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今日2月15日は釈尊涅槃会である。以前アップした【曹洞宗に於ける涅槃会について】という記事を作る過程に於いて、中国禅宗の北礀居簡禅師(1164~1246)に釈尊涅槃会に因んだ「斎忌疏」があると知った。そこで、今日はその内容を見てみようと思うのだが、北礀禅師には『北礀詩集』全10巻があるので、まずはそれを一読した。すると、「斎忌疏」という名称を持つ「疏」自体は発見できなかったが、類似する「疏」を見出したので、今日はそれを学んでみたい。二月十五仏涅槃疏伝灯白日無し、長不夜の光明を開く、瞑に兮黄昏を作し、本不常の代謝を見ては、其の法固応を与えり、尓曷ぞ身の先之に徇るが故に花笑鴬啼に於けるが若し、示に鐘残漏尽を以て、輪は再転を希ふ、曽て吾が転輪を聞いて耶、道は当成に記す、既に予が行道を見て矣、重ねて万字を摩す、双...北礀居簡禅師「斎忌疏」について(令和6年・釈尊涅槃会)
仲間内の雑談の折、話の流れからひょっこり話題が「お茶」に飛んで、一人がこんな発言を。~日本に「お茶」を伝えたのは、確か僧・栄西サンのはずだッ~見るからに自信満々の発言だ。突拍子もないタイミングだったこともあって一同の反応は芳しくない。そこで、発言者は子細
臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓...江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について
中外日報妙心寺派次期管長に山川宗玄・正眼僧堂師家 小倉管長の2期目任期途中の辞任に伴い:中外日
にほんブログ村にほんブログ村 亀有香取神社の例大祭で「BEYBLADE X」体験会 地元葛飾で初開催亀有香取神社(葛飾区亀有3)で9月16日・17日に行われる…
旧暦の日付では、という条件は付くけれども、7月5日は栄西禅師の忌日とされる。以前も見たことがあるのだが、この辺は少し後の時代にはなるけれども、以下の記事を参照しておきたい。さて、かの僧正、鎌倉の大臣殿に暇を申して、京に上りて、臨終仕らん、と申し給ひければ、御年たけて、御上洛煩はしくも侍り。いづくにても御臨終あれかし、と仰せられけれども、遁世聖を世間に賤しく思ひ合ひて候ふ時、往生して京童部に見せ候はん、とて、上洛して、六月晦日の説戒に、最後の説戒の由ありけり。七月四日、明日終るべき由披露し、説戒目出くし給ひけり。人々、最後の遺戒と思へり。公家より御使者ありけるに、客殿にして御返事申して、やがて端座して化し給ひにけり。門徒の僧どもは、由なし披露かな、と思ひけるほどに、同じき五日、安然として化し給ひけり。かたが...7月5日栄西禅師忌(令和5年度版)
ブログにお越しくださりありがとうございます。義理父の 25年忌 でお寺さんとお墓参りに行って来ました。菩提寺は 浄土宗 の大池山青蓮寺「高月院」と言い総本山が「 知恩院」。佐土原島津家 の菩提寺でもあり、昭和天皇の第7子の島津貴子さんも、機
にほんブログ村 愛知県知多郡在、曹洞宗の誓海寺。 禅寺だけに、墨絵のような落ち着いた御朱印が、わてのお気に入りです。 今月も、下記2体のお書入れを、お願いしました。 (
【神奈川】臨済宗建長寺派「東学寺」で新たにいただけるようになったステキな【切り絵御朱印】
【神奈川】神奈川県小田原市別堀の 臨済宗建長寺派東学寺 【東学寺 御朱印】 【東学寺 御朱印】 【山門】 【本堂】【宗 派】臨済宗建長寺派【山 号】…
【お墓参りに行ってきました 『臨済宗 光林寺』 ★ 今日の夕食は『ひき肉&玉ねぎ&にんじんのオムレツ』】
★ お墓参りに行ってきました 『臨済宗 光林寺』 ★ 今日の夕食は『ひき肉&玉ねぎ&にんじんのオムレツ』 秋のお彼岸(9月20日~26日)なので お墓参りに行ってきました お参りを済ませて実家へ”
***** 小旅のルート ***** 車折神社、鹿王院(2020年40-1 & 2) - Google マイマップ2022年7月5、6,9日の記事www.g…
平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、武士や庶民に仏教の教えが広まりました。 それまでの仏教は教義が難しく庶民には理解しにくいものでした。 また、戦乱で命のやりとりをする武士にとって求められているものに十分に応えられているものでもありませんでした。 そんな状況を受けて、...