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実世界にも先行研究があるところなので、これはあくまでも拙僧なりの備忘録である。拙僧の想いはここまで進んだが、これは道元禅師の教えを見るに付け混乱に変わったのである。確かに、仏と祖師を分けること、これ自体は特記すべき優位性がない考えだが、しかし用いなくて良いとも限らないし、晩年の道元禅師は「仏祖一体論」から「祖師の自覚」へと論点を変更したように思われる。しかあれば六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。『正法眼蔵』「仏性」巻この一文が何故道元禅師独自の「仏祖一体論」になる理由だが、ここで引用されている「明明百草頭、明明仏祖意」は龐居士の言葉であるとされ、しかも本来は「明明百草頭、明明祖師意」なのである。しかし道元禅師は祖師を敢えて「仏祖」と書き直した。こうすることで、祖仏一体を明らかにしよう...道元禅師に於ける仏祖の一体論と各別論