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先日アップした【「三防心離過貪等為宗」について】の続きとして、簡単な記事を一本書いておきたい。先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となって...観法としての「五観の偈」について
これは、禅宗系の食事作法で用いる「五観の偈」の第三句が、タイトルに用いた「三防心離過貪等為宗」である。この読み方については、近代以降、何度か疑義を呈されていたようである。確かに、現行、読まれている通りの訓読法をすると、かなりややこしいこととなる。三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗と(為)す。・・・意味不明。これを、直訳すると、「三つ目には、心を防ぎ、過ちを離れることとは、むさぼり等を宗(拠り所)としている(と観ずるべきである)」となるだろう。「むさぼり等をよりどころ」?ここがツッコミどころである。だけれども、「宗」という言葉を訳すと、どうしてもこのように理解してしまいたくなる。よって、疑義を呈さざるを得ないのである。一方で、臨済宗などでは、次のように読んでいるという。三つには、心を防ぎ過貪等を離る...「三防心離過貪等為宗」について