メインカテゴリーを選択しなおす
「密」という語を聞くとき、我々自身、どのように考えるべきだろうか?たとえば、「秘密」、要するに「密教」の「密」として採るべきであろうか?或いは、「親密」として、道元禅師の仰る「密語」の「密」として受け取ることも可能である。しかし、親しすぎる対象を、見ることは困難である。正しくは、見ることが出来ても、その「全貌」をありのままに見ることが出来ないというべきであろうか?畢竟、我々にとって、「密」とは、その全貌を対象として明確に受け取ること、知り得ることは不可能だといいたいのである。ただ、これは、安易な「不可知論」とは違う。その辺は、以下の問答からまず見ておきたい。上堂。記得す。雲門、曹山に問うて云く、「密密の処、甚麼と為てか有ることを知らざる」と。山云く、「祗だ密密なるが為に、所以に不知有なり」と。若し是、永平...親密過ぎる仏法
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏
今日は、「恩師の日」らしい。設定経緯などは以下の通り。・恩師の日(「仰げば尊し」の日)(3月24日記念日) 今日は何の日(雑学ネタ帳)それで、拙僧は色々と禅宗の師弟関係について研究したこともあったので、この辺の「恩師」のあり方について書いてみようと思う。参考までに、拙僧自身の本師は既に遷化しており、また、大学院で最もご指導を頂戴した恩師も、10年ほど前に遷化されている。というか、そもそも「恩師」という用語は、仏教で使われるのだろうか?いや、無いな。この言葉、意外と新しいんじゃないか?それでちょっと考えたが、例えば「恩」を中心に見てみると、知られているのは以下の語句である。・大恩教主釈迦牟尼世尊(『瑩山清規』)やはり、拙僧どもは釈尊こそが「大恩教主」であるから、それを確認しておきたい。他に、以下の一節などは...「恩師の日」の「師恩」の記事
今日は3月5日、拙僧は勝手に語呂合わせで「山居(さんご)の日」だとしている。山居とは、端的に「山に居す」だが、奥深い山の中に庵を構えて修行することである。例えば、道元禅師は『永平広録』に収録された「山居の偈頌(15首)」があって、自ら山にあって修行することを、喜びとされていた。しかし、山居は、場合によっては単独での修行になることもあるからこそ、色々な問題が起きることもある。今日は、それを鈴木正三の言葉から見ていきたい。一日、衆に語りて曰く、我、此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂げず。乍去今は夫れがよいに成りし也。其侭居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らざるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると...禅僧は山居すべきかせざるべきか(1)
既に【道元禅師の誓願と未来成仏論】の記事を書いたけれども、関連して以下のような説示を見ておきたい。上堂、仏と謂い祖と謂う、混雑することを得ざるなり。仏と謂うは七仏なり。七仏とは、荘厳劫の中に三仏あり。謂く、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏なり。賢劫の中に四仏あり。謂く、拘楼孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏なり。此の外、更に仏と称する無きなり。然る所以は、毘婆尸仏に附法蔵の遺弟多く有りと雖も、倶に祖師と称し、或いは菩薩と称して、未だ曾て乱りに仏世尊と称すること有らず。必定、尸棄仏の出世に至って仏と称す。行満劫満の所以なり。〈中略〉吾、今、成仏し、正法の座を以て其の往勲に報ず。仏に対して坐する時、天人咸く仏の師と謂う。是の徳を具うと雖も、未だ称して仏とせず。況んや、澆季全く一徳無きの輩、猥りに吾、是、仏と称す...道元禅師の来世成仏観について
実世界にも先行研究があるところなので、これはあくまでも拙僧なりの備忘録である。拙僧の想いはここまで進んだが、これは道元禅師の教えを見るに付け混乱に変わったのである。確かに、仏と祖師を分けること、これ自体は特記すべき優位性がない考えだが、しかし用いなくて良いとも限らないし、晩年の道元禅師は「仏祖一体論」から「祖師の自覚」へと論点を変更したように思われる。しかあれば六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。『正法眼蔵』「仏性」巻この一文が何故道元禅師独自の「仏祖一体論」になる理由だが、ここで引用されている「明明百草頭、明明仏祖意」は龐居士の言葉であるとされ、しかも本来は「明明百草頭、明明祖師意」なのである。しかし道元禅師は祖師を敢えて「仏祖」と書き直した。こうすることで、祖仏一体を明らかにしよう...道元禅師に於ける仏祖の一体論と各別論
ネットによる情報の共有が一般的になってから、仏教を学ぶ方が一定量居られることは良く分かるのだが、その動機について、どうも“自分のために”学ぶ方が多いように見えて、拙僧的には非常に残念。例えば、大乗仏教とは、明確に誓願によって宗教性を発揮するものであり、それこそ阿弥陀如来の「本願」としても、それは前身となる法蔵菩薩の「誓願」に由来する。ここで、誓願とは、菩薩が最初に菩提心を起こし、それが実現するまでは成仏しないと誓い願うことであり、菩提心を起こした菩薩は必ず何かしらの誓願を持つことになる。では、まさに自らの修行という点では、もっとも厳しいのではないか?と思われている道元禅師はどのような誓願をお持ちになられたのか?まず知られているのは『正法眼蔵随聞記』に出る以下のような言葉である。一日示云、我在宋の時、禅院に...道元禅師の誓願と未来成仏論
本ブログをご覧いただいている常連の皆々様、そして偶然検索で来てしまった方々へも新年のお祝いを申し上げたい。令和6年(甲辰)の元旦である。拙ブログも無事に年を越すことができた。これも、拙ブログを訪れてくださる皆さまのおかげである。心から御礼申し上げるとともに、皆さまのますますのご多幸を祈念申し上げる。さて、今日は元旦であるが、やはり元旦に因んだ記事を挙げるべきであると考える。そこで、道元禅師のお正月に因むお話しをご紹介したい。道元禅師は京都の興聖寺、そして越前の永平寺にて、ほぼ毎年年頭の説法を修行僧相手に行っていたが、その説法の一つである。上堂に、云く、今日は、是、一年の初なりと雖も、乃ち亦、三朝の日なり。三朝とは、年朝・月朝・日朝なり。挙す、僧、鏡清に問う「新年頭に、還、仏法有りや、也、無しや」。清云く「...謹賀新年(令和6年度版)
今日は大晦日、またの名は除夜である。「除夜」の名称の由来だが、「暦を除く夜」という意味などが提起されているが、「暦」に限らず、全ての古いものを新たに変える日だともいう。ところで、曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師(1200~1253)は、除夜に因んだ説法を残されている。道元禅師が開かれた寺院は、興聖寺・大仏寺(永平寺へ改名)とあるが、「除夜」の説法は全て、永平寺で行われたと推定されている。①除夜小参『永平広録』巻8-小参2②除夜小参『永平広録』巻8-小参5③除夜小参『永平広録』巻8-小参10④除夜小参『永平広録』巻8-小参14⑤除夜小参『永平広録』巻8-小参18この内、明らかに永平寺で行われたことが分かるのは、②以降なのだが、①にも「所以に鷲嶺・鶏山・嵩山・黄梅・曹谿・南嶽・青原・石頭・薬山・雲巌・洞...令和5年の除夜(大晦日)
今、仕事の関係で、『永平広録』を全部読み直しているのだが、道元禅師が以下のように述べておられた。監寺・典座を請する上堂。知事は乃ち三世諸仏の護念する所なり。難陀尊者の勝躅、沓婆尊者の勤修なり。『永平広録』巻2-139上堂道元禅師は、大仏寺(後の永平寺)に入られてからというもの、いわゆる知事を中心にした叢林運営を進めようとされ、上記のような知事を請する上堂、或いは知事の退任に因んで謝する上堂などが見られるようになる。併せて、『永平寺知事清規』を著し、叢林に於ける正しい知事の心持ち、振る舞い方、一部では作法などを示された。更に、『永平広録』中の知事の話を見ていくと、多くは『知事清規』と重なるが、『永平広録』独自のところもあるため、晩年の知事に対する考えを見ていく場合には、『永平広録』と『永平清規』とを併せて見...沓婆尊者の知事の話
今日は冬至ということで、1年で一番昼間の時間が短い日である。おそらく、各地ではカボチャに因んだ料理が振る舞われたり、ゆず湯に入ったりすると思われる。ところで、曹洞宗の高祖道元禅師(1200~1253)は、永平寺などで冬至に因む説法をしておられる。これは「上堂」や「小参」といい、冬至は毎年あるため、その時々に行われ、語録『永平広録』に複数回確認可能である。「冬至」という用語で調べると、以下の通りである。朔旦冬至上堂巻1―25上堂(仁治元年[1240])冬至上堂巻1―115上堂(仁治3年[1242])※以上は深草興聖寺冬至上堂巻2―135上堂(寛元3年[1245])※大仏寺(永平寺への改名前)冬至上堂巻3―206上堂(寛元4年[1246])※以下は永平寺冬至上堂巻4―296上堂(宝治2年[1248])冬至小参...於永平寺冬至小参(令和5年度版)
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)は以前【『永平広録』敷衍の様子】という記事でも書いた通りで、道元禅師の語録である『永平広録』の参究を行い、更に周囲の僧達に提唱までしていた様子が明らかにしたが、面山禅師が編まれた『永平祖師家訓綱要(以下『永平家訓』と略記)』(上下巻)という文献がある。これは、『永平広録』を以下の八章に分けて本文を抽出したものである。各章のタイトルと、簡単な解説を付しておきたい。・第一発心出家訓『永平広録』の中で、特に、「発心」そして「出家」に関わる小参・上堂語を集めたものである。発菩提心の難得なる様子や、無上菩提を学ぶということの方法、或いは道心について説かれている。・第二仏祖正宗訓仏法について示された上堂語を中心に集められ、さらにそれが、祖師方によってどのように伝えられ...面山瑞方禅師『永平祖師家訓綱要』と体系的宗乗
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)には、多くの著作が残されたが、生前に刊行されなかった文献や、上堂語・法語・詩偈などを集めて死後に刊行されたのが、『永福面山和尚広録』(全26巻)である。そして、第26巻には面山禅師の年譜が収録されているが、今日はそこから、面山禅師によって、当時の宗侶に対し、如何にして『永平広録』が説かれていたかを見ておきたい。理由は、現代に於いても『永平広録』の敷衍は十全とはいえず、在家の方に対しては、市場に幾つかの書籍が見られるくらいで、宗侶向けの専門書もまだ揃わない状況である。よって、今から250年近く前に、どのように学ばれていたのか、その一端を見て行きたい。なお、面山禅師には『永平広録』の上堂語や小参などを適宜抽出して、更に分類を行った『永平家訓綱要』(上下巻)とい...『永平広録』敷衍の様子
なんとも凄い話だが、インド人は二桁×二桁の暗算を容易にこなすそうである。やはり、数字について、暗算で扱えるレベルが違っているのだろう。それとも、訓練の成果だろうか?そこで、道元禅師の説法に見える「かけ算」について見ていきたいと思う。冬至小参に云く。古徳道く「九九八十一、人の能く算の解する無し。両箇五百文、元来是れ壱貫」と。『永平広録』巻8-小参4このように、引用文ではあるが、9×9=81という計算を明らかに説法に利用されている(多くの禅語録には、五五二十五、六六三十六、七七四十九、他がある)。これは、“掛け合わされる”ということが、縁起の様子で「思った以上に数字が増えても、実はその内容は同じ」様子を明らかにしている。かけ算はあくまでも法の様子であり、この世の諸現象は、様々な変異があるけれども、それは諸法実...道元禅師の説法に見える「かけ算」