのごとくあれども、この仏祖正伝菩薩戒うけざる祖師、いまだあらず、必ず受持するなり。『正法眼蔵』「受戒」巻このように、「仏祖正伝菩薩戒」という表現が見られ、また、天童如浄禅師から受けた作法は『仏祖正伝菩薩戒作法』とされ、ここに「仏祖正伝」と見える。そこから、道元禅師が如浄禅師から受けた口訣とされる『宝慶記』には、以下の一節が見られる。薬山の高沙弥は、比丘の具足戒を受けざりしも、また、仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらざるなり。然れども僧伽梨衣を搭け、鉢多羅器を持したり。是れ菩薩沙弥なり。『宝慶記』第43問答このよ...「仏祖正伝」という言葉について
仏と菩薩、仏教に於ける宗教的価値は当然異なっていて、その名を冠する戒の「仏戒」と「菩薩戒」についても、意味合いが違うのか?と思うのは、当然であると思うが、小生が習ってきた限りでは、同じ意味なのだという。それを前提に幾つか考えてみると、例えば道元禅師には『正法眼蔵』に於いて、両語について以下のような用例がある。【仏戒】・居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。「渓声山色」巻・在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。「伝衣」巻・もし諸仏いまだ聴許しましまさざるには、鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられざるなり。「出家」巻・正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。仏戒を受持せざる仏祖、あるべからざるなり。・いま仏仏祖祖...仏戒と菩薩戒について
実世界の研究でも丘宗潭老師による『教授戒文』提唱を学んだことがあったのだが、丘老師は禅戒論を論じるに当たり、ご自身が改正された万仭道坦禅師『仏祖正伝禅戒鈔』よりも、同じ万仭禅師による『禅戒本義』を尊重していることが分かった。それも含めて、『禅戒本義』自体を学んでみたいと思い、今日はこんな記事を書いてみようと思う。禅戒本義序戒学に幼くして戒師と作り、禅学に少くして禅師と称するは、古今の仏祖の呵する所、其の罪免るべからず。如来の在世、二歳の沙弥有り、一歳の弟子を将ち仏処に往く。仏、呵責して言わく、汝の身未だ乳を離れず。応に人の教授を受るべし、云何が人に教えんや、云云。吁、夫れ、戒学多般なり、今人何ぞ罄くさん、況んや亦禅戒は宗門の一大事、具眼底の舌頭在りても、輒く教授すべからず。古に曰く、説戒は仏法の大綱なり、...万仭道坦禅師『禅戒本義』序に見る苦言
今回紹介する口訣は、江戸時代末期に編まれた著者不明『開戒口訣』に見えるものであるため、実際に存在した内容であるかどうかは分からない。ただし、江戸時代末期当時の洞門僧が、『仏祖正伝菩薩戒作法』について、どう捉えていたかが分かるものであるため、参究してみたい。永平開祖、二祖・三祖に嘱して云、菩薩戒作法の如きは、懇に秘在して、旻せしむること勿れと。是故に今に至て、古叢林室中、多く秘在するものなり。『続曹洞宗全書』「禅戒」巻・354頁上段、カナをかなにするなど見易く改めているまず、道元禅師が二祖(懐弉禅師)・三祖(義介禅師)に言葉を托して言われるには、『菩薩戒作法』は秘在して、「旻」させてはならないという。「旻」とは「そら」などの意味であり、このままでは意味は分からない。おそらくは誤字か、翻刻ミスだとは思うのだが...『仏祖正伝菩薩戒作法』伝承に関する口訣について