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こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。 日曜日は主人の叔父が亡くなり、告別式に参列いたしました。家族葬でした。享年99歳。点滴のみになられて瘦せられた…
「南天棒」こと中原鄧州老師(1839~1925)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶であり、常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡って修行者を容赦なく殴打したため、先のように呼ばれた。こういう「厳しいのが「禅」」だと思っている人には、とても人気であるという。それで、今回の記事は、先に挙げたタイトルの通りだが、南天棒の言葉に、道元禅師『正法眼蔵』「嗣書」巻への批判が見えたので、それを見つつ、批判の射程と、その可否について検討してみたい。まぁ、宗派が違うので、南天棒自身は「是」として主張したのだろうが、洞門の拙僧としてはそのまま同意するわけにもいかない。嗣法の原理はこの勘定では分からぬ。嗣法の広大無辺にして際涯なき無量心に参ぜねばならぬ。時間の不可得なる所をも参詳するがよい。早く合点の行くように...南天棒による『正法眼蔵』「嗣書」巻批判?
全ての存在に慈しみの心を持ち、愛せる人は、全ての存在から慈しみの心を持たれ、愛される人。
無事是貴人(ぶじこれきにん)(臨済録 臨済禅師)この言葉の中の「無事」とは、大変な事、困った事が取り立てて起こらず、平穏無事に、普段と変わりない、平凡な日常が過ごせている、という意味ではありません。日々、自己を律して、仏道修行に猛進し、励もうとする心も、時に、煩悩に打ち負かされ、自己を律する事無く、怠慢な日々を過ごそうとする心も、そのような、善きも悪しきも、何かを求める心を完全に手離して、ありのま...
日本に臨済宗黄竜派の法系を将来された明庵栄西禅師といえば、『興禅護国論』『喫茶養生記』『受禅戒作法』などの著作に合わせて、叢林修行の基礎を記した『出家大綱』(正治2年1月6日著、余談だが道元禅師御生誕の頃になる)が知られている。今日は、栄西禅師が記された「五観」を見ていきたい。その前に、曹洞宗では、道元禅師が伝えられた「五観の偈」が『赴粥飯法』に記されていて、その出典や解釈については、江戸時代の面山瑞方禅師『受食五観訓蒙』(『曹洞宗全書』「注解四」)にて明らかにされるところでもあるので、それをご覧いただきたいところであるが、一応本文のみ記しておこう。一計功多少量彼来処(一には功の多少を計り、彼の来処を量る)。二忖己徳行全欠応供(二には己が徳行の、全欠を忖って供に応ず)。三防心離過貪等為宗(三には心を防ぎ過...栄西禅師の「五観の偈」
人間が神のことを知りつくせるはずがない。知りうるわけがない。知らないものが他の宗教を批判出来るはずがない。「わかった」「悟った」の危険。この話は横田南嶺管長&片柳弘史神父ご対談4/6で行われています。お二人の話はまったく宗教が違うのに話が噛み合っていて非常に面白い。神と出会ったことによって自分たちだけが神のことをすべてわかったような正しく知っていると思い込んでいる。これは何の話でも通じる話です。自分...
これは、中世の臨済宗で用いていた得度作法の1つである。16世紀中頃に成立した『諸回向清規』巻5に「戒法之品次(以下、「品次」と略記)」として収録されている。それで、宗門の得度作法と比べてみると一目瞭然だが、この作法は瑩山紹瑾禅師が弟子であった臨済宗法灯派の孤峰覚明に元亨4年(1324)に授けた『出家得度略作法(以下、『略作法』と略記)』にほぼ相当している。この記事では両者の違いについて述べることとしたい。ただし、細かな文言の違いについては、余程の思想的有意味性が確認されなければ省略する。それで、まず記述上の大きな違いといえば、「三衣」の授与であろうか。『略作法』では「剃髪・授坐具・授袈裟」と進み、「授袈裟」では「九条衣」を授けて、「搭袈裟偈」となるけれども、「品次」では「五条・七条・九条」と進むようになっ...『諸回向清規』巻5「戒法之品次」について
大黒天を祀る臨済宗の寺。。。 えべっさんの日は、まずここへお参りしてから、道を隔てた隣の蛭子神社へ行く。 皆そうなのか。。。どうなのか 初日に行ったが、…
こんにちは!メグおばちゃんです。11月10日の日曜日はどこにも出かけず、気になっていたエアコンのお掃除と冬の掛け布団やこたつ布団を<冬支度>ということで準備しました。今週は、ちょっと気温が高めですが、やっぱり冬用のお布団やこたつ布団は、いいですね。さて、本日は連休に訪れた山梨話の続編です。西沢渓谷から車で約20分、甲州市の【恵林寺(えりんじ)】というお寺に到着した私たち夫婦。夏に昇仙峡を訪れた時に、立ち...
『沢水法語毎聞記』という文献は、越後国出身と伝えられる沢水長茂禅師という人が、出家・在家問わずに聴聞に来た人に語ったことを、侍者の恵俊という僧がまとめたものであり、全28節からなる。拙僧の手元には、元文五載庚申二月に恵俊が跋文を記し、京寺町野田弥兵衛・江戸通石町野田太兵衛蔵版の印刻本がある。『澤水法語(全)』の題簽(内題は、『澤水法語毎聞記』)を持っているものだが、今日はそれから翻刻しつつ参究してみたいと思う。ところで、色々と調べてみたのだが、この沢水和尚という人は、元々上杉謙信(1530~1578)に仕える武士だったようだが、その後出家して、臨済宗の抜隊得勝禅師(1327~1387)の法語を読んで宗旨を得たという。『沢水法語毎聞記』の「十八抜隊法語の初行を示す事」で同法語を採り上げており、自身の提唱にも...『沢水法語毎聞記』「持戒行事」参究
これは、【『幻住庵清規』「開甘露門」に見る「五戒」について】で考えたことの焼き直しである。先の記事では、拙僧自身が「開甘露門」全体を理解していなかったので、ちょっとピントが外れた記事となっていた。そこで、改めて「開甘露門」を読み直したところ、この一節は、「普施法食文」と「盂蘭盆施食」という2パターンの法要について書いていることを理解した。前回の記事は、前者についての内容であった。しかし、後半の法要として行う場合に詠まれる文言を見ると、以下のような一節があった。若し過去現在の身口意業を懺悔し披陳せざれば、則ち倒懸を解くべからず。既に懺悔し已りても、若し帰依三宝せざれば、仏を称して師と為すも、則ち倒懸を解くべからず。既に帰依三宝しても、若し如来真浄戒法を具受せざれば、則ち倒懸を解くべからず。既に戒を具し已りて...『幻住庵清規』「開甘露門」に於ける「受戒」の意義について
栄西は保延7年(1141)、吉備国総鎮護の吉備津神社の神職・賀陽(がや)氏の子として生まれ幼名は千寿丸といい14歳で比叡山に出家し栄西の僧名を受け以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学び仁安3年(1168)28歳の時に栄西は初めて中国(南宋)に渡ります。禅宗は唐時代に始まり一時弾圧を受けていましたが宋代には国家仏法にもなっていて広まっていました。しかし最初の入宋の際には栄西は天台の典籍を持ち帰り、比叡山天台座主・明雲に献呈しました。文治元年(1185)に後鳥羽上皇の勅により祈雨の修法を行い【葉上】の号を賜り栄西は【葉上房】とも呼ばれます。文治3年、47歳の時に二度目の…
臨済宗向嶽寺派本山向嶽寺@甲州市(塩山)、山梨(マイラー御朱印修行記録09)
臨済宗向嶽寺派本山向嶽寺@甲州市(塩山)、山梨(マイラー御朱印修行記録09)訪問難易度;易旧塩山市にあるのが、東京から最も近い臨済宗本山である臨済宗向嶽寺派本山向嶽寺。塩山駅からも徒歩圏内ですので18きっぷでの日帰り参拝もOKです。ここは純粋に本山機能を果たす修行道場で、建物内を観光客に見せるといったことはやってません(檀家は別なんでしょうが)。従って、観光客向けの境内案内図やリーフレットなどというもの...
今日2月15日は釈尊涅槃会である。以前アップした【曹洞宗に於ける涅槃会について】という記事を作る過程に於いて、中国禅宗の北礀居簡禅師(1164~1246)に釈尊涅槃会に因んだ「斎忌疏」があると知った。そこで、今日はその内容を見てみようと思うのだが、北礀禅師には『北礀詩集』全10巻があるので、まずはそれを一読した。すると、「斎忌疏」という名称を持つ「疏」自体は発見できなかったが、類似する「疏」を見出したので、今日はそれを学んでみたい。二月十五仏涅槃疏伝灯白日無し、長不夜の光明を開く、瞑に兮黄昏を作し、本不常の代謝を見ては、其の法固応を与えり、尓曷ぞ身の先之に徇るが故に花笑鴬啼に於けるが若し、示に鐘残漏尽を以て、輪は再転を希ふ、曽て吾が転輪を聞いて耶、道は当成に記す、既に予が行道を見て矣、重ねて万字を摩す、双...北礀居簡禅師「斎忌疏」について(令和6年・釈尊涅槃会)
仲間内の雑談の折、話の流れからひょっこり話題が「お茶」に飛んで、一人がこんな発言を。~日本に「お茶」を伝えたのは、確か僧・栄西サンのはずだッ~見るからに自信満々の発言だ。突拍子もないタイミングだったこともあって一同の反応は芳しくない。そこで、発言者は子細
臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓...江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について
中外日報妙心寺派次期管長に山川宗玄・正眼僧堂師家 小倉管長の2期目任期途中の辞任に伴い:中外日
にほんブログ村にほんブログ村 亀有香取神社の例大祭で「BEYBLADE X」体験会 地元葛飾で初開催亀有香取神社(葛飾区亀有3)で9月16日・17日に行われる…
旧暦の日付では、という条件は付くけれども、7月5日は栄西禅師の忌日とされる。以前も見たことがあるのだが、この辺は少し後の時代にはなるけれども、以下の記事を参照しておきたい。さて、かの僧正、鎌倉の大臣殿に暇を申して、京に上りて、臨終仕らん、と申し給ひければ、御年たけて、御上洛煩はしくも侍り。いづくにても御臨終あれかし、と仰せられけれども、遁世聖を世間に賤しく思ひ合ひて候ふ時、往生して京童部に見せ候はん、とて、上洛して、六月晦日の説戒に、最後の説戒の由ありけり。七月四日、明日終るべき由披露し、説戒目出くし給ひけり。人々、最後の遺戒と思へり。公家より御使者ありけるに、客殿にして御返事申して、やがて端座して化し給ひにけり。門徒の僧どもは、由なし披露かな、と思ひけるほどに、同じき五日、安然として化し給ひけり。かたが...7月5日栄西禅師忌(令和5年度版)
ブログにお越しくださりありがとうございます。義理父の 25年忌 でお寺さんとお墓参りに行って来ました。菩提寺は 浄土宗 の大池山青蓮寺「高月院」と言い総本山が「 知恩院」。佐土原島津家 の菩提寺でもあり、昭和天皇の第7子の島津貴子さんも、機
にほんブログ村 愛知県知多郡在、曹洞宗の誓海寺。 禅寺だけに、墨絵のような落ち着いた御朱印が、わてのお気に入りです。 今月も、下記2体のお書入れを、お願いしました。 (
【神奈川】臨済宗建長寺派「東学寺」で新たにいただけるようになったステキな【切り絵御朱印】
【神奈川】神奈川県小田原市別堀の 臨済宗建長寺派東学寺 【東学寺 御朱印】 【東学寺 御朱印】 【山門】 【本堂】【宗 派】臨済宗建長寺派【山 号】…
【お墓参りに行ってきました 『臨済宗 光林寺』 ★ 今日の夕食は『ひき肉&玉ねぎ&にんじんのオムレツ』】
★ お墓参りに行ってきました 『臨済宗 光林寺』 ★ 今日の夕食は『ひき肉&玉ねぎ&にんじんのオムレツ』 秋のお彼岸(9月20日~26日)なので お墓参りに行ってきました お参りを済ませて実家へ”
***** 小旅のルート ***** 車折神社、鹿王院(2020年40-1 & 2) - Google マイマップ2022年7月5、6,9日の記事www.g…
平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、武士や庶民に仏教の教えが広まりました。 それまでの仏教は教義が難しく庶民には理解しにくいものでした。 また、戦乱で命のやりとりをする武士にとって求められているものに十分に応えられているものでもありませんでした。 そんな状況を受けて、...