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道元禅師の布施観を知るためには「菩提薩埵四摂法」巻を読まねばならないが、布施について端的に「むさぼらざるなり」と「へつらわざるなり」という2つの規定がある。この内、後者の場合は僧侶が布施に対してへつらうことがないことを強調しながら、僧侶と在家人との無関係を唱えている。つまり、僧侶は在家人によって規定されない。むしろ、僧侶とは在家人が布施とする対象にすることによって、在家人にとって僧侶となるのであり、僧侶の資格・外見には前提がないということも可能である。この問題はまた、別の記事で検討したい。さて、もう一方の「むさぼらざるなり」という態度に従った生き方を僧侶に求めながら、考察を深めていきたいと思う。また云く、戒行持斎を守護すべければとて、また是れをのみ宗として、是れを奉公に立て、是れに依て得道すべしと思ふもま...道元禅師に於ける「受戒」と「持戒」
今日は11月2日である。ところで、元亨元年(1321)にこんな出来事があったとされる。元亨元年〈辛酉〉本願の主、海野三郎〈信濃国に住す〉滋野信直、十一月二日、受戒して法名は妙浄とす。『洞谷記』海野三郎とは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師に、永光寺を建てるべき土地を寄進した女性(黙譜祖忍尼)の夫である。元々妻が信心深く、夫も続けて瑩山禅師の下で授戒し、仏縁を繋いでいる。『洞谷記』を見ると、この夫妻が熱心に瑩山禅師にお仕えする様子が分かるが、瑩山禅師も可能な限りこの夫妻の願いを叶えるべく御尽力された。無論、その願いとは、現当二世を祈ることであり、菩提を得ることこそがその願いになるが、この夫婦を以下のように讃えたこともある。然る間、瑩山の今生の仏法修行は、此の檀越の信心に依って成就す。故に尽未来際、此を以て本願主の...11月2日或る人の受戒
『洞上規縄』とは、江戸深川増林寺に住持していた寂堂呑空禅師(生没年不詳)が、『永平清規』の『弁道法』及び『赴粥飯法』に拠って、叢林に於ける日分行持の弁道の規矩・規縄を記した文献である。享保18年(1733)に刊行された。今日はその一節を学んでみたい。いわゆる仏法僧を求めず、福智知解等を求めず、垢浄情尽も亦、此の無求を守りて是と為さず。亦、尽処に住せず、乃至、河沙戒定慧門無漏解脱、都て未だ一毫にも渉らず在る等は、此れは是れ大小僧衆の受戒護戒、日夜進取的の規式なり。『洞上規縄』「附録」問題は、最後の「受戒護戒」の話である。ここでは、いわゆるあらゆる事象への「不求・無求」を前提にしつつ、そこにも安住をしないで、戒定慧などにも拘らない様子こそが、「大小僧衆の受戒護戒」であるとしているのである。一見すると、何を示そ...『洞上規縄』に見る受戒護戒の問題について
これまで、大内青巒居士について、何度か論文を書いたことがあったのだが、気付かなかった一節を見出した。いや、その本自体は読んでいたので、単純にこのことに関心が及ばなかった、ということだろう。それは、次の一節である。明治十七年十一月東京絶江の露堂に於て菩薩戒弟子藹々居士大内青巒謹識大内青巒編『曹洞宗両祖伝略』鴻盟社・明治17年このように、青巒居士自身は自称の中に、「菩薩戒弟子」と入れ込んでいる。そうなると、この段階で受戒していたことを意味している。問題は、戒師が誰だったのか?ということと、いつ頃の受戒だったのか?ということが気になった。それで、結論からいうと、良く分からなかった。例えば、この署名について、この後の文献も使い続けているのなら、その前の受戒という理解が可能だが、どうも、前の著作でも後の著作でも、こ...大内青巒居士は誰から受戒したのか?
「戒名」という用語について、江戸時代に使用されるに至った状況について、以前アップしていた記事を書き直して、今後アップしていきたいのだが、その用語に関連して、江戸時代の禅林に関する事典、無著道忠禅師『禅林象器箋』(寛保元年[1741]序、なお、元禄10年[1697]から本書の原著になる著作の執筆が始まったとする先行研究がある)を参照したところ、「戒名」という用語は、およそ見出せなかった。これは同時に、この時代以前の文献で、或る程度流通したものに、同用語が見当たらない可能性が高いことを意味している。一方で、「法名」は存在していた。なお、無著禅師も同用語の典拠は、中国の丹霞天然禅師のことを用いている。そこで、この記事では類語としての「安名」について採り上げてみたい。●安名新戒と為る者、初めて法名を命ずるなり。増...『禅林象器箋』に見る「安名」の記事
『続曹洞宗全書』「禅戒」巻に収録されている逆水洞流禅師『在家血脈授与式』について検討してみたい。これは、『続曹全』では『剃度儀軌』の中に合冊されており、宝暦2年(1752)に校訂されたという奥書がある。それで、簡単に差定と内容を検討しておきたい。差定は以下の通りである(差定の各項目名は、拙僧が適宜付した)。・堂頭登座・受者三拝・浄道場・堂頭垂誡・奉請三宝・懺悔・洒水灌頂・三帰戒・四弘誓願・諸仏大戒授与・血脈授与・普回向(ただし、回向文は道元禅師『出家略作法』に準ず)・三拝・退堂この中で気になるのは、「四弘誓願」「諸仏大戒授与」「血脈授与」であろうと思う。それ以外は、普通の授戒(喪儀法に於ける授戒含む)などとそう変わらないからだ。そこで、「四弘誓願」であるが、これは、曹洞宗で一般的な得度作法や授戒作法には見...逆水洞流禅師『在家血脈授与式』について
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。受戒の功徳殊勝の行、無辺の勝福皆な回向す、普ねく願わくは沈溺の諸有情、速かに無量広仏刹に往かんことを、回向因縁三世仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。『伝授三壇弘戒法儀』類似した偈文(回向文)は、中国明代あたりから編まれた受戒作法書などに見られるものである。よって、受戒の法会が行われた時に唱えられたものだといえよう。ところで、この偈文には幾つかの類似した表現があるのだが、違いとしては、4句目の「広仏刹」が「光仏刹」になるパターンがあるということと、「略三宝」の「回向因縁三世仏」が、通常の「十方三世一切仏」となる場合がある。個人的には、「広仏刹」よりは、「光仏刹」の方が、いわゆる無量光仏たる阿弥陀仏が主宰する極楽浄土のイメージになるので、適しているのではないかと思う...或る受戒作法に見る回向偈
気になる文脈があったので、紹介しておきたい。若し、瓔珞経に依らば、戒師、羯磨の方法を作さざれば、初めに過去の一切仏を礼せしめ、次に未来仏を礼せしめ、次に現在仏を礼せしむ。是の如く三礼し已らば、法・僧も爾る所なり。次に三帰依戒法を受けしめ、次に三世の罪を懺悔せしむ。次後に正に十無尽戒を授く。吉蔵『勝鬘宝窟』巻上さて、ここで『瓔珞経』と言っているのは、『菩薩瓔珞本業経』「大衆受学品第七」であると思われる。だが、実際の原文とはだいぶ違っている印象である。上記の文章を見ると、以下の差定となっている。過去仏礼拝未来仏礼拝現在仏礼拝法・僧礼拝三帰依戒法三世罪懺悔十無尽戒ところで、典拠と思しき、『瓔珞経』での差定については、以下の通りである。仏、諸もろの仏子に告ぐ、今、正に正戒を説く。善男子・善女人、当に受戒する時、先...或る受戒作法について
明治期に、通仏教的な視点でもって、従来の仏教について総括したような文献が複数刊行された。戒律の始めて興りしは何帝の時ぞ魏の斉王、嘉平二年、西天の三蔵曇摩迦羅、洛陽に到り、授戒の法を制す、仏法漢に入てより、一百八十余年を経て、戒律始て興る加藤祐常編輯『三国仏教歴史疑問案(全)』鴻盟社・明治25年、11頁、カナをかなにするなど見易く改めるまずは、以上の一節を確認しておきたいのだが、こちらでは中国で、戒律が始めて興されたのはどの皇帝の時か?という問いに対し、答えは三国時代末期になる魏の斉王(曹芳)の時代の元号で、西暦250年であった。その時に、インドの曇摩迦羅三蔵が、洛陽に来て、授戒の作法を定めたという。これは、仏教が中国に伝わってから、180年余りのことであったという見解である。ところで、これが、どこを典拠に...中国仏教の授戒の初めについて
童子と学生について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・14)
14回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、比丘の下に学びに来ていた者についての話である。凡そ諸白衣、苾芻の所に詣で、若しくは専ら仏典を誦し、情に落髪を希み、願いて緇衣に畢るを、号して童子と為す。或は外典を求めて出離に心ろ無きを、名て学生と曰ふ。斯の二流、並に須らく自食すべし〈西国の僧寺、多く学生有り、来りて苾芻に就いて外典を習学す、一には駆馳して給侍することを得、二には乃ち教えて好心を発せしむ。既に自利利他有...童子と学生について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・14)
タイトルの通りなのだが、少しく気になる文章を見付けたので、学んでみたい。第一、結解僧界法〈律に云わく、時に世、飢饉なり。余処の比丘、王舎城に集まる。僧房、皆な空なり、人の守護すること無し。開するに因りて、各おの本界を解き、通じて一界を結ぶ。後の時、豊足して、通を解し已りて還た小界を結ぶ。又、初縁の時、界内に別衆集まらずに受戒と為す。遂に界外に小界を結んで受くることを開き、名づけて戒壇と曰う。若し受戒し竟りて応に捨てるべきは、坊内に於いて受戒を作す。又、比丘と為る将に受戒の人、壇処に至りて、賊に遇いて剥かるるは、因みに坊内に於いて受戒場を作ることを聴す。応に先に僧坊の界を捨て、然る後に界戒場を結ぶ。相い内地を除くと唱え、更に僧坊界を結ぶ。此れ則ち先づ戒場を結び後に大界を結ぶ。先づ界外を結ぶは、是れ対して小界...僧伽の結界と戒壇の関係について