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5月5日、道元禅師が行った端午の節句の説法について採り上げてみたい。例えば、道元禅師の『永平広録』を参照すると、端午の上堂は、中国曹洞宗の宏智正覚禅師(1091~1157:『従容録』の元になった『宏智禅師頌古』を作成した。道元禅師は「古仏」と呼んで尊崇した)の言葉について更に拈提した内容である。寛元4年(1246):巻2-169宝治元年(1247):巻3-242(今回紹介)宝治2年(1248):巻4-261建長元年(1249):巻4-326そこで、以下には宝治元年の上堂を採り上げてみたい。端午の上堂に、挙す。宏智古仏、天童に住せし時、今朝の上堂に云く「五月五日天中節。百草頭上に生殺を看る。甘草・黄連、自ら苦く甜し。人蔘・附子、寒熱を分かつ。薫蕕、昧し難し双垂瓜。滋味、那ぞ瞞ぜん初偃月。円明了知、心念閑なり...今日は端午の節句(こどもの日)
間違いなく、勉強不足の拙僧が悪いのだが、まだ学生の頃、或る数字を見て大いに迷乱を深めたことがあった。例えば、以下のような文脈に見える数字である。監寺に謝する上堂。已に両年三七月を鼻するに、算じ来りて六百有余日なり。許多か労謝に叉手せん。更に蒲団を把るの功失せず。這箇は是れ、現前の大衆、相い謝せん。且く道え、仏祖、他に謝する、又た作麼生か道わん。良久して、払子を以て禅牀の右辺を撃つこと一下して云く、仏祖、各各、先監寺に謝し了れり。『永平広録』巻2-137上堂問題は、この「両年三七月」という記述である。ここで「三七」と出ているのだが、学生の頃の拙僧は、現代的な縦書きの感覚があったためだろう、これを「37ヶ月」だと当初理解した。そうなると、丸3年を超えるわけであるが、ずいぶん永く、監寺を務めた人もおられたものだ...「三七」という数字に勘違いした日々
こんな話が伝わっている。宝治元年、寛元五年〈丁未〉正月十五日之布薩の時、開山和尚説戒し給ゑば、五色の雲、方丈の正面の障子に立ち移りて、半時斗あり。聴聞の道俗あまた之を見奉る。其中に河南庄の中の卿より参詣す人達、此の子細を起証文を以て申し上げる。其の文に云く、志比庄方丈不思議の日記の事。寛元五年〈丁未〉正月十五日、説戒。然る日、未の始自り、申の半分に至って、正面障子に五色の光有り。聴聞の貴賤、之を拝す。其の中、吉田河南庄中の郷自り、参詣を企み、之を見奉るの輩、廿余人、但だ説戒の日、多く相当すと雖も、斯の日参詣の條、然らしむ故なり。此の條、虚言ならば、永く三途に堕在せしむ、仍って自今以後、伝聞随喜として記し置くの状、件の如し。二代和尚、御自筆を以て書して云く、当山の開闢堂頭大和尚、方丈に就いて布薩説戒の時、五...或る年の1月15日永平寺で何が?
令和7年元旦、新年となった。心からお祝い申し上げる。なお、今年の干支は「乙巳(きのとみ)」となる。そこで、早速だが新年に関する仏教の記事を見ていきたい。道元禅師は、弟子達を前に新年の挨拶を行われた。歳朝の上堂に、挙す。宏智古仏、天童に住せし歳朝の上堂に云く「歳朝坐禅、万事自然。心々絶待、仏々現前。清白十分なり江上の雪。謝郎満意す釣魚の船、参」と。師云く、今朝、大仏其の韻を拝続せん。良久して云く、大吉歳朝、喜坐禅、応時納祐、自ら天然なり。心々慶快にして春面を笑う。仏々牛を牽いて眼前に入る。瑞を呈し、山を覆う、尺に盈つる雪。人を釣り己を釣る、釣漁の船。『永平広録』巻2-142上堂意味だが、元旦の朝に、道元禅師は上堂されて、公案を採り上げられた。「宏智古仏が天童山の住持をしていたときの元旦の上堂に言われるには「...令和7年乙巳元旦
「除夜」という言葉は、「1年使ってきた暦を除く」ことから、大晦日の夜を意味しているという。今日は1年最後の学びとして、道元禅師の教えを参究したい。除夜小参に、挙す。薬山、雲巌に問う「汝、百丈に在りしを除いて、更に什麼の処に到りてか来る」。雲巌云く「曾て、広南に到りて来る」。薬山云く「見説すらくは、広州城東門の外の一団石、州主に移却せらる、と、是なりや、否や」。雲巌云く「但、州主のみに非ず、闔国の人移せども亦、動かず」。薬山・雲巌、既に恁麼に道う。永平、豈、道ぜざることを得んや。但だ州主のみに非ず、闔国のみに非ず、三世の諸仏、一切の祖師、尽力して移せども亦、動かず。甚と為てか斯の如くなる。良久して云く、彼々如にして内外無し、塵々固くして必ず三昧なり。也大奇、也大奇。全体明らかに瑩いて、宝貝無し。『永平広録』...今日は除夜(令和6年度版)
今日は冬至である。よって、冬至は禅宗の説法が多く残されているので、その1つを学んでみたい。冬至の上堂。年年、一を加う三陽の一。旧に非ず新に非ず、功、転た深し。佳節佳辰、千万化。噇眠喫飯、今より起こる。『永平広録』巻1-115上堂道元禅師は仁治3年(1242)に興聖寺で行われた冬至の上堂(11月22日だったと思われる)で次のように示された。毎年毎年、この日には一陽来復する三陽の一である。よって、今日は古くもなく新しくもないが、その働きは極めて深いのである。良い時節、良い時間であって、千変万化していくのだ。睡りを貪り、食事を摂るという日常底も、今から起きるのである、と示された。さて、冬至とは、一年の内でもっとも昼の長さが短い冬の極点の日とされており、中国古来の陰陽五行思想などでは、陰が極まり陽の始まる日である...道元禅師と冬至について
釈尊の菩提樹下での坐禅を慕って行う臘八摂心も終わり、いよいよ釈尊成道会を迎えた。道元禅師は、以下のように自分が「成道会」を伝えたとされ(なお、道元禅師の前にも実施された記録はあるが、広く行われなかった)、永く児孫によって修行されるべきことを求めている。日本国先代、曾て仏生会・仏涅槃会を伝う。然而ども、未だ曾て仏成道会を伝え行わず。永平、始めて伝えて既に二十年。自今以後、尽未来際、伝えて行うべし。『永平広録』巻5-406上堂いうまでもないが、何故我々が釈尊の「成道」を祝うのかといえば、我々禅僧にこそ「釈尊成道の真意」が会得されているからである。宋代の中国禅宗に至って、初めて以下の説話が禅僧によって主体的に自覚されている。釈迦牟尼仏言く、明星出現の時、我と大地有情と同時成道。『永平広録』巻1-37上堂道元禅師...本日は釈尊成道会(令和6年度版)
今日10月15日は、道元禅師による興聖寺で集衆説法を行われた。今日はここに到る経緯を略年表形式で考えてみたい。1227年(嘉禄3年)8~9月頃道元禅師帰国(『建撕記』)、建仁寺に寓居(『典座教訓』他)同年中『普勧坐禅儀』(嘉禄本)執筆(『弁道話』)1229年(安貞3年)道元禅師と懐奘禅師の相見(『伝光録』第52章)1231年(寛喜3年)7月安養院にて了然尼に法語を授与(可睡斎所蔵『示了然尼法語』奥書)同年8月15日『弁道話』執筆(同書奥書)1233年(天福元年)観音導利院入寺(『伝光録』第51章)同年夏安居日『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻示衆(同書奥書)同年7月15日『普勧坐禅儀』(天福本)浄書(同書奥書)同年8月『正法眼蔵』「現成公案」巻を俗弟子楊光秀に与う1234年(文暦元年)3月『学道用心集』執筆...十月十五日宇治観音導利興聖宝林寺開単
今回、或る先生から、個人的に書いた原稿の校正を依頼されたため、作業中。拙著なども引用していただき、感謝に堪えない。ところで、校正中にある事に気付いた。いや、初めて気付いたということではなくて、以前に気付いていたことを「思い出した」というのが正しい。それは、道元禅師の語録『永平広録』巻10に収録されている「玄和尚偈頌」の中には、京都にいる頃に詠まれたと思われる「閑居偶作」という偈頌が入っているのだが、これが謎に満ちているのである。謎というのは、その題名に付された偈頌の数についてである。まず、現在、永平寺に収蔵されている、通称「祖山本」について見ていくと、こうなっている。・閑居偶作七首ところが、収録されている偈頌を数えていくと、全125首中の第65~70番目に該当するので、実は6首しか入っていないのである・・...『永平広録』所収の「閑居偶作」は何首?
今日9月17日は、旧暦8月15日、つまり「中秋の名月(十五夜)」である。道元禅師は、ほぼ毎年、中秋には上堂を行って「満月」そのものを題材にしながら、弟子達に仏法の真髄を説いておられた。今日はその1つを見ていきたい。中秋の上堂。月中の桂樹を折り尽して来る。這回は旧を恋わずに這回。胡来胡現、漢来現。限り無き清光十五枚、と。『永平広録』巻1-77上堂これは、仁治2年(1241)8月15日に行われたと考えられるため、京都の興聖寺に居られた時の「中秋の上堂」になる。道元禅師が「中秋の名月」に因み、満月の欠けたること無き姿から、法の円満なる様子を示された。まず、「月中の桂樹」は月の中に五百丈(約1.5㎞)の高さがある桂があるとされ、伐ってもすぐに戻るとされる。しかし、中秋の名月の場合には、余りに素晴らしい明るさをして...今日は中秋の名月(十五夜)(令和6年度版)
今日7月18日は、道元禅師が吉峰寺から大仏寺に移動した日として知られている。『永平広録』巻2冒頭には次のように記載されている。師、寛元二年甲辰七月十八日に当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。寛元2年は「1244年」であり、前年の7月に京都を出られた道元禅師は約1年の寓居生活(吉峰寺、禅師峰)を経て、この日大仏寺に移られた。ただしこれは、上記文章を見れば分かるように、直ちに修行を開始したという意味では無く、翌年から「四方の学侶」が集まってきたことを示すように、とりあえず、京都から連れてきた弟子達とともに大仏寺に移動した、という意味で捉えるべきである。逆にいえば、大仏寺は何人かの収容・生活が可能なくらいに伽藍の整備が進んだと理解すべきなのだろう。その上で、後代の記録ではあるが、次のようなことが行わ...7月18日道元禅師が大仏寺に移動
今日は、旧暦の7月17日を命日とする天童如浄禅師(1162~1227)のことを採り上げてみたい。ところで、道元禅師伝に詳しい方々については、如浄禅師の説明は、もはや不要であろうと思います。一応、【如浄―つらつら日暮らしWiki】なんていう項目もあるので、興味のある方はご覧いただきたい。さて、今日見ていくのは道元禅師が、本師である天童如浄禅師のために行った追悼の上堂である。永平寺に入られてからはほぼ毎年行われている追悼の上堂であり、年回法要とは関係なく、いわゆる「毎歳忌」扱いになる。今年のは、整合的ではない順番で入っている上堂なので、具体的な年号は分からない(一応、推定されてはいる)。寛元4年(1246)巻2-184上堂宝治元年(1247)巻3-249上堂宝治2年(1248)巻4-274上堂不詳巻4-276...7月17日天童如浄禅師忌
拙僧の好きなことの1つに、ただ『東方年表』を眺めるという変なのがあるのだが、それを見ていると、或る元号について気になることがある。それは、曹洞宗の大本山永平寺の名前の由来になったとされる「永平」という元号についてである。現在、福井県永平寺町に所在する永平寺は、元々吉祥山大仏寺(『永平広録』巻2冒頭参照)と呼称され、その後改名された。大仏寺を改めて永平寺と称する上堂〈寛元四年丙午六月十五日〉。〈中略〉良久して云く、天上天下当処永平。『永平広録』巻2-177上堂このように、寛元4年(1246)6月15日に改名されたことが分かる。ただし、道元禅師が何に由来して「永平寺」と名付けられたのか、ご自身の御著作・御提唱などからは判明していない。しかし、永平寺5世・義雲禅師がご見解を示されている。夫れ、永平とは仏法東漸の...「永平」という元号(6月15日の記事)
今日6月9日は「ロックの日」らしい。だが、禅宗にロック好きは多く、或る意味全員ロックな禅僧だという話があるくらいなので、誰でも良いのだが、敢えてこの一則である。鄂州巌頭清厳大師〈徳山に嗣ぐ、諱は全豁〉因みに僧問う、「三界の競起する時、如何」。師曰く、「坐却せよ」。僧云く、「未審し、師意、如何」。師曰、「廬山を移取し来れ、即ち汝に向かいて道ん」。『真字正法眼蔵』上75則この問答だが、徳山宣鑑禅師の弟子である巌頭全豁禅師(828~887)に、或る僧が聞いている。何を聞いたかといえば、「三界」というのは、この我々の世界を含めた全宇宙くらいの意味で考えて貰えば良いと思うが、それが「競起する」としている。昔、この意味を或る先生に聞いたら、向こうから盛んにドンドンくるようなイメージだと仰っていたように覚えている。よっ...今日は6月9日「ロックの日」らしい
今日5月25日、道元禅師が弟子の慧運直歳の行いを讃える機縁となった日でもある。早速、当該の文章を学んでみたいと思う。慧運直歳の充職は、乃ち延応庚子の歳なり。去冬除夜に請を承けて、今、供衆す。五月二十五日、梅雨霖霖として、草屋漏滴す。因みに、山僧入堂坐禅するに、照堂と雲堂と、両屋の簷頭、平地に波瀾を起こす。清浄海衆、進歩退歩、中間に兀立す。時に直歳に告ぐるに、匠人と等しく裰を脱ぎ笠つけず、屋上に上りて管す。雨脚、頂に潅げども辞労の色無し。予、潜かに発意を感ず、一句、他に与えん、と。乃ち、本祖の時、他を鑑憐するのみなり。爾して自り以来、月六箇を経、日、二百に将んとす。未だ工夫有らずも、其の意、忘れ難し。暑中に未だ筆をとらず、寒に至って墨を使う。是、則ち先仏の骨髄なり。一身の卜度に滞ること勿れ。吾子充職より已来...5月25日その日京都は雨だった
「密」という語を聞くとき、我々自身、どのように考えるべきだろうか?たとえば、「秘密」、要するに「密教」の「密」として採るべきであろうか?或いは、「親密」として、道元禅師の仰る「密語」の「密」として受け取ることも可能である。しかし、親しすぎる対象を、見ることは困難である。正しくは、見ることが出来ても、その「全貌」をありのままに見ることが出来ないというべきであろうか?畢竟、我々にとって、「密」とは、その全貌を対象として明確に受け取ること、知り得ることは不可能だといいたいのである。ただ、これは、安易な「不可知論」とは違う。その辺は、以下の問答からまず見ておきたい。上堂。記得す。雲門、曹山に問うて云く、「密密の処、甚麼と為てか有ることを知らざる」と。山云く、「祗だ密密なるが為に、所以に不知有なり」と。若し是、永平...親密過ぎる仏法
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏
今日は、「恩師の日」らしい。設定経緯などは以下の通り。・恩師の日(「仰げば尊し」の日)(3月24日記念日) 今日は何の日(雑学ネタ帳)それで、拙僧は色々と禅宗の師弟関係について研究したこともあったので、この辺の「恩師」のあり方について書いてみようと思う。参考までに、拙僧自身の本師は既に遷化しており、また、大学院で最もご指導を頂戴した恩師も、10年ほど前に遷化されている。というか、そもそも「恩師」という用語は、仏教で使われるのだろうか?いや、無いな。この言葉、意外と新しいんじゃないか?それでちょっと考えたが、例えば「恩」を中心に見てみると、知られているのは以下の語句である。・大恩教主釈迦牟尼世尊(『瑩山清規』)やはり、拙僧どもは釈尊こそが「大恩教主」であるから、それを確認しておきたい。他に、以下の一節などは...「恩師の日」の「師恩」の記事
今日は3月5日、拙僧は勝手に語呂合わせで「山居(さんご)の日」だとしている。山居とは、端的に「山に居す」だが、奥深い山の中に庵を構えて修行することである。例えば、道元禅師は『永平広録』に収録された「山居の偈頌(15首)」があって、自ら山にあって修行することを、喜びとされていた。しかし、山居は、場合によっては単独での修行になることもあるからこそ、色々な問題が起きることもある。今日は、それを鈴木正三の言葉から見ていきたい。一日、衆に語りて曰く、我、此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂げず。乍去今は夫れがよいに成りし也。其侭居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らざるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると...禅僧は山居すべきかせざるべきか(1)
既に【道元禅師の誓願と未来成仏論】の記事を書いたけれども、関連して以下のような説示を見ておきたい。上堂、仏と謂い祖と謂う、混雑することを得ざるなり。仏と謂うは七仏なり。七仏とは、荘厳劫の中に三仏あり。謂く、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏なり。賢劫の中に四仏あり。謂く、拘楼孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏なり。此の外、更に仏と称する無きなり。然る所以は、毘婆尸仏に附法蔵の遺弟多く有りと雖も、倶に祖師と称し、或いは菩薩と称して、未だ曾て乱りに仏世尊と称すること有らず。必定、尸棄仏の出世に至って仏と称す。行満劫満の所以なり。〈中略〉吾、今、成仏し、正法の座を以て其の往勲に報ず。仏に対して坐する時、天人咸く仏の師と謂う。是の徳を具うと雖も、未だ称して仏とせず。況んや、澆季全く一徳無きの輩、猥りに吾、是、仏と称す...道元禅師の来世成仏観について
実世界にも先行研究があるところなので、これはあくまでも拙僧なりの備忘録である。拙僧の想いはここまで進んだが、これは道元禅師の教えを見るに付け混乱に変わったのである。確かに、仏と祖師を分けること、これ自体は特記すべき優位性がない考えだが、しかし用いなくて良いとも限らないし、晩年の道元禅師は「仏祖一体論」から「祖師の自覚」へと論点を変更したように思われる。しかあれば六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。『正法眼蔵』「仏性」巻この一文が何故道元禅師独自の「仏祖一体論」になる理由だが、ここで引用されている「明明百草頭、明明仏祖意」は龐居士の言葉であるとされ、しかも本来は「明明百草頭、明明祖師意」なのである。しかし道元禅師は祖師を敢えて「仏祖」と書き直した。こうすることで、祖仏一体を明らかにしよう...道元禅師に於ける仏祖の一体論と各別論
ネットによる情報の共有が一般的になってから、仏教を学ぶ方が一定量居られることは良く分かるのだが、その動機について、どうも“自分のために”学ぶ方が多いように見えて、拙僧的には非常に残念。例えば、大乗仏教とは、明確に誓願によって宗教性を発揮するものであり、それこそ阿弥陀如来の「本願」としても、それは前身となる法蔵菩薩の「誓願」に由来する。ここで、誓願とは、菩薩が最初に菩提心を起こし、それが実現するまでは成仏しないと誓い願うことであり、菩提心を起こした菩薩は必ず何かしらの誓願を持つことになる。では、まさに自らの修行という点では、もっとも厳しいのではないか?と思われている道元禅師はどのような誓願をお持ちになられたのか?まず知られているのは『正法眼蔵随聞記』に出る以下のような言葉である。一日示云、我在宋の時、禅院に...道元禅師の誓願と未来成仏論
本ブログをご覧いただいている常連の皆々様、そして偶然検索で来てしまった方々へも新年のお祝いを申し上げたい。令和6年(甲辰)の元旦である。拙ブログも無事に年を越すことができた。これも、拙ブログを訪れてくださる皆さまのおかげである。心から御礼申し上げるとともに、皆さまのますますのご多幸を祈念申し上げる。さて、今日は元旦であるが、やはり元旦に因んだ記事を挙げるべきであると考える。そこで、道元禅師のお正月に因むお話しをご紹介したい。道元禅師は京都の興聖寺、そして越前の永平寺にて、ほぼ毎年年頭の説法を修行僧相手に行っていたが、その説法の一つである。上堂に、云く、今日は、是、一年の初なりと雖も、乃ち亦、三朝の日なり。三朝とは、年朝・月朝・日朝なり。挙す、僧、鏡清に問う「新年頭に、還、仏法有りや、也、無しや」。清云く「...謹賀新年(令和6年度版)
今日は大晦日、またの名は除夜である。「除夜」の名称の由来だが、「暦を除く夜」という意味などが提起されているが、「暦」に限らず、全ての古いものを新たに変える日だともいう。ところで、曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師(1200~1253)は、除夜に因んだ説法を残されている。道元禅師が開かれた寺院は、興聖寺・大仏寺(永平寺へ改名)とあるが、「除夜」の説法は全て、永平寺で行われたと推定されている。①除夜小参『永平広録』巻8-小参2②除夜小参『永平広録』巻8-小参5③除夜小参『永平広録』巻8-小参10④除夜小参『永平広録』巻8-小参14⑤除夜小参『永平広録』巻8-小参18この内、明らかに永平寺で行われたことが分かるのは、②以降なのだが、①にも「所以に鷲嶺・鶏山・嵩山・黄梅・曹谿・南嶽・青原・石頭・薬山・雲巌・洞...令和5年の除夜(大晦日)
今、仕事の関係で、『永平広録』を全部読み直しているのだが、道元禅師が以下のように述べておられた。監寺・典座を請する上堂。知事は乃ち三世諸仏の護念する所なり。難陀尊者の勝躅、沓婆尊者の勤修なり。『永平広録』巻2-139上堂道元禅師は、大仏寺(後の永平寺)に入られてからというもの、いわゆる知事を中心にした叢林運営を進めようとされ、上記のような知事を請する上堂、或いは知事の退任に因んで謝する上堂などが見られるようになる。併せて、『永平寺知事清規』を著し、叢林に於ける正しい知事の心持ち、振る舞い方、一部では作法などを示された。更に、『永平広録』中の知事の話を見ていくと、多くは『知事清規』と重なるが、『永平広録』独自のところもあるため、晩年の知事に対する考えを見ていく場合には、『永平広録』と『永平清規』とを併せて見...沓婆尊者の知事の話
今日は冬至ということで、1年で一番昼間の時間が短い日である。おそらく、各地ではカボチャに因んだ料理が振る舞われたり、ゆず湯に入ったりすると思われる。ところで、曹洞宗の高祖道元禅師(1200~1253)は、永平寺などで冬至に因む説法をしておられる。これは「上堂」や「小参」といい、冬至は毎年あるため、その時々に行われ、語録『永平広録』に複数回確認可能である。「冬至」という用語で調べると、以下の通りである。朔旦冬至上堂巻1―25上堂(仁治元年[1240])冬至上堂巻1―115上堂(仁治3年[1242])※以上は深草興聖寺冬至上堂巻2―135上堂(寛元3年[1245])※大仏寺(永平寺への改名前)冬至上堂巻3―206上堂(寛元4年[1246])※以下は永平寺冬至上堂巻4―296上堂(宝治2年[1248])冬至小参...於永平寺冬至小参(令和5年度版)
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)は以前【『永平広録』敷衍の様子】という記事でも書いた通りで、道元禅師の語録である『永平広録』の参究を行い、更に周囲の僧達に提唱までしていた様子が明らかにしたが、面山禅師が編まれた『永平祖師家訓綱要(以下『永平家訓』と略記)』(上下巻)という文献がある。これは、『永平広録』を以下の八章に分けて本文を抽出したものである。各章のタイトルと、簡単な解説を付しておきたい。・第一発心出家訓『永平広録』の中で、特に、「発心」そして「出家」に関わる小参・上堂語を集めたものである。発菩提心の難得なる様子や、無上菩提を学ぶということの方法、或いは道心について説かれている。・第二仏祖正宗訓仏法について示された上堂語を中心に集められ、さらにそれが、祖師方によってどのように伝えられ...面山瑞方禅師『永平祖師家訓綱要』と体系的宗乗
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)には、多くの著作が残されたが、生前に刊行されなかった文献や、上堂語・法語・詩偈などを集めて死後に刊行されたのが、『永福面山和尚広録』(全26巻)である。そして、第26巻には面山禅師の年譜が収録されているが、今日はそこから、面山禅師によって、当時の宗侶に対し、如何にして『永平広録』が説かれていたかを見ておきたい。理由は、現代に於いても『永平広録』の敷衍は十全とはいえず、在家の方に対しては、市場に幾つかの書籍が見られるくらいで、宗侶向けの専門書もまだ揃わない状況である。よって、今から250年近く前に、どのように学ばれていたのか、その一端を見て行きたい。なお、面山禅師には『永平広録』の上堂語や小参などを適宜抽出して、更に分類を行った『永平家訓綱要』(上下巻)とい...『永平広録』敷衍の様子
なんとも凄い話だが、インド人は二桁×二桁の暗算を容易にこなすそうである。やはり、数字について、暗算で扱えるレベルが違っているのだろう。それとも、訓練の成果だろうか?そこで、道元禅師の説法に見える「かけ算」について見ていきたいと思う。冬至小参に云く。古徳道く「九九八十一、人の能く算の解する無し。両箇五百文、元来是れ壱貫」と。『永平広録』巻8-小参4このように、引用文ではあるが、9×9=81という計算を明らかに説法に利用されている(多くの禅語録には、五五二十五、六六三十六、七七四十九、他がある)。これは、“掛け合わされる”ということが、縁起の様子で「思った以上に数字が増えても、実はその内容は同じ」様子を明らかにしている。かけ算はあくまでも法の様子であり、この世の諸現象は、様々な変異があるけれども、それは諸法実...道元禅師の説法に見える「かけ算」