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『浄土布薩式』「大科第七 問遮」⑦(『浄土布薩式』参究15)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、以前の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)六には、羯磨転法輪僧を破るや、否や。答えて曰く、否なり。私に云く、羯磨転法輪僧と云うは、転は能説の語なり。法輪と云うは、所説の法なり。或いは口説、或いは身説、機に随て皆証益を蒙る、既に説法して、他をして得益せしむる僧、之を殺すの罪は、仏の生身を殺すに同じ、豈に此の罪、輙く滅せんや。若し其...『浄土布薩式』「大科第七問遮」⑦(『浄土布薩式』参究15)
『浄土布薩式』「大科第七 問遮」⑥(『浄土布薩式』参究14)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、以前の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)五には、阿闍梨を殺さざるや、否や。答えて曰く、否なり。私に云く、阿闍梨と云は、西天の正音なり。此には名て軌範師と為す。此れは授戒の師なり。謂く和上阿闍梨。又、教授師有り、此れ威儀を教るの師なり。此の三人をば、三師と名く。七人は証誡なり。故に合して十律師と云なり。又、上座有り、小乗律には賓...『浄土布薩式』「大科第七問遮」⑥(『浄土布薩式』参究14)
『浄土布薩式』「大科第七 問遮」④(『浄土布薩式』参究11)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、前回の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)三には、母を殺さざるや否や。答えて曰く、否なり。私に曰く、母は是れ犯位と為して有名と云ふ。老子の曰く、有名は万物の母たり。註に曰く、万物の母と云は、天地、気を合して万物を生じ、長大成就すること、母の子を養ふが如きなり。曠劫難得の人身を受ること、母の縁に因まずんばあるべからず。設ひ生の後、...『浄土布薩式』「大科第七問遮」④(『浄土布薩式』参究11)
仏と菩薩、仏教に於ける宗教的価値は当然異なっていて、その名を冠する戒の「仏戒」と「菩薩戒」についても、意味合いが違うのか?と思うのは、当然であると思うが、小生が習ってきた限りでは、同じ意味なのだという。それを前提に幾つか考えてみると、例えば道元禅師には『正法眼蔵』に於いて、両語について以下のような用例がある。【仏戒】・居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。「渓声山色」巻・在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。「伝衣」巻・もし諸仏いまだ聴許しましまさざるには、鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられざるなり。「出家」巻・正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。仏戒を受持せざる仏祖、あるべからざるなり。・いま仏仏祖祖...仏戒と菩薩戒について
ちょっと気になったので記事にしてみたい。実は、拙僧はこの両方の語句を混同して用いていた。考えてみれば、どちらが「正しい」といったような確認を怠っていたことに気付いた。そこで、今日はその辺を考えてみたい。まず、この語句については中国禅宗六祖慧能禅師(638~713)に由来すると思われる。韶州刺史韋拠請し、大梵寺に於いて妙法輪を転じ、并びに無相心地戒を受く。門人紀録し目けて壇経と為し、盛んに世に行わる。『景徳伝灯録』巻5「曹渓慧能禅師章」ここに、「無相心地戒」という表現が見えており、一方で、「心地無相戒」は無い。よって、古い表現は「無相心地戒」であったことが分かる。しかし、一般的に見られる『六祖壇経』を確認すると、慧能禅師は先に挙げた用語は勿論のこと、「心地戒」「無相戒」ともども用いていない。慧能禅師の言葉と...心地無相戒?無相心地戒?
今日も備忘録的な記事である。それで、以下は余り長くない記事である。宗門の古い形の「戒脈」として知られているのは、道元禅師が授けたという『授理観戒脈』及び『授覚心戒脈』が知られている。両者ともに現存している状況をかいつまんで説明しておきたい(春秋社『道元禅師全集』第7巻の解題を参照している)。・『授理観戒脈』⇒原本は散逸していて伝わらないけれども、永平寺で『三国伝灯菩薩戒血脈』と呼称されている。理観は、詳しいことは知られないけれども、道元禅師が敢えて、菩薩戒を明全和尚から授かったことを示しつつ臨済宗黄竜派・天台宗(ともに栄西禅師系)の戒脈が合揉されたものを授けられた。識語からすれば、文暦2年(1235)8月15日であり、思想的な内容については、「舎那七仏・三師の脈」とある。「舎那七仏」とは『梵網経』の思想的...「出家得度」における『戒脈』の意義
修行中に疾病にかかったらどうなるのか?古来から禅宗では「延寿堂」という制度があった。延寿堂の病僧の粥飯・牀帳・行者の類を使わしめ、並びに当に堂主と与に同じく共に照管し、病人をして失する所無からしめよ。『永平寺知事清規』「維那」項このように、道元禅師の僧団には「延寿堂」が存在していた。これは、病気になった僧が居る場所であり、修行が出来なくなった者を一時的に保護するための施設でもある。現代であれば、いたずらに叢林内に置かずに、病院に置くべきだという見解もあるし、それは事実そうあるべきなのだろうが、しかし、一応古来は「延寿堂」が置かれた。この場所について、道元禅師の時代よりも更に古い時代に編まれた『禅苑清規』所収で、百丈懐海禅師の古意を集めたとされる「百丈規縄頌」では、以下のように示される。疾病して三日を経れば...延寿堂という制度
江戸時代末期に『伝光録』を開版した勝躅が知られる仏洲仙英禅師(1794~1864)の語録を詳しく読んでいた。その中に、『血脈讃題』という一節を見付けたので参究してみたい。血脈讃題仏仏の血脈、祖祖の肝腸。独尊の慧命、至聖道場。群生の帰処、含霊の本郷。心身の現在、相好著明。大意的的、体露堂堂。一面三世、箇裏十方。正法の符信、永代の紀綱。嫡嫡要を伝え、灯灯〈光を列す。芳を聯ぬ〉。過現未を通じ、已今当を貫く。高下平等、始終真常。恒沙の経数、八万の法蔵。周囲重畳、讃揚罄くし叵し。『円成始祖老人語録(巻中)』、『曹洞宗全書』「拾遺」巻、137頁下段、訓読は拙僧四言の古詩による讃ということになるが、平声・下七陽にて韻が踏まれている。内容としては、まず間違いなく、具体的な『血脈』の讃であるといえよう。意義としては、次のよ...或る学僧の『血脈讃題』
以前、拙ブログで紹介した箇所だけれども、栄西禅師の『興禅護国論』には、常に自戒の範とすべき一文がある。『大智度論』に云く「自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」と。「世人決疑門第三」これは、『大智度論』から引用されたものであり、該当箇所は「初品第二」になる。いわば、『大般若経』の「如是」という語への註釈が示された箇所に該当している。そして、栄西禅師は偈を引用しただけだが、その前後の文脈をも引用すると以下のようになる。復た次に、一切の諸の外道の出家は、心に「我が法は微妙にして、第一清浄なり」と念えり。是の如くの人、自ら所行の法を歎じ、他人の法を毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種々無量の苦を受く。偈に説くが如し。自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の...『大智度論』の「自法供養」批判について
今日は11月2日である。ところで、元亨元年(1321)にこんな出来事があったとされる。元亨元年〈辛酉〉本願の主、海野三郎〈信濃国に住す〉滋野信直、十一月二日、受戒して法名は妙浄とす。『洞谷記』海野三郎とは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師に、永光寺を建てるべき土地を寄進した女性(黙譜祖忍尼)の夫である。元々妻が信心深く、夫も続けて瑩山禅師の下で授戒し、仏縁を繋いでいる。『洞谷記』を見ると、この夫妻が熱心に瑩山禅師にお仕えする様子が分かるが、瑩山禅師も可能な限りこの夫妻の願いを叶えるべく御尽力された。無論、その願いとは、現当二世を祈ることであり、菩提を得ることこそがその願いになるが、この夫婦を以下のように讃えたこともある。然る間、瑩山の今生の仏法修行は、此の檀越の信心に依って成就す。故に尽未来際、此を以て本願主の...11月2日或る人の受戒
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、前回の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今回からはその一々の項目について学んでいく。大科第七問遮(続き)七定業とは、一は、悪心出仏身血の罪、戒師、受者に問うて曰く、汝等、過去無数劫より、乃至今身まで、仏身生身より血を出さざるや、否や。答えて曰く、否なり。私に問うて曰く、出仏身血の罪は、如来の在世に限る。末代には之れ有るべからず。何等の罪を以てか、之の罪に同ぜんや。答えて曰く、仏宝に就...『浄土布薩式』「大科第七問遮」②(『浄土布薩式』参究9)
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。禅宗では、安名について決して超越的な「われ関せず」の態度をとっていない。寺といわず、僧といわず、俗といわず、その名前を安ずることについては、慎重に考慮し、等閑にしないということについて、永平道元禅師の安名の史実を探ってみることにする。〈中略〉北条時頼の仏教名の道崇は、道元禅師が授けられたものであるともいわれており、〈中略〉これが史実に合致するかどうか知らないが、〈中略〉北条時頼が天下の政道に携わりつつ道を道崇する、その宗教精神を重んじて、道崇とつけられたものであろう。道は、道元の道の字を授けられたものともいわれている。永久岳水先生『曹洞宗法名・戒名の選び方』国書刊行会・平成15年、14~15頁永久先生は、『正法眼蔵』の書誌学的研究や、室内学研究で知られているが、その一...道元禅師の安名観について
江戸時代、曹洞宗では乱灯を改めんがため、幕府寺社奉行を巻き込んだ運動が行われ、それは「宗統復古運動」として知られており、その後、曹洞宗の寺院相続法は、様変わりした。結果的にその後また変更され、現状の相続法があるが、江戸時代の中間的状況について書かれた文献を紹介したい。一師印証の正法、遂に以て古に復し、粤を以て中古の、院に因って嗣を換え、屡ば本師を捨てるの弊、扶桑に一時止む。既に、自法を以て、他山に住し、則ち他山開祖の法孫、暫く断絶するに似たり。所以に、重ねて他山開祖の戒脈・大事の二物を嗣ぐ。之を重受と名づく。之を伽藍相続と号す。蓋し、仏在世の重受戒に擬する者か。然りと雖も、いわゆる他山開祖の法孫、亦移って、他山に住す。則ちここに嗣いで彼に住して、彼に嗣いでここに住する。各々土地の縁に任す。法法連綿にして、...江戸時代「宗統復古運動」後の伽藍相続法
臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓...江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について
『洞上規縄』とは、江戸深川増林寺に住持していた寂堂呑空禅師(生没年不詳)が、『永平清規』の『弁道法』及び『赴粥飯法』に拠って、叢林に於ける日分行持の弁道の規矩・規縄を記した文献である。享保18年(1733)に刊行された。今日はその一節を学んでみたい。いわゆる仏法僧を求めず、福智知解等を求めず、垢浄情尽も亦、此の無求を守りて是と為さず。亦、尽処に住せず、乃至、河沙戒定慧門無漏解脱、都て未だ一毫にも渉らず在る等は、此れは是れ大小僧衆の受戒護戒、日夜進取的の規式なり。『洞上規縄』「附録」問題は、最後の「受戒護戒」の話である。ここでは、いわゆるあらゆる事象への「不求・無求」を前提にしつつ、そこにも安住をしないで、戒定慧などにも拘らない様子こそが、「大小僧衆の受戒護戒」であるとしているのである。一見すると、何を示そ...『洞上規縄』に見る受戒護戒の問題について
禅僧にとって、戒法とは何だったのだろうか?このような見解がある。今この戒を仏祖正伝ととけば、戒法をいやがる禅宗僧の云様は、禅宗は悟りの宗旨なれば、なにの戒法と云ことがあるべきと、亦書冊のはしのよめる僧は、其上に証拠を引て云は、伝灯録及び諸家の録にも、授戒と云ことは見へず、後人の初めたることと云、これ大邪見、愚妄の至なり。面山瑞方禅師『若州永福和尚説戒』(宝暦9年版)乾巻・2丁表、カナをかなにするなど見易く改めるこの説示を見て、拙僧は今でも同じなのではないか?と思うようになった。いや、この見解が現代の現場にまで反映しているのかもしれない、ということだ。しかし、何故、禅宗の悟りと、戒法とが対立するのだろうか?拙僧にはそれが解せない。例えば、道元禅師は禅の悟りと、釈尊の教えとが矛盾しないことを論じている。或いは...禅僧にとっての戒法
「講戒」という作法がある。詳しいことについて、拙僧はよく分かっていない。多分、今はそれが残っていない(のかどうかもよく分からない。説戒のことではない)からなのかもしれないが、それで、定義というか、典拠というか、基本は以下の文脈で知られる。講戒と受戒とは、その儀、別なり。これを詳らかにする者、少かなり。何に況んや大僧菩薩の戒相、これを明かにする者、多からず。今、撰する所は、講戒の流なり。しかも菩薩戒の儀式、これを伝授する者、稀なり。今、聊か略作法を存して、受授の儀を示す。諸の阿笈摩教、及び諸の教家に云うところと同じからず。若し、この儀によって受授すべくんば、得戒すべし。唐土・我朝、先代の人師、戒を釈するの時、詳しく菩薩の戒体を論ずるは、甚だ以て非なり。体を論ずる、その要、如何。如来世尊、唯だ戒の徳を説き、得...面山瑞方禅師が説く「講戒の流」について
実世界の研究でも丘宗潭老師による『教授戒文』提唱を学んだことがあったのだが、丘老師は禅戒論を論じるに当たり、ご自身が改正された万仭道坦禅師『仏祖正伝禅戒鈔』よりも、同じ万仭禅師による『禅戒本義』を尊重していることが分かった。それも含めて、『禅戒本義』自体を学んでみたいと思い、今日はこんな記事を書いてみようと思う。禅戒本義序戒学に幼くして戒師と作り、禅学に少くして禅師と称するは、古今の仏祖の呵する所、其の罪免るべからず。如来の在世、二歳の沙弥有り、一歳の弟子を将ち仏処に往く。仏、呵責して言わく、汝の身未だ乳を離れず。応に人の教授を受るべし、云何が人に教えんや、云云。吁、夫れ、戒学多般なり、今人何ぞ罄くさん、況んや亦禅戒は宗門の一大事、具眼底の舌頭在りても、輒く教授すべからず。古に曰く、説戒は仏法の大綱なり、...万仭道坦禅師『禅戒本義』序に見る苦言
拙僧の手元に、『〈密宗必須〉三聚戒本』という冊子があって、内容は『梵網経』『瑜伽戒本』『根本説一切有部戒経』の3種の戒本を収録したもので、「密宗必須」とある通り、日本の真言宗で用いたものである。そこで、その中に、「四十八軽戒略頌」が収録されていた。今日はその「偈頌」を見ておきたい。四十八軽戒略頌前の三十戒は摂善法なり。末の十八戒は摂衆生なり。是を梵網後二戒と名づく。原典に随って訓読以上である。これは、『梵網経』の「四十八軽戒」について、前後に区分し、更にその意義付けを行ったものである。それで、この「略頌」であるが、典拠は新羅・義寂による『菩薩戒本疏』巻下之本に「又四十八中、前の三十戒、多く摂善と為す。後の十八戒、多く利生と為すなり」とあることに由来するようである。そこで、「四十八軽戒」を前三十、後十八に分...「四十八軽戒略頌」について
『浄土布薩式』「大科第六 受者発心」(『浄土布薩式』参究7)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくが、今回は「大科第六」の項目を学んでいきたい。ところで、一応「受者発心」というタイトルにしたが、以下の通り項目は「発心偈」というべき偈文を、随喜衆一同で唱えるところから始まる。大科第六受者発心諸衆、同じく唱えて云うべし、我等今身に善縁に遇い、能く隔時の菩提心を発し、一切の持破信不信、同く極楽に生じて三忍を得ん。今、菩提心を発すに就いて、即ち二種有り、一には直成の菩提心、即ち此の娑婆濁刹の中に於いて、直に無上仏果を成せんと求むの心なり。二には隔時の菩提心、則ち直成の修業に堪えざるが故に穢土を厭ひ、浄土を欣む。凡身を捨て、聖身を得て、二土を分かち、隔時隔念の得益を求むるが故に、隔時隔土の菩提心と名くるなり。...『浄土布薩式』「大科第六受者発心」(『浄土布薩式』参究7)
或る文献を読んでいたら、『地獄経』という経典からの引用があった。ちょっと良く分からない経典だったので、採り上げてみたいと思った。参考までに、その引用文とは、以下の通りである。地獄経に云わく、衆生有り、蹇吃瘖瘂にして、口、言うこと能わず。若し説く所有りて、目を閉じ、手を挙げても乃ち言い了らず。何の罪ありて致す所なりや。仏言わく、前世の時に三宝を誹謗し、聖道を軽毀し、他の好悪を論じ、人の短長を求め、強いて良善を誣ひ、聖人を憎嫉するに坐せらるを以てなり。『仏祖正伝禅戒鈔』「第十不謗三宝戒」・・・良い文章では無いな。前世の問題を元に、現状の問題を論じる方法は、「悪しき業論」と呼ばれ、明らかに人権問題を含み、場合によっては霊感商法などを助長する可能性がある。よって、上記内容を元に、更なる人権問題の発生などが無いよう...じ、『地獄経』?!(令和5年度「裏盆」の学び2)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第五」の項目を学んでいきたい。ところで、一応「発願」というタイトルにしたが、以下の通り項目は「維那、金を鳴らし」から始まる。しかし、直後に「発願」と出ているので、その通りなのだろう。大科第五に、維那、金を鳴らし、大衆に告ぐ、合掌警念して発願して曰く、敬白、諸の仏子等、合掌至心して聴け、此れは是れ娑婆世界、一四天下、南閻浮提、大日本国、五畿七道の中、某の道、某の国、某の郡、某の郷、某の村、某の里、某の仏像前にして、我等、本師釈迦牟尼仏道法の弟子、在家・出家の菩薩なり。久しく生死の海に沈淪して、恒に六趣の苦を受く、此れ即ち如来の出世に遇わず、頓教一乗の戒を受けざるに依る。今生に若し厭離生死の心を...『浄土布薩式』「大科第五発願」(『浄土布薩式』参究6)
どうしても、現在の拙僧どもからすると、『梵網経』を重視してしまうことになるのだが、実際の菩薩戒の参究となると、『瑜伽師地論』(及び同論と同系統の各種訳本)を参照しなければ話にならないわけで、細々ではあるが、先行研究を含めて色々と見るようにしている。その上で、『瑜伽師地論』に於ける「四種他勝処法」を見ていくと、「菩薩戒」の位置付けが理解出来るように思う(先行研究として佐藤達玄先生『中国仏教における戒律の研究』木耳社・1986年、347~360頁参照)ので、その辺を見ておきたい。まず、「四種他勝処法」とは、以下の通りである。其れ四種他勝処法有り。何等とか四と為すや。若し諸菩薩、欲貪の為に利養恭敬を求めれば、自讃毀他す。是れを第一他勝処法と名づく。若し諸菩薩、資財有るを現すれば財を性慳するが故に、苦有り貧有り依...『瑜伽師地論』に見える四種他勝処法について
この記事は、【「三帰戒」という呼称について】の続編である。それで、拙僧が集めた資料の中に、「三帰戒」という項目があることを確認したので、それを学んでみたい。三帰戒汝等、帰戒を求めんと欲せば、先づ当に懺悔すべし。〈壱反〉我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。〈三反〉更に応に仏法僧の三宝に帰依すべし。〈一反〉南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。〈三反〉三帰戒を受くこと是の如し、今身より仏身に至る迄、此の事能く護持せよ。『日用行事書』写本、原典の訓点に従って訓読、漢字も現在通用のものに改めるこちらの『日用行事書』であるが、現在の愛知県内寺院で用いていたものだと判明している。なお、内容に甘雨為霖禅師(1786~187...「三帰戒」という呼称について(2)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、本書は冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。その中でも、大科の第四を紹介してみたい。大科第四焼香焼香竟て唱て云ふべし、願くは我身浄じて香炉の如く、願くは我心智慧の火の如く、念念に戒定香を焚焼して、十方三世の仏を供養したてまつる。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方そもそも、本式は広略両本があったとされる『浄土布薩式』の略本であるから、本文としては短い。だが、それでも、次の科からは、口訣や願文等が入ってくるため、かなり長くなってくる。上記の「焼香」の項目だが、香炉に香を焚く意義について、偈頌で述べられている。そして、調べたのだが、この偈頌には典拠があった。善導和尚の『法事讃』巻上である。これは、流石に適した典拠があったの...『浄土布薩式』「大科第四焼香」(『浄土布薩式』参究5)
中国禅宗六祖慧能禅師は難しい人である。何故ならば、未だ在家の身のままでその悟りを認められ、印可証明されてから、出家して大僧となったためである。そのため、六祖の出家をどう扱うかは、宗旨上1つの問題であった。曹渓六祖、優婆塞身を以て法性寺に寓せし時、印宗法師、為に其の髪を薙ぐ。寺主智光律師をして、比丘具足戒を授けしむ。祖、是れ多生の善知識、一切の戒法、自然に具足す。然るに印宗、告げる所に応じて化門の式成る。今時の一般の具足類に非ず。卍山道白禅師『対客閑話』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・5頁下段、訓読は拙僧江戸時代の学僧・卍山道白禅師の説示であるが、ここからは、卍山禅師の修証観なども伺うことが出来よう。まず、上記内容が何を意味しているかといえば、六祖は優婆塞=男性の在家信者の立場でもって、法性寺に入っていたが、時...六祖慧能禅師の出家に関する一解釈
「因脈会」の作法については、既に【(4)】で書いた通り、戒師による説戒の時に併修された「因脈授与」が原型となっているため、いわゆる「道場」とは扱われないことを指摘した。ただし、その記事では、授戒として何が授けられているのかを明かさなかった。それについて指摘された文献があるので、今日はそれを見ておきたい。下午説戒之節因縁血脈ノ願アラバ室侍寮江相届用意之上、説戒時戒師三帰戒アリ、尤毎日用意同断也、『増福山授戒直壇指南』、『曹洞宗全書』「清規」巻・789頁下段~790頁上段実はこれでしかなく、全体の流れは分かりにくい。上記から分かるのは、因縁血脈の依頼があった場合には、室侍寮が準備するということと、説戒の時に戒師が三帰戒を授けること、そして毎日行う可能性があるということである。それで、三帰戒と因縁血脈という取り...「因脈会作法」考(5)
以前にアップした【(3)】の記事を書いた時に漠然と思っていたのだが、そういえば因脈会に関しては、授戒・授脈の場面のことを「道場」とは称していない。・因脈授与「因脈会行持日鑑」、『昭和修訂曹洞宗行持軌範』316頁つまり、道場ではないのである。この辺、授戒会・法脈会では、以下の通りである。・正授道場「授戒会行持日鑑」、前掲同著・308頁・正授道場「法脈会行持日鑑」、前掲同著・315頁この通りであり、両作法とも「正授道場」となっているのである。ただし、「因脈授与」となっている先ほどの作法について、実態は以下の通りである。直僚(因脈係)は、受者を整列させて加行位に就かしめる。戒師は三鼓、大擂上殿。まず説戒、終わって懺悔文を唱えしめる。室侍長(あるいは随行長)、洒水を行う。次いで戒師は三帰、三聚、十重禁戒を授け血脈...「因脈会作法」考(4)
前回の記事については、【(2)】をご覧いただければ良いと思うのだが、少しく気付いたことがあったので、記事にしておきたい。雑考に近いかもしれない・・・それで、まず、「因脈会」の「因脈」は、「因縁血脈」の略だとはされるが、その典拠はどこにあるのだろうか?気になったので調べてみたが、曹洞宗宗務庁刊『授戒会の研究』に付録されている各種戒会加行表を見てみると、畔上楳仙禅師や石川素童禅師が示されたという戒会指南書には、当たり前のように用いられているので、明治期には一般的であったといえよう。そうなると、「因縁血脈」の使用はその前になるとは思っていたのだが、以下のような一節を見出した。又血脈ヲ受ルニ四通リノ次第アリマス、一ニハ長老以上ハ傳戒ト云、二ニハ自身ニ受ヲ正戒ト云、三ニハ授戒ニ付テモ此ノ道場ニ得入來ナク、代人ニテ受...「因脈会作法」考(3)
既に、【「因脈会作法」考】で見たように、現行の『行持軌範』に於ける「因脈会作法」は、授戒会⇒法脈会⇒因脈会と、本来の授戒会から次第に略されたものであるけれども、その略され方を通して、現行の因脈会がどのような戒学に裏打ちされているかを考察する。まず、「因脈会作法」とはどのような流れになっているか、簡単に確認しておきたい。そもそも、宗門が公式に「因脈会作法」を定めたのは、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』(昭和27年)であるが、以下のような説明となっている。概ね授戒会と同じ。唯、日時を短縮する。長さは四五日、短きは二三日或は一日とすることもある。又、月授戒と称して毎月一回(最後二日行ふ)修行することがある。因脈会には登壇並びに上堂は行はない。又、飯台を略して弁当持参とする。迎聖、歎仏、説教、施餓鬼、供養回向、説戒、読...「因脈会作法」考(2)
以前から、「因脈会作法」について、一言記事にしておきたかった。そもそも、宗門で「授戒会作法」を正式に軌範に組み込んだのは、昭和27年の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』からとなる。ところで、現行の『昭和修訂曹洞宗行持軌範』では、「授戒会作法」に関連して、以下の3つが立項されている。・授戒会作法(5~7日)・法脈会作法(3~4日)・因脈会作法(1日)それで、これが『昭和改訂』だと「授戒会作法」と「因脈会作法」しか、目次には載っていない。よって、「法脈会」というのは後で出来たのだと思っていたのだが、ちょっとした違和感を憶えていた。それは、『昭和修訂』に於ける説明文である。・おおむね、授戒会と同じであるが、期間は三日ないし四日とする。ただし法脈会においては、戒師の完戒上堂及び戒弟の登壇は行わない(完戒上堂になぞらえて小...「因脈会作法」考
曹洞宗の得度作法は、第二次世界大戦後の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』以降に、全宗派で統一された。無論、江戸時代には面山瑞方禅師が『永平祖師得度略作法』を刊行しているし、類似の刊行物は複数存在していたようである。明治時代になると、当時の曹洞宗務局からは『明治校訂洞上行持軌範』が公的な作法書として刊行されるに至り、また、民間の出版社からも、「回向集」の体裁で作法書が複数刊行された。しかし、それらには得度作法が入ることはなかった。やはり、授戒を含む同作法は、室内で伝授される扱いだったのであろう。ところで、明治時代に宗政や宗学振興に尽力された来馬琢道老師の『禅門宝鑑』(鴻盟社・明治44年)には、得度作法が記されている。そうなると、理想論としては室内で伝授されるべき作法だが、それが契わない宗侶にとっては、『禅門宝鑑』の...来馬琢道老師『禅門宝鑑』に見る得度作法について
先日アップした【『仏祖正伝菩薩戒作法』の特徴について】の関係で、拙僧自身、授戒作法中に於ける「衆生受仏戒」偈の問題について、興味を抱いた。この偈について、出典はよく皆さまご存じであるとは思うが、確認しておくと中国以東に於いて菩薩戒の根本聖典の扱いを受けるようになった『梵網経』である。それで、拙僧どもはこの偈について、授戒には付きものだと思っているのだが、もしかするとその観念自体、そう古いものではない、と思うようになった。そこで、宗門授戒作法の中で、この偈がどのように採用されいているのか、確認しておきたい。先に挙げた記事でも申し上げたが、道元禅師に係る授戒作法3本では、以下の通りとなっている。・『出家略作法』不採用・『仏祖正伝菩薩戒作法』採用・『正法眼蔵』「受戒」巻不採用上記の通り、採用しているのは『菩薩戒...曹洞宗の授戒作法に於ける「衆生受仏戒」偈の採用について
この連載では、『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。今回は、全十六章でなっている「布薩式」の「大科第三」を見ていきたい。大科第三灑水灑水し已て偈を説いて唱えて云ふべし、今法水を浴して諸根を浄む、八功徳水当に知るべし是なり、実相一味清浄の水、皆一切煩悩の垢を除く。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方今度は灑水(洒水)である。灑水は他の宗派の布薩作法でも、行われることが多い。ただし、順番は別の場面でのこともある。なお、ここの「灑水」の意義は、偈を見れば分かる通り、諸根(我々の感覚器官)を浄め、一切の煩悩の垢を除くことを意味している。その意味では、清浄にすることである。なお、この「灑水偈」だが、典拠は不明である。概念として類似した文...『浄土布薩式』「大科第三灑水」(『浄土布薩式』参究4)
これは、大した内容の記事ではない。ただ、以前から、個人的に疑問に思っていたことを、確認しようと思ったのである。それは、「三帰戒」という呼称についてである。もちろん、三帰依を戒と見なせるかどうかという話ではない。それだけなら、江戸時代の日本仏教界の一部でも議論されたことがあって、その結果に納得できているので、そこではない。むしろ、一部の宗派で、在家信者の方の葬儀の時に授戒を行うが、そこでは、例えば菩薩戒十六条戒などを授けている場合があっても、その授けている戒の全体を「三帰戒」と呼ぶことがある。これについて、現場などでの便宜上の呼称なのか、それとも、呼ぶに当たって、何か根拠などでもあるのか、その辺を確認したいのである。色々と見てみたが、やはり葬儀関係の文献が一番分かりやすかった。以前も【大正時代の日本仏教界の...「三帰戒」という呼称について
拙僧つらつら鑑みるに、日蓮宗という宗派に於いて、受戒や持戒がどのような位置付けとされているのか、興味がある。色々な解説本などを見ると、戒を重視されている印象は薄いのだが、日本に於いて、同様の態度は同宗派と浄土真宗に見られ、非常に特徴的であると思う。無論、宗義的な理由もあって、『法華経』或いは『法華三部経(特に、『観普賢菩薩行法経』との関連)』で、以下のようにあることが大きいのだろう。爾の時に行者若し菩薩戒を具足せんと欲せば、応当に合掌して、空閑の処に在って遍く十方の仏を礼したてまつり、諸罪を懺悔し自ら己が過を説くべし。〈中略〉一日乃至三七日、若しは出家・在家にても、和上を須いず諸師を用いず白羯磨せざれども、大乗経典を受持し読誦する力の故に、普賢菩薩の助発行の故に、是れ十方の諸仏の正法の眼目なれば、是の法に...日蓮聖人の説く菩薩戒
備忘録的な記事である。以前から「大戒」という言葉の意味について色々と考えていたのだが、高祖道元禅師御自身の御見解を学んでおきたいと思い、記事にする次第である。拝して後、一両歩進み合掌問訊〈問訊は深かるべし〉して云く、「生死事大、無常迅速、伏して望むらくは和尚、大慈大悲、哀愍して仏祖の大戒を稟受することを聴許したまえ」。『仏祖正伝菩薩戒作法』「戒師請拝」まず、上記一節が最も最初に示された「大戒」表記だといえよう。『仏祖正伝菩薩戒作法』が、中国天童山で、如浄禅師から教わったものという伝承上での話だが、ここで、「仏祖の大戒」という表現が見える。この場合の「大戒」の定義は分からないが、どちらにしても、「偉大なる戒」や「大乗戒」という意味が想定されよう。・夫れ諸仏の大戒は、諸仏の護持したもう所なり。仏仏の相授有り、...道元禅師が用いられる「大戒」表記について
曹洞宗の授戒会は、生前に戒名を頂戴出来る修行として知られている。無論、この場合の「戒名」というのは、仏道修行者としての名前であって、一般的な観念として戒名を「死者の名前」などと扱う人もいるようだが、それは大分省略された物言いだといえる。それで、我々は「●●○○居士」の全体を戒名だと通称しているが、本当のことをいえば、「○○」の二字を「戒名」というのであって、「●●」の部分は道号(禅宗などで用いるようになった、仏道修行者としての通称)であり、「居士」の部分は「位階」である。熱心な方は、宗門の授戒会に繰り返し参加されるという。これは、現代的な事象かと思いきや、昔からそうだった、という話を今日はしておきたい。在家戒弟の列は、著帳の前後によるといへども、或は貴賤によりて列を定るも可なり。もし前度受戒したるか、或は...授戒会を繰り返し修行した際の戒名の扱いについて
「戒名」とは、「本来の仏教」には必要ないと主張する人がいる。当方では、「本来の仏教」の定義について、延々と議論してみたいという欲求に駆られるのだが、それは些末なことなので、ここでは措いておく。それで、「戒名」に因むような議論を少し見ておきたい。此仏戒の中にて名を立るに不瞋恚と云へども、「位同大覚位、真是諸仏子」なれば、仏位にては何様に持すべきか。「菩薩戒を受け菩薩の名を得れば、常に慈悲心・孝順心を生ずべし」云々。衆生心は慈悲心なり、孝順心なり。一念とも一心とも云べし。初一念の時、先衆生を哀む心、是孝順心なり。『梵網経略抄』「第九不瞋恚戒」、下線は拙僧この下線部をご覧いただければ一目瞭然なのだが、この箇所に於いて、「菩薩戒を受け菩薩の名を得れば」とある。これは、いわゆる特定の固有名を伴う名称を指摘しているか...「菩薩戒」と「戒名」について
今回紹介する口訣は、江戸時代末期に編まれた著者不明『開戒口訣』に見えるものであるため、実際に存在した内容であるかどうかは分からない。ただし、江戸時代末期当時の洞門僧が、『仏祖正伝菩薩戒作法』について、どう捉えていたかが分かるものであるため、参究してみたい。永平開祖、二祖・三祖に嘱して云、菩薩戒作法の如きは、懇に秘在して、旻せしむること勿れと。是故に今に至て、古叢林室中、多く秘在するものなり。『続曹洞宗全書』「禅戒」巻・354頁上段、カナをかなにするなど見易く改めているまず、道元禅師が二祖(懐弉禅師)・三祖(義介禅師)に言葉を托して言われるには、『菩薩戒作法』は秘在して、「旻」させてはならないという。「旻」とは「そら」などの意味であり、このままでは意味は分からない。おそらくは誤字か、翻刻ミスだとは思うのだが...『仏祖正伝菩薩戒作法』伝承に関する口訣について
拙僧つらつら鑑みるに、道元禅師に於ける「律儀」の再構成について、一度考えておくべきであると感じていた。ただ単純に道元禅師が『永平清規』を制定されたということだけでは、それが実際に学人にどう受け止められ、実践されていたかが分からない。また、道元禅師の場合は、まったく禅宗(道元禅師はご自身を禅宗とは名乗られない)への学びがない者達に対して、改めて教育していかねばならないという立場であられたし、しかも、叢林の修行は継続的に行われなくてはならなかった。それを思う時、以下の一節などはいわゆる「律儀」の再構成として考えることが出来るように思う。寮中の儀、応当に仏祖の戒律を敬遵して、兼ねて大小乗の威儀に依随して、百丈の清規に一如すべし。清規に曰く、「事に大小無く、並びに箴規に合すべし」と。然らば則ち須らく梵網経・瓔珞経...『衆寮箴規』に見える「律儀の再構成」について
拙僧つらつら鑑みるに、得度作法・授戒作法を一通り見た上で得た結論としては、個人的には以前より「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、何故、安名授与が無いのか?という疑問に対し、それは総授戒運動もあった宗門としては、生前に戒名を受けていることを前提にしているのでは?という仮説をお話ししてきたのだが、どうも違う印象を得た。それは、「安名授与」を含む得度作法というのは、明朝禅による影響の可能性があるということを、【『寿昌清規』に見る「沙弥得度」について】で指摘した。その上で、現在の得度作法は、おそらくはその明朝禅の影響を受けた逆水洞流禅師の得度作法を下敷きにしている可能性があり、古儀とは言い切れない可能性があると指摘したのである。それで、現状の「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、その典拠を一々考えること...「檀信徒喪儀法」「授戒」項渉典集
以前、【『大般涅槃経』と菩薩戒について】という記事を書いたこともあったが、個人的に諸大乗経典(偽経含む)に見える「菩薩戒」について調べている。他にも、個人的に『梵網経』を学ばせていただいているが、拙僧以前からちょっと気に入らないことがあって、『梵網経』は、「誦戒」を始めとして、儀軌的な側面も見えるのだが、総じてはその意義を説くのが主眼で、梵網菩薩戒を具体的にどのように受けるかは分からず終いであるように思う(中国仏教界では、『梵網経』に授戒儀規を示す一品があったとする人もいるが、本当にあったのかどうか分からない。少なくとも、現存はしていないと思う)。ただ、当然に教団として、『梵網経』を受け容れていくとなると、それを受者に敷衍していくに辺り、儀軌的な側面が軽いのは問題だといえる。無論、儀軌を作り上げていく過程...『観普賢菩薩行法経』に見る菩薩戒について
拙僧自身、「菩薩戒」という大乗仏教の戒律を受けているが、もちろん、「菩薩戒」について概念上は釈尊入滅後の後代に出来た戒律だと理解している。日本では江戸時代には「大乗非仏説」が出て来ているため、もう、数百年くらいは疑わしい状態だったと見ることも出来る。ただ、そういった概念上の問題だけでは、個人的には片付けられないので、「菩薩戒」を勉強し直すべきだと思っている。さて、そうなると「菩薩戒」は、『梵網経』とか『瓔珞経』とか、一部の経典を学ぶ場合が多いが、それらは「仏説」として信じられている(実際のところは、中国成立であることは間違いないが)。よって、「菩薩戒」は仏説として示されたと信じていることになる。また、他の経典にも説かれていて、今日は大乗仏典の『大般涅槃経』から見ていきたい。戒に復た、二有り。一には声聞戒。...『大般涅槃経』と菩薩戒について
中国禅宗の六祖慧能(638~713)については、以下のような伝記的記述が残されている。二月八日、法性寺智光律師に就いて満分戒を受く。其の戒壇、即ち宋朝・求那跋陀三蔵の置くところなり。『景徳伝灯録』巻5「慧能禅師章」それで、問題はこの「満分戒」と呼ばれるものが、いわゆる声聞戒(比丘戒)なのか?菩薩戒なのか?ということである。この点について、以下のような議論があった。六祖大師受くる所の具足戒、是れ菩薩大乗戒なり。〈中略〉則ち智光の授くる所、決して菩薩大乗戒なり、疑うべからず。石雲融仙『叢林薬樹』上巻、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・22頁上段なお、この根拠については、よく分からない。様々な経論は引用しているけれども、石雲の見解を直接確定してくれる文脈は無いのである(ただし、具足戒を菩薩戒と見る文脈は存在している)。...中国禅宗六祖慧能の受戒をめぐる曹洞宗内での議論について
菩薩が受持すべき菩薩戒については、色々な組み合わせがあるのだが、その中でもかなり変わった内容なのが、以下の一節である。仏、文殊に告ぐ、若しくは男子・女人、三自帰を受け、若しくは五戒、若しくは十戒、若しくは善信菩薩二十四戒、若しくは沙門二百五十戒、若しくは比丘尼五百戒、若しくは菩薩戒を受け、若しくは是の諸戒を破りて、若しくは能く至心に一たび懺悔するものは、復た我れの説く、薬師瑠璃光仏、終に三悪道中に堕せず、必ず解脱を得ることを聞け。『仏説潅頂経』要するに、破戒をしても、薬師如来に帰依をすれば、三悪道に堕落しないということが説かれている。なお、上記経典と、どういう相互関係にあるのかは当方には判断しようがないが、上記の内容が薬師如来に関するものである時、実は、薬師如来関連の経典との繋がりをこそ、先に見るべきだっ...「菩薩二十四戒」の話
中世室町期に後花園天皇に授戒した天台宗の鎮増和尚が詠まれた偈頌を紹介したい。生死の大海を渡り、無生の彼岸に到る、木叉を以て船筏と為し、無明の迷闇を除き、仏果の智見を開き、戒光を以て伝灯と為す。『円頓戒要義』なお、後花園天皇の受戒は、宝徳2年(1450)12月だと伝わるので、この文献もまた、中世の天台宗の戒観を知る手掛かりということか。調べてみると、鎮増和尚とは、元々京都白川に所在した天台宗寺院にいて、寺内には戒壇もあったという。また、独自の戒灌頂という作法も行っていたようだが、当方、勉強不足でこれ以上、この辺は深めることが出来ない。そういえば、この元応寺だが、応仁の乱に於いて伽藍を焼失して衰退し、16世紀後半には現在、滋賀県大津市にある聖衆来迎寺(天台宗)に吸収されてしまったという。さて、経緯は以上のよう...或る天台僧が示した授戒の偈
この記事は、あくまでも普寂上人の『菩薩三聚戒弁要』を読んだ、という備忘録的な内容である。同書の中で、分受戒についての指摘があったので、それを見ておきたい。もし摂律儀戒は、或は十重四十八軽戒を受持し、或はただ十重禁戒を受持し、或は十戒の中において、一戒二戒乃至九戒分受することを許す。又、在家出家護持おなじからず。下に至りて弁ずべし。以上の通りなのだが、十重四十八軽戒の受持について、区々だということになっている。詳細は、後で弁ずるとは書いているが、具体的には「戒相を弁ず」の項目が該当するようである。戒相とは即ち十重四十八軽戒なり、受者の意楽まちまちなり、或は軽重具さに受くるあり、或は唯十重禁戒を受得し、軽戒は隨分受学するあり、或は十重の中、一戒乃至九戒分に随ふえ受学するあり、又一々の戒を受学するにも、其持犯開...普寂上人『菩薩三聚戒弁要』に見る分受論
それでは、今回から『浄土布薩式』の本文を学んでみたい。まずは、冒頭部分である。浄土布薩戒上大日本国華洛沙門源空述浄土宗頓教一乗円実大戒布薩法式『続浄土宗全書』巻15・74頁『浄土布薩式』は上下2巻本である。それから、法然上人の署名は、「大日本国華洛沙門源空」となっている。「華洛」とは、華やかな都という意味であり、端的に京都にいた法然上人のことを指すとはいえる。それから、この布薩を行う戒の名目が凄い。「頓教一乗円実大戒」とある。頓教なので、すぐに悟れる教えであり、一乗であるから誰一人救われない者がおらず、円実だというから、円かで真実なる大戒だという意味になる。なお、「頓教一乗」という語句は、『円覚経』の註釈書に見えるもののようだが、実際の著者確定に関わるものだろうか?分からない。若し、此の法式を行んと欲する...『浄土布薩式』の冒頭(『浄土布薩式』参究1)
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。問、菩薩戒に就て通受・別受と云事ありと聞り。吾等椎にして一向に其訳を知らず。願くは慈悲を垂て詳に示し玉へ。答、通受・別受の名は源と表無表章に出たり。三聚浄戒に於て、単に摂律儀戒ばかり〈比丘は二百五十戒、乃至優婆塞は五戒なり〉を受るを別受と号す。摂律儀戒と摂善法戒と饒益有情戒との三聚を残らず総通して受持するを通受と云なり。諦忍律師『梵網経要解或問』カナをかなにするなど見易く改める諦忍妙竜律師(1705~1786)という人は、江戸時代の八事興正寺(現在は高野山真言宗で、名古屋市内)の5世だった人である。なお、律学を能くした人として知られる。そのため、以上のような問答に及んだといえよう。これは、何を扱っているかというと、菩薩戒に於いては「通受」と「別受」という考えがあるが、...諦忍律師が示す菩薩戒の「通受と別受」について