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以前から、一部の宗派や寺院で「在家得度」という表現があることが気になっていた。この「在家得度」が、良く分からない。いや、悪い意味で言っているのではないのだが、ちょっと今回は突っ込んで考えていきたいので、敢えて申し上げるが、分からないのである。さらに、これは言葉的な問題もある。一応「得度」とは、中村元先生『仏教語大辞典』では③として「僧となること。在家から仏門に入ること。出家に同じ」となっていて、その語意の出典に『禅苑清規』と『日本霊異記』を挙げている。だとすれば、おそらく禅宗だけのことではあるまい。したがって、「在家得度」とは語義矛盾している可能性がある。なお、「得度」という言葉について、おそらく意味としては「度牒(戒牒)」を受けるという意味があるのだろうし、その意味では「受戒した人」という意味になるのだ...宗門に於ける「得度」の位置付けに関する一考察
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。禅宗では、安名について決して超越的な「われ関せず」の態度をとっていない。寺といわず、僧といわず、俗といわず、その名前を安ずることについては、慎重に考慮し、等閑にしないということについて、永平道元禅師の安名の史実を探ってみることにする。〈中略〉北条時頼の仏教名の道崇は、道元禅師が授けられたものであるともいわれており、〈中略〉これが史実に合致するかどうか知らないが、〈中略〉北条時頼が天下の政道に携わりつつ道を道崇する、その宗教精神を重んじて、道崇とつけられたものであろう。道は、道元の道の字を授けられたものともいわれている。永久岳水先生『曹洞宗法名・戒名の選び方』国書刊行会・平成15年、14~15頁永久先生は、『正法眼蔵』の書誌学的研究や、室内学研究で知られているが、その一...道元禅師の安名観について
曹洞宗の得度作法は、第二次世界大戦後の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』以降に、全宗派で統一された。無論、江戸時代には面山瑞方禅師が『永平祖師得度略作法』を刊行しているし、類似の刊行物は複数存在していたようである。明治時代になると、当時の曹洞宗務局からは『明治校訂洞上行持軌範』が公的な作法書として刊行されるに至り、また、民間の出版社からも、「回向集」の体裁で作法書が複数刊行された。しかし、それらには得度作法が入ることはなかった。やはり、授戒を含む同作法は、室内で伝授される扱いだったのであろう。ところで、明治時代に宗政や宗学振興に尽力された来馬琢道老師の『禅門宝鑑』(鴻盟社・明治44年)には、得度作法が記されている。そうなると、理想論としては室内で伝授されるべき作法だが、それが契わない宗侶にとっては、『禅門宝鑑』の...来馬琢道老師『禅門宝鑑』に見る得度作法について
現在、大本山永平寺には道元禅師の参学師である仏樹房明全和尚の『戒牒』が残され、また、道元禅師がその奥書として明全和尚の行実を書いておられるため、様々な意味で貴重な文書なのだが、同文書を巡って江戸時代に様々な意見があった。例えば、以下の一節などはどうか?永平曽て叡岳の菩薩戒を稟持せりといへども、蚤歳より渡宋の志あるが故に、南都の戒壇にて比丘戒を受得せり。この事、永平の伝中に載せずと雖も、其戒牒今に本山に残れり。一丈玄長禅師『禅戒問答』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・301頁まずは、上記の見解を見ておきたい。これは、道元禅師の受戒の内容を示すもので、一丈禅師は永平寺で円頓戒(菩薩戒)を受けられた道元禅師が、更に中国に渡りたがっていたために、南都(奈良)の戒壇で比丘戒を受けたという。これらは道元禅師の伝記には載らな...道元禅師の「戒牒」の話
剃髪が出家者を指すことは間違いない。例えば、以下の一節が良く知られている。時に、弗迦娑、復た仏に白して言く、「我れ今、仏法に於いて出家せんと欲す」。仏、即ち喚びて言く、「善来、比丘」。鬚髪自ずから落ち、袈裟身に著し、即ち沙門と成り、阿羅漢を得る。『大般涅槃経』巻中これは、阿含部系の『大般涅槃経』である。いわば、釈尊の入滅に関わる教えを集めたものであるが、その中で、釈尊が出家を願う者に対して、「善来、比丘」と声を掛けたところ、頭髪などが自ずから抜け落ち、袈裟が身に着いて沙門の姿になったというのである。よって、出家の沙門の姿になるのに、頭髪が落ちることが条件であったことが分かる。そして、後にはそれを剃刀で行うことを剃髪ともいうわけである。ところで、今、拙僧の問題意識の中では、曹洞宗の「檀信徒喪儀法」に於いては...剃髪とは出家者のみを指すことなのか?
日本に於いては本来、僧侶・尼僧の統制に「僧尼令」が定められ、その上で出家者の振る舞いなどが規定されていたのだが、10世紀を経る頃には律令制が崩壊し、実質的に統制が取れなくなっていたという。然るに、江戸時代の儒学者である荻生徂来は、改めて国家による僧尼への統制を考えており、その結果、以下の主張が行われた。度牒再興せずんば、出家の治めはなりがたかるべし。古は三戒壇なれども、今は諸宗各別になりたる故、一宗一宗の本山に戒壇を立て、それより度牒を出すべき事也。第一僧に紛れ者あるまじ。出家の数も減少すべし。戒律の方より出家の奢やみ、殊勝になるべし。但し戒律を律宗の如くせば、諸宗に通用し難かるべし。律宗の規則は仏制なれども、時代の風俗殊の外に替り、国も別なるを、ただ形ばかり守りたるもの故、かえって偽り多し。ただ当時の風...荻生徂来『政談』に見る仏教教団統制法について
「戒名」という用語について、江戸時代に使用されるに至った状況について、以前アップしていた記事を書き直して、今後アップしていきたいのだが、その用語に関連して、江戸時代の禅林に関する事典、無著道忠禅師『禅林象器箋』(寛保元年[1741]序、なお、元禄10年[1697]から本書の原著になる著作の執筆が始まったとする先行研究がある)を参照したところ、「戒名」という用語は、およそ見出せなかった。これは同時に、この時代以前の文献で、或る程度流通したものに、同用語が見当たらない可能性が高いことを意味している。一方で、「法名」は存在していた。なお、無著禅師も同用語の典拠は、中国の丹霞天然禅師のことを用いている。そこで、この記事では類語としての「安名」について採り上げてみたい。●安名新戒と為る者、初めて法名を命ずるなり。増...『禅林象器箋』に見る「安名」の記事
拙僧つらつら鑑みるに、日本仏教に於ける「出家性」と「比丘性」について、どのように担保されているのかが気になった。無論、1つのことで決まるわけではない。あくまでも、複数のことを検討していく中で、個人的に納得したいということがある。そこで、問題意識の一つとして、現段階で、自分自身の「出家性」や「比丘性」がどのように担保されているか、分かっていないのではないか?と思えるのである。いや、これは、現代に限った問題ではない。この辺が明確にクリアになっているのは、いわゆる「声聞戒」の受戒及びその実践が生きている地域(僧伽)のみであって、日本のように、伝統的に「僧伽」が機能しなかった地域では、常にこの問題を問わねばならなかったはずである。それで、まず問題点の方を先に挙げておきたい。現状、曹洞宗侶が受ける戒(出家得度式・伝...日本仏教における出家性と比丘性について
拙僧つらつら鑑みるに、得度作法・授戒作法を一通り見た上で得た結論としては、個人的には以前より「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、何故、安名授与が無いのか?という疑問に対し、それは総授戒運動もあった宗門としては、生前に戒名を受けていることを前提にしているのでは?という仮説をお話ししてきたのだが、どうも違う印象を得た。それは、「安名授与」を含む得度作法というのは、明朝禅による影響の可能性があるということを、【『寿昌清規』に見る「沙弥得度」について】で指摘した。その上で、現在の得度作法は、おそらくはその明朝禅の影響を受けた逆水洞流禅師の得度作法を下敷きにしている可能性があり、古儀とは言い切れない可能性があると指摘したのである。それで、現状の「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、その典拠を一々考えること...「檀信徒喪儀法」「授戒」項渉典集
これは、【安名と戒名について】の続編的記事である。それで、宗門に於ける「安名」という語の典拠について、少し遡ることが出来たので、それを記事にしておきたい。なお、前回の記事では、中国などでの用法に着目して記事にしたけれども、今回は宗門に於ける諸清規・諸作法から検討してみたい。まず、繰り返しになるけれども、道元禅師に由来する『出家略作法』には江戸時代の面山瑞方禅師校訂本(『得度略作法』)も含めて、「安名」の語は出ていない。確認だが、弟子に授けるもの(名前を書いた紙)も、「名前を与える」意味での語の両方とも出ていないのである。よって、道元禅師の頃は、出家に因む名前(僧名・戒名)の授与に、「安名」とは使われていなかったことを指摘するものである。それで、江戸時代になってきて、出家得度作法が多様化してくると、幾つかこ...「安名」の語について