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『浄土布薩式』「大科第十二 証明」(『浄土布薩式』参究27)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第十二証明」の項目を学んでいきたい。大科第十二に証明と云は、仰で十方諸仏に啓す、娑婆世界、一四天下、南閻浮提、大日本国、大乗有縁の処、某の道、某国、某の郡、其の郷、其の村、其の里、其の仏像前にして、信心乞戒の受者有り、理事頓教の真戒を受け畢て、我等以て証明尊と為る。請ひ願くは、諸仏証明大善知識と為りたまへ。『続浄土宗全書』巻15・82頁、訓読は原典に従いつつ拙僧証明とは、受戒したことを証明してもらうことだが、声聞戒であれば「七証」に位置付けられる比丘によって行われた。大乗仏教では理念的な仏・菩薩によって証明されており、以上の文章でも、十方諸仏によって証明されたことが分かる。気になるの...『浄土布薩式』「大科第十二証明」(『浄土布薩式』参究27)
拙僧の手元に、『〈密宗必須〉三聚戒本』(東京書林山口屋佐七版、明治13年以降)という冊子があるのだが、内容は『梵網経』『瑜伽戒本』『根本説一切有部戒経』の3種の戒本を収録したもので、「密宗必須」とある通り、日本の真言宗で用いたもののようである。以前、【「摂律儀略頌」について】という記事を書いたが、その続きで、「三聚浄戒総頌」が収録されているので、見ておきたい。三聚浄戒総頌律儀は断徳にして法身を成ず。摂善は智徳にして報身を成ず。饒益は恩徳にして応身を得る。因りて三聚と名づけ、果は三徳なり。原典に随って訓読非常に、端的な内容の偈頌である。要するに、「三聚浄戒」と「三徳」だと説明しているのである。では、その「三徳」とは一体何なのか?それで、「三徳」について説明しているのは、世親『摂大乗論釈』であり、以下のように...「三聚浄戒総頌」について
これは、中世の臨済宗で用いていた得度作法の1つである。16世紀中頃に成立した『諸回向清規』巻5に「戒法之品次(以下、「品次」と略記)」として収録されている。それで、宗門の得度作法と比べてみると一目瞭然だが、この作法は瑩山紹瑾禅師が弟子であった臨済宗法灯派の孤峰覚明に元亨4年(1324)に授けた『出家得度略作法(以下、『略作法』と略記)』にほぼ相当している。この記事では両者の違いについて述べることとしたい。ただし、細かな文言の違いについては、余程の思想的有意味性が確認されなければ省略する。それで、まず記述上の大きな違いといえば、「三衣」の授与であろうか。『略作法』では「剃髪・授坐具・授袈裟」と進み、「授袈裟」では「九条衣」を授けて、「搭袈裟偈」となるけれども、「品次」では「五条・七条・九条」と進むようになっ...『諸回向清規』巻5「戒法之品次」について
『浄土布薩式』「大科第十一 正受戒」②(『浄土布薩式』参究23)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第十一正受戒」の項目を学んでいきたい。大科第十一正受戒然るに釈迦牟尼仏、如上の諸仏相承の戒を以て、文殊師利菩薩の請に赴き、本妙一心の戒を授く。然して後、文殊師利、後魏の代に逮んで、五台山真容院に於いて、三蔵法師菩提流支に授く。菩提流支は北斉曇鸞菩薩に授く。曇鸞菩薩は、玄忠寺道綽禅師に授く。道綽禅師は、光明院の善導禅師に授く。善導は夢中に、日本華洛に来て、沙門源空に授く。『続浄土宗全書』巻15・80頁、訓読は原典に従いつつ拙僧ここからは、前回の記事で採り上げた「一心本妙の戒」「相伝戒」「発得現前功徳の戒」については、相互に関係性がある、或いは、次第に展開していくのかもしれない。その様子...『浄土布薩式』「大科第十一正受戒」②(『浄土布薩式』参究23)
こういった教え、これまで余り気にしていなかった感じがしたので、採り上げてみる。夫れ、菩提心を発して菩薩戒を受けざるは、則ち三世諸仏入仏道の基本に背く。面山瑞方禅師『永平家訓綱要』「序」確かに、菩提心を発したのであれば、菩薩戒を受けないのは、入仏道の基本に背くなぁと思った。それで、こんな当たり前のことに、何故思いが至らなかったのか?について考えてみた。いや、個人的にこういう流れが無いという話では無い。拙僧どもはありがたいことに、出家する際には受業師から、伝法する際に本師から、それぞれ菩薩戒を伝授する。菩提心についても、古来の祖師と比べてどうなのか?という指摘があるかもしれないが、まぁ、僧侶としてやっていこうという覚悟を決めた段階で、或る種の菩提心の発露だと思っている。よって、問題はここにあるのではない。実は...菩提心と菩薩戒の関係について
拙僧的に、いつも疑問に思うことがあって、それが『正法眼蔵』「渓声山色」巻の以下の説示である。居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。「渓声山色」巻ここで、蘇東坡居士は、仏印禅師から「法衣・仏戒」などを授けられたという。この時授けられた「戒」とは、一体何だったのであろうか?しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。「袈裟功徳」巻12巻本『正法眼蔵』に分類される同巻に於いては、同じような文脈で、やはり「袈裟の受持」と「受菩薩戒」を説いている。気になるのは...この仏戒・菩薩戒は何だったのか?
『浄土布薩式』「大科第十一 正授戒」①(『浄土布薩式』参究22)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第十一正授戒」の項目を学んでいきたい。なお、かなり長いので、数回に分けて学ぶこととする。大科第十一正受戒と云は、戒に付て、三種の不同有、一は一心本妙の戒、即ち色空兼ねて含むの大戒なり、是れ即ち後に釈するが如し、二は相伝戒、即ち過去の諸仏より、今日現前の師に至るまで、代々断絶せず、相続連持の戒、是れなり、三は発得現前功徳の戒、是れなり、亦た相伝戒とは、曠劫より已来た、諸仏相続して絶えずと雖も、頓に記するに遑あらず、今略して十仏の相承を記するのみ、第一最勝蓮華仏〈過去荘厳劫第九百九十五の尊〉第二弗沙仏〈荘厳劫第九百九十六の尊〉第三提舎仏〈荘厳劫第九百九十七の尊〉第四毘婆尸仏〈荘厳劫第九百...『浄土布薩式』「大科第十一正授戒」①(『浄土布薩式』参究22)
『浄土布薩式』「大科第十 請師」⑤(『浄土布薩式』参究21)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第十請師」の項目を学んでいきたい。大科第十請師五に十方一切化成等覚の諸大菩薩を請し奉る、我が為めに受戒同学の等侶と成り玉へ、吾れ上聖の同学等侶に依る故に、頓教一乗の心戒を受けることを得、等侶哀愍の故に、来て梵壇に入り、一乗真戒を授与し玉ふ、是の故に吾等須く礼すること一拝すべし〈須く十方の諸大菩薩の足下に礼するの念に住すべし〉。私に曰く、既に請師畢て、小乗の三師七証を合して以て十律師の行なり。然るに、今大乗の心は、設ひ現前の師なりと雖も、崛を致して泥む、諸大菩薩更に其の請に泥むべからず、故に聖師に請し奉り、受戒を請すべきなり。『続浄土宗全書』巻15・79頁、訓読は原典に従いつつ拙僧なお...『浄土布薩式』「大科第十請師」⑤(『浄土布薩式』参究21)
以前、「菩薩戒牒」という名前の、一枚の紙を入手した。要するに、菩薩戒を授与した際に授けられた書類のようだが、例えば曹洞宗で授ける『血脈』などとは、書式が完全に違っている。そこで、その内容を見てみたい。大乗菩薩毘奈耶蔵有三聚浄戒第一摂律儀戒出家在家七衆所受別解脱戒第二摂善法戒為大菩提由身語意積集諸善第三摂衆生戒布施愛語利行同事摂化衆生若諸菩薩自讃毀他是名第一他勝処法若諸菩薩慳財不施是名第二他勝処法若諸菩薩長養忿恨是名第三他勝処法若諸菩薩謗正法蔵是名第四他勝処法是名菩薩四種重禁此余軽罪広故今略具如戒経授与○○菩薩伝戒苾芻大阿闍梨耶○○以上である。内容は、三聚浄戒と「四種他勝処法」について集めたものである。なお、「四種他勝処法」については、【『瑜伽師地論』に見える四種他勝処法について】の記事で採り上げた通りであ...「大乗菩薩毘奈耶蔵有三聚浄戒」について
『浄土布薩式』「大科第十 請師」③(『浄土布薩式』参究19)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第十請師」の項目を学んでいきたい。大科第十請師三に都率天の四十九重の摩尼宝殿、弥勒菩薩を請し奉る。我の為めに教授阿闍梨と成りたまへ。吾れ教授に依る故に、浄土頓教の妙戒を受ことを得、弥勒哀愍の故に、来て戒壇に入り、頓教一乗の戒を授与したまふ。是の故に吾等至誠に礼すること一拝すべし〈矣、慈氏菩薩の足下を礼する念を作すべし〉。『続浄土宗全書』巻15・79頁、訓読は原典に従いつつ拙僧なお、この「請師」項だが、全体で五段になっている。よって、記事1回で一段ごと検討してみたい。3番目は兜卒天にいる弥勒菩薩である。こちらも菩薩戒授与に於いては文殊と並んで「教授阿闍梨」となってくれる。それにしても、...『浄土布薩式』「大科第十請師」③(『浄土布薩式』参究19)
以下の指摘を読んで、なるほどと感じた。『菩薩瓔珞本業経』は菩薩の修行階位説や戒律観などに特徴が見られるが、そのうち菩薩戒に関して、三聚浄戒(上述四節)の内、律儀戒とは十波羅夷(梵網経の説)であるという、きわめて特徴的な見解を本経は主張している。ところで素材とされた『梵網経』には専ら十重四十八軽戒が説かれ、三聚浄戒に対する言及はない。従って『菩薩瓔珞本業経』の説く菩薩戒では、既に声聞戒を受けていることが菩薩戒を受ける前提とはならないことになる。言い換えれば、以前に在家の五戒や具足戒を受けたことがなかった者が菩薩戒だけを受けることも理論上は可能なのである。船山徹先生『六朝隋唐仏教展開史』(法蔵館・2019年)235~236頁これが何を意味しているかといえば、例えば、菩薩戒を説いた『大般涅槃経』では次のような指...菩薩戒単受の淵源は『瓔珞経』らしい・・・
以下の一節をご覧いただきたい。戒を受ける主体が仏であることは、菩薩戒の特徴の一つである。というのも、一般に、声聞乗における通常の受戒儀礼の場合は、戒は比丘から授けられるのが原則であり、このように他の修行者を介して戒を受ける方法は従他受戒と通称される。この受戒法は、いわゆる師資相承の系譜を遡ると、釈迦牟尼仏にまで連綿と繋がる点が重要である。間接的にではあるが、釈迦牟尼仏の制定した戒律を代々受け継ぐという性格がある。一方、菩薩戒においては、瞑想や夢の中に釈迦牟尼仏や他の仏や菩薩が現れ、かかる仏や菩薩から直接に戒を授かるという場合がある。この受戒は、仏や菩薩に菩薩の誓願を自ら表明することによって実現するため、しばしば自誓受戒と呼ばれる。船山徹先生『六朝隋唐仏教展開史』法蔵館・2019年、251頁確かに菩薩戒は人...「菩薩戒」とは誰から受けるのか?
或る記事を頼まれて書いていた時、或る一文を読んだ感想を記事にしておきたい。宝治元年八月三日、鎌倉御下向之事。西明寺殿、法名道宗(崇)、依被請申、御下向、やがて受菩薩戒給う、其外之道俗男女、受戒の衆、不知数と云々。『建撕記』これは、古写本系統の『建撕記』の1本を引用したものである。それで、何が書いてあるかというと、道元禅師が宝治元年(1247)8月3日に鎌倉に行化されたのだが、その依頼者である北条時頼(最明寺[西明寺]殿)と会談し、やがて(すぐに)菩薩戒を授けられたとし、他にも、僧侶や在家者の男女が、道元禅師から授戒されたというのである。まぁ、優れた僧侶が近くにおられれば、授戒を希望されるというのは当時よくある話なので、この記述自体には何の違和感も無い。それまで、授戒されるのは貴族が中心だったような気もする...道元禅師が北条時頼に授けた戒
江戸時代の学僧・指月慧印禅師は、十六条戒を組織的に理解しようとしていた。戒次一切平等の法、能く次第を作す。蓋し厥の初め、信解立ちて三帰出づ。三帰出でて三聚見る。三聚見るが故に十戒乃ち成る。乃ち十戒大成するに迨び、諸戒の相総て見ゆ。此の中の次第、明鏡面の如し。思惟を用いず、信を立て、帰を象り、聚を備え、十に止まる。而して十の模、三聚に在り。聚の体、三帰に会す。是の如く、向下通利、向上会帰なり。次の不次、不次の次、先ず仏、是の如く伝え、仏の如く祖も亦然り。祖の如く今亦順ず。夫れ唯だ順ずべし、以て伝脈と為す。『禅戒篇』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・239頁上段、訓読は拙僧この一節の前提となっているのは、最初の1行である。つまり、一切平等の法であるけれども、よく次第をなすということである。平等でありながら、次第が自...十六条戒の組織的理解について(1)
次の御垂示を拝する機会を得た。十六条戒の内、三帰戒は正信門で、この三聚戒は誓願門で、次の十重禁戒は修行門と見ることが出来ます。而して十六条戒はもともと一心の三門なれば、別々に離して述べられる訳のものではないが、解り易くする為に、暫く分けて御話して見ませう。秦慧昭禅師『仏戒大意』大本山永平寺不老閣・昭和55年、42頁なお、拙僧の手元にあるのは昭和55年の改訂版であるが、初版は昭和10年であった。内容としては、大本山永平寺68世・秦慧昭禅師が説かれた説戒の記録である。仏祖正伝の受戒・授戒会について、その大意を示されたものであった。さて、今回参究しておきたいのは、十六条戒の構造的理解についてである。ただし、拙僧自身の不勉強があって、このような構造的理解について、他の典拠を見出していない。三帰・三聚浄戒・十重禁戒...十六条戒の構造的理解について
『浄土布薩式』「大科第九 入壇受戒」(『浄土布薩式』参究18)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第九入壇受戒」の項目を学んでいきたい。大科第九に入壇受戒、私に云く、普天の下、率土の上、王地に非ざること莫し、此の県何ぞ王地に非らん。然は、則尽大地、皆王地なり。普く国土、悉く仏土なり。其の中に此の地、何ぞ戒壇に非らん。是故に戒壇に登るの念に住し、衆生等く重んじて思ふべし。我等曠劫より已来、三界の中に流転して、未だ六道の衢を出でず。今日始て釈迦遺法の弟子の戒和上に逢値す、即ち如来の在世に同くして、悲喜交流し、涙を双袖に流し、前は父母の肉親より生じ、今は無漏の戒壇より生ず。是を名て比丘の二生と為す。即ち是、真の仏子なり。『続浄土宗全書』巻15・78頁、訓読は原典に従いつつ拙僧いわゆる「...『浄土布薩式』「大科第九入壇受戒」(『浄土布薩式』参究18)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第八懺悔」の項目を学んでいきたい。大科第八懺悔とは、前の所造を悔ゆ、後の所起を伏す、前後倶に断じて、永く罪を作らず、師は先づ頌を説く、受者次に唱ふ。其の頌に曰く、往昔し造る所の五逆の罪、四重謗法一切の悪、至心受戒刹那の頃に、軽重倶に滅して更に余無らん。『続浄土宗全書』巻15・78頁、訓読は原典に従いつつ拙僧懺悔である。大乗仏教であれば、懺悔は受戒の前に行われるのだが、その基本は既に作ってしまった罪を悔い、今後はそういったことを起こさないように願うことが大切である。そして、懺悔については、師僧が偈頌を唱え、受者がそれを受けて唱えるという。その内容だが、「かつての昔に作った五逆の罪、四重...『浄土布薩式』「大科第八懺悔」(『浄土布薩式』参究17)
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師には、いくつかのまとめられた説戒録が残されているけれども、最晩年の説戒録として知られているのが、「肥後求麻永國寺満戒普説」である。これは、現在の熊本県人吉市内にある永国寺さまにて行われた授戒会に随喜された面山禅師の説戒録になる。同寺にて説戒を行った経緯は、『年譜』の以下の文章から知られる。明和4年(1767)師85歳十一月肥後球麻永国寺円髄力生至りて、師を来夏の結制に請う。師、諾す。明和5年(1768)師86歳二月二十三日京より発して、肥後永国寺結制の請に赴く。三月二十三日を以て到る。制中に、『金剛経纂要』及び『参同契吹唱』を開示し、且つ戒会を開く。得戒者、二百三十五人。事畢りて、五月二十八日を以て求麻を発し、六月二十五日を以て京に入り、直ちに建仁西来院に寓す。このようにあって...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」(1)
『浄土布薩式』「大科第七 問遮」⑦(『浄土布薩式』参究15)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、以前の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)六には、羯磨転法輪僧を破るや、否や。答えて曰く、否なり。私に云く、羯磨転法輪僧と云うは、転は能説の語なり。法輪と云うは、所説の法なり。或いは口説、或いは身説、機に随て皆証益を蒙る、既に説法して、他をして得益せしむる僧、之を殺すの罪は、仏の生身を殺すに同じ、豈に此の罪、輙く滅せんや。若し其...『浄土布薩式』「大科第七問遮」⑦(『浄土布薩式』参究15)
『浄土布薩式』「大科第七 問遮」⑥(『浄土布薩式』参究14)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、以前の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)五には、阿闍梨を殺さざるや、否や。答えて曰く、否なり。私に云く、阿闍梨と云は、西天の正音なり。此には名て軌範師と為す。此れは授戒の師なり。謂く和上阿闍梨。又、教授師有り、此れ威儀を教るの師なり。此の三人をば、三師と名く。七人は証誡なり。故に合して十律師と云なり。又、上座有り、小乗律には賓...『浄土布薩式』「大科第七問遮」⑥(『浄土布薩式』参究14)
『浄土布薩式』「大科第七 問遮」④(『浄土布薩式』参究11)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、前回の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)三には、母を殺さざるや否や。答えて曰く、否なり。私に曰く、母は是れ犯位と為して有名と云ふ。老子の曰く、有名は万物の母たり。註に曰く、万物の母と云は、天地、気を合して万物を生じ、長大成就すること、母の子を養ふが如きなり。曠劫難得の人身を受ること、母の縁に因まずんばあるべからず。設ひ生の後、...『浄土布薩式』「大科第七問遮」④(『浄土布薩式』参究11)
仏と菩薩、仏教に於ける宗教的価値は当然異なっていて、その名を冠する戒の「仏戒」と「菩薩戒」についても、意味合いが違うのか?と思うのは、当然であると思うが、小生が習ってきた限りでは、同じ意味なのだという。それを前提に幾つか考えてみると、例えば道元禅師には『正法眼蔵』に於いて、両語について以下のような用例がある。【仏戒】・居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。「渓声山色」巻・在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。「伝衣」巻・もし諸仏いまだ聴許しましまさざるには、鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられざるなり。「出家」巻・正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。仏戒を受持せざる仏祖、あるべからざるなり。・いま仏仏祖祖...仏戒と菩薩戒について
ちょっと気になったので記事にしてみたい。実は、拙僧はこの両方の語句を混同して用いていた。考えてみれば、どちらが「正しい」といったような確認を怠っていたことに気付いた。そこで、今日はその辺を考えてみたい。まず、この語句については中国禅宗六祖慧能禅師(638~713)に由来すると思われる。韶州刺史韋拠請し、大梵寺に於いて妙法輪を転じ、并びに無相心地戒を受く。門人紀録し目けて壇経と為し、盛んに世に行わる。『景徳伝灯録』巻5「曹渓慧能禅師章」ここに、「無相心地戒」という表現が見えており、一方で、「心地無相戒」は無い。よって、古い表現は「無相心地戒」であったことが分かる。しかし、一般的に見られる『六祖壇経』を確認すると、慧能禅師は先に挙げた用語は勿論のこと、「心地戒」「無相戒」ともども用いていない。慧能禅師の言葉と...心地無相戒?無相心地戒?
今日も備忘録的な記事である。それで、以下は余り長くない記事である。宗門の古い形の「戒脈」として知られているのは、道元禅師が授けたという『授理観戒脈』及び『授覚心戒脈』が知られている。両者ともに現存している状況をかいつまんで説明しておきたい(春秋社『道元禅師全集』第7巻の解題を参照している)。・『授理観戒脈』⇒原本は散逸していて伝わらないけれども、永平寺で『三国伝灯菩薩戒血脈』と呼称されている。理観は、詳しいことは知られないけれども、道元禅師が敢えて、菩薩戒を明全和尚から授かったことを示しつつ臨済宗黄竜派・天台宗(ともに栄西禅師系)の戒脈が合揉されたものを授けられた。識語からすれば、文暦2年(1235)8月15日であり、思想的な内容については、「舎那七仏・三師の脈」とある。「舎那七仏」とは『梵網経』の思想的...「出家得度」における『戒脈』の意義
修行中に疾病にかかったらどうなるのか?古来から禅宗では「延寿堂」という制度があった。延寿堂の病僧の粥飯・牀帳・行者の類を使わしめ、並びに当に堂主と与に同じく共に照管し、病人をして失する所無からしめよ。『永平寺知事清規』「維那」項このように、道元禅師の僧団には「延寿堂」が存在していた。これは、病気になった僧が居る場所であり、修行が出来なくなった者を一時的に保護するための施設でもある。現代であれば、いたずらに叢林内に置かずに、病院に置くべきだという見解もあるし、それは事実そうあるべきなのだろうが、しかし、一応古来は「延寿堂」が置かれた。この場所について、道元禅師の時代よりも更に古い時代に編まれた『禅苑清規』所収で、百丈懐海禅師の古意を集めたとされる「百丈規縄頌」では、以下のように示される。疾病して三日を経れば...延寿堂という制度
江戸時代末期に『伝光録』を開版した勝躅が知られる仏洲仙英禅師(1794~1864)の語録を詳しく読んでいた。その中に、『血脈讃題』という一節を見付けたので参究してみたい。血脈讃題仏仏の血脈、祖祖の肝腸。独尊の慧命、至聖道場。群生の帰処、含霊の本郷。心身の現在、相好著明。大意的的、体露堂堂。一面三世、箇裏十方。正法の符信、永代の紀綱。嫡嫡要を伝え、灯灯〈光を列す。芳を聯ぬ〉。過現未を通じ、已今当を貫く。高下平等、始終真常。恒沙の経数、八万の法蔵。周囲重畳、讃揚罄くし叵し。『円成始祖老人語録(巻中)』、『曹洞宗全書』「拾遺」巻、137頁下段、訓読は拙僧四言の古詩による讃ということになるが、平声・下七陽にて韻が踏まれている。内容としては、まず間違いなく、具体的な『血脈』の讃であるといえよう。意義としては、次のよ...或る学僧の『血脈讃題』
以前、拙ブログで紹介した箇所だけれども、栄西禅師の『興禅護国論』には、常に自戒の範とすべき一文がある。『大智度論』に云く「自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」と。「世人決疑門第三」これは、『大智度論』から引用されたものであり、該当箇所は「初品第二」になる。いわば、『大般若経』の「如是」という語への註釈が示された箇所に該当している。そして、栄西禅師は偈を引用しただけだが、その前後の文脈をも引用すると以下のようになる。復た次に、一切の諸の外道の出家は、心に「我が法は微妙にして、第一清浄なり」と念えり。是の如くの人、自ら所行の法を歎じ、他人の法を毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種々無量の苦を受く。偈に説くが如し。自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の...『大智度論』の「自法供養」批判について
今日は11月2日である。ところで、元亨元年(1321)にこんな出来事があったとされる。元亨元年〈辛酉〉本願の主、海野三郎〈信濃国に住す〉滋野信直、十一月二日、受戒して法名は妙浄とす。『洞谷記』海野三郎とは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師に、永光寺を建てるべき土地を寄進した女性(黙譜祖忍尼)の夫である。元々妻が信心深く、夫も続けて瑩山禅師の下で授戒し、仏縁を繋いでいる。『洞谷記』を見ると、この夫妻が熱心に瑩山禅師にお仕えする様子が分かるが、瑩山禅師も可能な限りこの夫妻の願いを叶えるべく御尽力された。無論、その願いとは、現当二世を祈ることであり、菩提を得ることこそがその願いになるが、この夫婦を以下のように讃えたこともある。然る間、瑩山の今生の仏法修行は、此の檀越の信心に依って成就す。故に尽未来際、此を以て本願主の...11月2日或る人の受戒
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、前回の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今回からはその一々の項目について学んでいく。大科第七問遮(続き)七定業とは、一は、悪心出仏身血の罪、戒師、受者に問うて曰く、汝等、過去無数劫より、乃至今身まで、仏身生身より血を出さざるや、否や。答えて曰く、否なり。私に問うて曰く、出仏身血の罪は、如来の在世に限る。末代には之れ有るべからず。何等の罪を以てか、之の罪に同ぜんや。答えて曰く、仏宝に就...『浄土布薩式』「大科第七問遮」②(『浄土布薩式』参究9)
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。禅宗では、安名について決して超越的な「われ関せず」の態度をとっていない。寺といわず、僧といわず、俗といわず、その名前を安ずることについては、慎重に考慮し、等閑にしないということについて、永平道元禅師の安名の史実を探ってみることにする。〈中略〉北条時頼の仏教名の道崇は、道元禅師が授けられたものであるともいわれており、〈中略〉これが史実に合致するかどうか知らないが、〈中略〉北条時頼が天下の政道に携わりつつ道を道崇する、その宗教精神を重んじて、道崇とつけられたものであろう。道は、道元の道の字を授けられたものともいわれている。永久岳水先生『曹洞宗法名・戒名の選び方』国書刊行会・平成15年、14~15頁永久先生は、『正法眼蔵』の書誌学的研究や、室内学研究で知られているが、その一...道元禅師の安名観について
江戸時代、曹洞宗では乱灯を改めんがため、幕府寺社奉行を巻き込んだ運動が行われ、それは「宗統復古運動」として知られており、その後、曹洞宗の寺院相続法は、様変わりした。結果的にその後また変更され、現状の相続法があるが、江戸時代の中間的状況について書かれた文献を紹介したい。一師印証の正法、遂に以て古に復し、粤を以て中古の、院に因って嗣を換え、屡ば本師を捨てるの弊、扶桑に一時止む。既に、自法を以て、他山に住し、則ち他山開祖の法孫、暫く断絶するに似たり。所以に、重ねて他山開祖の戒脈・大事の二物を嗣ぐ。之を重受と名づく。之を伽藍相続と号す。蓋し、仏在世の重受戒に擬する者か。然りと雖も、いわゆる他山開祖の法孫、亦移って、他山に住す。則ちここに嗣いで彼に住して、彼に嗣いでここに住する。各々土地の縁に任す。法法連綿にして、...江戸時代「宗統復古運動」後の伽藍相続法
臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓...江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について
『洞上規縄』とは、江戸深川増林寺に住持していた寂堂呑空禅師(生没年不詳)が、『永平清規』の『弁道法』及び『赴粥飯法』に拠って、叢林に於ける日分行持の弁道の規矩・規縄を記した文献である。享保18年(1733)に刊行された。今日はその一節を学んでみたい。いわゆる仏法僧を求めず、福智知解等を求めず、垢浄情尽も亦、此の無求を守りて是と為さず。亦、尽処に住せず、乃至、河沙戒定慧門無漏解脱、都て未だ一毫にも渉らず在る等は、此れは是れ大小僧衆の受戒護戒、日夜進取的の規式なり。『洞上規縄』「附録」問題は、最後の「受戒護戒」の話である。ここでは、いわゆるあらゆる事象への「不求・無求」を前提にしつつ、そこにも安住をしないで、戒定慧などにも拘らない様子こそが、「大小僧衆の受戒護戒」であるとしているのである。一見すると、何を示そ...『洞上規縄』に見る受戒護戒の問題について
禅僧にとって、戒法とは何だったのだろうか?このような見解がある。今この戒を仏祖正伝ととけば、戒法をいやがる禅宗僧の云様は、禅宗は悟りの宗旨なれば、なにの戒法と云ことがあるべきと、亦書冊のはしのよめる僧は、其上に証拠を引て云は、伝灯録及び諸家の録にも、授戒と云ことは見へず、後人の初めたることと云、これ大邪見、愚妄の至なり。面山瑞方禅師『若州永福和尚説戒』(宝暦9年版)乾巻・2丁表、カナをかなにするなど見易く改めるこの説示を見て、拙僧は今でも同じなのではないか?と思うようになった。いや、この見解が現代の現場にまで反映しているのかもしれない、ということだ。しかし、何故、禅宗の悟りと、戒法とが対立するのだろうか?拙僧にはそれが解せない。例えば、道元禅師は禅の悟りと、釈尊の教えとが矛盾しないことを論じている。或いは...禅僧にとっての戒法
「講戒」という作法がある。詳しいことについて、拙僧はよく分かっていない。多分、今はそれが残っていない(のかどうかもよく分からない。説戒のことではない)からなのかもしれないが、それで、定義というか、典拠というか、基本は以下の文脈で知られる。講戒と受戒とは、その儀、別なり。これを詳らかにする者、少かなり。何に況んや大僧菩薩の戒相、これを明かにする者、多からず。今、撰する所は、講戒の流なり。しかも菩薩戒の儀式、これを伝授する者、稀なり。今、聊か略作法を存して、受授の儀を示す。諸の阿笈摩教、及び諸の教家に云うところと同じからず。若し、この儀によって受授すべくんば、得戒すべし。唐土・我朝、先代の人師、戒を釈するの時、詳しく菩薩の戒体を論ずるは、甚だ以て非なり。体を論ずる、その要、如何。如来世尊、唯だ戒の徳を説き、得...面山瑞方禅師が説く「講戒の流」について
実世界の研究でも丘宗潭老師による『教授戒文』提唱を学んだことがあったのだが、丘老師は禅戒論を論じるに当たり、ご自身が改正された万仭道坦禅師『仏祖正伝禅戒鈔』よりも、同じ万仭禅師による『禅戒本義』を尊重していることが分かった。それも含めて、『禅戒本義』自体を学んでみたいと思い、今日はこんな記事を書いてみようと思う。禅戒本義序戒学に幼くして戒師と作り、禅学に少くして禅師と称するは、古今の仏祖の呵する所、其の罪免るべからず。如来の在世、二歳の沙弥有り、一歳の弟子を将ち仏処に往く。仏、呵責して言わく、汝の身未だ乳を離れず。応に人の教授を受るべし、云何が人に教えんや、云云。吁、夫れ、戒学多般なり、今人何ぞ罄くさん、況んや亦禅戒は宗門の一大事、具眼底の舌頭在りても、輒く教授すべからず。古に曰く、説戒は仏法の大綱なり、...万仭道坦禅師『禅戒本義』序に見る苦言
拙僧の手元に、『〈密宗必須〉三聚戒本』という冊子があって、内容は『梵網経』『瑜伽戒本』『根本説一切有部戒経』の3種の戒本を収録したもので、「密宗必須」とある通り、日本の真言宗で用いたものである。そこで、その中に、「四十八軽戒略頌」が収録されていた。今日はその「偈頌」を見ておきたい。四十八軽戒略頌前の三十戒は摂善法なり。末の十八戒は摂衆生なり。是を梵網後二戒と名づく。原典に随って訓読以上である。これは、『梵網経』の「四十八軽戒」について、前後に区分し、更にその意義付けを行ったものである。それで、この「略頌」であるが、典拠は新羅・義寂による『菩薩戒本疏』巻下之本に「又四十八中、前の三十戒、多く摂善と為す。後の十八戒、多く利生と為すなり」とあることに由来するようである。そこで、「四十八軽戒」を前三十、後十八に分...「四十八軽戒略頌」について
『浄土布薩式』「大科第六 受者発心」(『浄土布薩式』参究7)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくが、今回は「大科第六」の項目を学んでいきたい。ところで、一応「受者発心」というタイトルにしたが、以下の通り項目は「発心偈」というべき偈文を、随喜衆一同で唱えるところから始まる。大科第六受者発心諸衆、同じく唱えて云うべし、我等今身に善縁に遇い、能く隔時の菩提心を発し、一切の持破信不信、同く極楽に生じて三忍を得ん。今、菩提心を発すに就いて、即ち二種有り、一には直成の菩提心、即ち此の娑婆濁刹の中に於いて、直に無上仏果を成せんと求むの心なり。二には隔時の菩提心、則ち直成の修業に堪えざるが故に穢土を厭ひ、浄土を欣む。凡身を捨て、聖身を得て、二土を分かち、隔時隔念の得益を求むるが故に、隔時隔土の菩提心と名くるなり。...『浄土布薩式』「大科第六受者発心」(『浄土布薩式』参究7)
或る文献を読んでいたら、『地獄経』という経典からの引用があった。ちょっと良く分からない経典だったので、採り上げてみたいと思った。参考までに、その引用文とは、以下の通りである。地獄経に云わく、衆生有り、蹇吃瘖瘂にして、口、言うこと能わず。若し説く所有りて、目を閉じ、手を挙げても乃ち言い了らず。何の罪ありて致す所なりや。仏言わく、前世の時に三宝を誹謗し、聖道を軽毀し、他の好悪を論じ、人の短長を求め、強いて良善を誣ひ、聖人を憎嫉するに坐せらるを以てなり。『仏祖正伝禅戒鈔』「第十不謗三宝戒」・・・良い文章では無いな。前世の問題を元に、現状の問題を論じる方法は、「悪しき業論」と呼ばれ、明らかに人権問題を含み、場合によっては霊感商法などを助長する可能性がある。よって、上記内容を元に、更なる人権問題の発生などが無いよう...じ、『地獄経』?!(令和5年度「裏盆」の学び2)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第五」の項目を学んでいきたい。ところで、一応「発願」というタイトルにしたが、以下の通り項目は「維那、金を鳴らし」から始まる。しかし、直後に「発願」と出ているので、その通りなのだろう。大科第五に、維那、金を鳴らし、大衆に告ぐ、合掌警念して発願して曰く、敬白、諸の仏子等、合掌至心して聴け、此れは是れ娑婆世界、一四天下、南閻浮提、大日本国、五畿七道の中、某の道、某の国、某の郡、某の郷、某の村、某の里、某の仏像前にして、我等、本師釈迦牟尼仏道法の弟子、在家・出家の菩薩なり。久しく生死の海に沈淪して、恒に六趣の苦を受く、此れ即ち如来の出世に遇わず、頓教一乗の戒を受けざるに依る。今生に若し厭離生死の心を...『浄土布薩式』「大科第五発願」(『浄土布薩式』参究6)
どうしても、現在の拙僧どもからすると、『梵網経』を重視してしまうことになるのだが、実際の菩薩戒の参究となると、『瑜伽師地論』(及び同論と同系統の各種訳本)を参照しなければ話にならないわけで、細々ではあるが、先行研究を含めて色々と見るようにしている。その上で、『瑜伽師地論』に於ける「四種他勝処法」を見ていくと、「菩薩戒」の位置付けが理解出来るように思う(先行研究として佐藤達玄先生『中国仏教における戒律の研究』木耳社・1986年、347~360頁参照)ので、その辺を見ておきたい。まず、「四種他勝処法」とは、以下の通りである。其れ四種他勝処法有り。何等とか四と為すや。若し諸菩薩、欲貪の為に利養恭敬を求めれば、自讃毀他す。是れを第一他勝処法と名づく。若し諸菩薩、資財有るを現すれば財を性慳するが故に、苦有り貧有り依...『瑜伽師地論』に見える四種他勝処法について
この記事は、【「三帰戒」という呼称について】の続編である。それで、拙僧が集めた資料の中に、「三帰戒」という項目があることを確認したので、それを学んでみたい。三帰戒汝等、帰戒を求めんと欲せば、先づ当に懺悔すべし。〈壱反〉我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。〈三反〉更に応に仏法僧の三宝に帰依すべし。〈一反〉南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。〈三反〉三帰戒を受くこと是の如し、今身より仏身に至る迄、此の事能く護持せよ。『日用行事書』写本、原典の訓点に従って訓読、漢字も現在通用のものに改めるこちらの『日用行事書』であるが、現在の愛知県内寺院で用いていたものだと判明している。なお、内容に甘雨為霖禅師(1786~187...「三帰戒」という呼称について(2)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、本書は冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。その中でも、大科の第四を紹介してみたい。大科第四焼香焼香竟て唱て云ふべし、願くは我身浄じて香炉の如く、願くは我心智慧の火の如く、念念に戒定香を焚焼して、十方三世の仏を供養したてまつる。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方そもそも、本式は広略両本があったとされる『浄土布薩式』の略本であるから、本文としては短い。だが、それでも、次の科からは、口訣や願文等が入ってくるため、かなり長くなってくる。上記の「焼香」の項目だが、香炉に香を焚く意義について、偈頌で述べられている。そして、調べたのだが、この偈頌には典拠があった。善導和尚の『法事讃』巻上である。これは、流石に適した典拠があったの...『浄土布薩式』「大科第四焼香」(『浄土布薩式』参究5)
中国禅宗六祖慧能禅師は難しい人である。何故ならば、未だ在家の身のままでその悟りを認められ、印可証明されてから、出家して大僧となったためである。そのため、六祖の出家をどう扱うかは、宗旨上1つの問題であった。曹渓六祖、優婆塞身を以て法性寺に寓せし時、印宗法師、為に其の髪を薙ぐ。寺主智光律師をして、比丘具足戒を授けしむ。祖、是れ多生の善知識、一切の戒法、自然に具足す。然るに印宗、告げる所に応じて化門の式成る。今時の一般の具足類に非ず。卍山道白禅師『対客閑話』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・5頁下段、訓読は拙僧江戸時代の学僧・卍山道白禅師の説示であるが、ここからは、卍山禅師の修証観なども伺うことが出来よう。まず、上記内容が何を意味しているかといえば、六祖は優婆塞=男性の在家信者の立場でもって、法性寺に入っていたが、時...六祖慧能禅師の出家に関する一解釈
「因脈会」の作法については、既に【(4)】で書いた通り、戒師による説戒の時に併修された「因脈授与」が原型となっているため、いわゆる「道場」とは扱われないことを指摘した。ただし、その記事では、授戒として何が授けられているのかを明かさなかった。それについて指摘された文献があるので、今日はそれを見ておきたい。下午説戒之節因縁血脈ノ願アラバ室侍寮江相届用意之上、説戒時戒師三帰戒アリ、尤毎日用意同断也、『増福山授戒直壇指南』、『曹洞宗全書』「清規」巻・789頁下段~790頁上段実はこれでしかなく、全体の流れは分かりにくい。上記から分かるのは、因縁血脈の依頼があった場合には、室侍寮が準備するということと、説戒の時に戒師が三帰戒を授けること、そして毎日行う可能性があるということである。それで、三帰戒と因縁血脈という取り...「因脈会作法」考(5)
以前にアップした【(3)】の記事を書いた時に漠然と思っていたのだが、そういえば因脈会に関しては、授戒・授脈の場面のことを「道場」とは称していない。・因脈授与「因脈会行持日鑑」、『昭和修訂曹洞宗行持軌範』316頁つまり、道場ではないのである。この辺、授戒会・法脈会では、以下の通りである。・正授道場「授戒会行持日鑑」、前掲同著・308頁・正授道場「法脈会行持日鑑」、前掲同著・315頁この通りであり、両作法とも「正授道場」となっているのである。ただし、「因脈授与」となっている先ほどの作法について、実態は以下の通りである。直僚(因脈係)は、受者を整列させて加行位に就かしめる。戒師は三鼓、大擂上殿。まず説戒、終わって懺悔文を唱えしめる。室侍長(あるいは随行長)、洒水を行う。次いで戒師は三帰、三聚、十重禁戒を授け血脈...「因脈会作法」考(4)
前回の記事については、【(2)】をご覧いただければ良いと思うのだが、少しく気付いたことがあったので、記事にしておきたい。雑考に近いかもしれない・・・それで、まず、「因脈会」の「因脈」は、「因縁血脈」の略だとはされるが、その典拠はどこにあるのだろうか?気になったので調べてみたが、曹洞宗宗務庁刊『授戒会の研究』に付録されている各種戒会加行表を見てみると、畔上楳仙禅師や石川素童禅師が示されたという戒会指南書には、当たり前のように用いられているので、明治期には一般的であったといえよう。そうなると、「因縁血脈」の使用はその前になるとは思っていたのだが、以下のような一節を見出した。又血脈ヲ受ルニ四通リノ次第アリマス、一ニハ長老以上ハ傳戒ト云、二ニハ自身ニ受ヲ正戒ト云、三ニハ授戒ニ付テモ此ノ道場ニ得入來ナク、代人ニテ受...「因脈会作法」考(3)
既に、【「因脈会作法」考】で見たように、現行の『行持軌範』に於ける「因脈会作法」は、授戒会⇒法脈会⇒因脈会と、本来の授戒会から次第に略されたものであるけれども、その略され方を通して、現行の因脈会がどのような戒学に裏打ちされているかを考察する。まず、「因脈会作法」とはどのような流れになっているか、簡単に確認しておきたい。そもそも、宗門が公式に「因脈会作法」を定めたのは、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』(昭和27年)であるが、以下のような説明となっている。概ね授戒会と同じ。唯、日時を短縮する。長さは四五日、短きは二三日或は一日とすることもある。又、月授戒と称して毎月一回(最後二日行ふ)修行することがある。因脈会には登壇並びに上堂は行はない。又、飯台を略して弁当持参とする。迎聖、歎仏、説教、施餓鬼、供養回向、説戒、読...「因脈会作法」考(2)
以前から、「因脈会作法」について、一言記事にしておきたかった。そもそも、宗門で「授戒会作法」を正式に軌範に組み込んだのは、昭和27年の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』からとなる。ところで、現行の『昭和修訂曹洞宗行持軌範』では、「授戒会作法」に関連して、以下の3つが立項されている。・授戒会作法(5~7日)・法脈会作法(3~4日)・因脈会作法(1日)それで、これが『昭和改訂』だと「授戒会作法」と「因脈会作法」しか、目次には載っていない。よって、「法脈会」というのは後で出来たのだと思っていたのだが、ちょっとした違和感を憶えていた。それは、『昭和修訂』に於ける説明文である。・おおむね、授戒会と同じであるが、期間は三日ないし四日とする。ただし法脈会においては、戒師の完戒上堂及び戒弟の登壇は行わない(完戒上堂になぞらえて小...「因脈会作法」考
曹洞宗の得度作法は、第二次世界大戦後の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』以降に、全宗派で統一された。無論、江戸時代には面山瑞方禅師が『永平祖師得度略作法』を刊行しているし、類似の刊行物は複数存在していたようである。明治時代になると、当時の曹洞宗務局からは『明治校訂洞上行持軌範』が公的な作法書として刊行されるに至り、また、民間の出版社からも、「回向集」の体裁で作法書が複数刊行された。しかし、それらには得度作法が入ることはなかった。やはり、授戒を含む同作法は、室内で伝授される扱いだったのであろう。ところで、明治時代に宗政や宗学振興に尽力された来馬琢道老師の『禅門宝鑑』(鴻盟社・明治44年)には、得度作法が記されている。そうなると、理想論としては室内で伝授されるべき作法だが、それが契わない宗侶にとっては、『禅門宝鑑』の...来馬琢道老師『禅門宝鑑』に見る得度作法について