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さて、ここ数回の関連記事のおかげで、現行の「五観の偈」が、何故このような用いられ方をしているのかが分かってきたように思う。そして、既に拙ブログでは、現行の唱え方が明治時代以降に選ばれた慣習である可能性にまで辿り着いている。その証拠として、明治時代に編まれた『洞上行持軌範』を考えてみたい。これは、近代曹洞宗教団で作成された、全国画一型の軌範である。そこで、江戸時代の「五観の偈」については、面山禅師『僧堂清規』と、玄透禅師『永平小清規』で若干の相違点があったことが分かった。そうなると、相違の克服は、『洞上行持軌範』で図られたと思われ、結果、それが現行の作法になっていると考えるのが妥当である。よって、以下に確認したい。大衆は遍槌を聞て普同合掌し、次に揖食し畢て定印を結び五観の偈を想念し、微音に唱て云く、一計功多...『洞上行持軌範』巻上の「五観の偈」について
江戸時代に刊行された『寮中清規』を入手して、読んでいた所、次の一節を見つけた。己れが徳行の全缺を忖って供に応ずるは、街坊化主に報ずる所以なり。功の多少を計り彼の来処を量るは、園頭磨頭荘主に報ずる所以なり。『亀鏡文』『亀鏡文』は元々、『禅苑清規』に収められているもので、同清規の著者である雲門宗・長蘆宗賾禅師によって編まれた。それで、或る意味この両句は、「五観の偈」第二句・第一句目の解釈法の1つであるといえよう。前後の文脈を読んでも、何故ここに、「五観の偈」の、それも最初の二句だけが使われているのか良く分からない・・・その上で考えてみると、この二句は、自分が何故、このような観法(一応「五観」なので)を行うのか、その理由を考えていることになる。そして、その対象が、叢林の経済・経営を支えていた当事者であると思われ...『亀鏡文』に見える「五観の偈」
たまたま「初学法(仏道修行の初心者が行う規範)」について調べていたところ、浄土宗西山派の「五観の偈」があったので紹介しておきたい。なお、これを現在も同宗派で使っているかは知らない。詳しい人は、コメントでもメールでも良いので、ご一報いただければ幸いである。典拠だが、『大正蔵』巻74に収める『新学菩薩行要抄』であり、浄土宗西山派三鈷寺流に籍を置いていた実導仁空(1309~1388)が口述したものであるという。以下の通りである。五観実相食を観じて其の来処を計る己の徳行を忖り全く三行を缺く心を防ぎ三毒を捨離するを宗と為す法性良薬の為形苦を療ず法身を資する為応に此の食を受くべし一応、訓読は『大正蔵』の返り点に順ってみたが、まぁ、現在我々曹洞宗が、道元禅師撰『赴粥飯法』を由来として使っているものとはずいぶんと隔たりが...浄土教系の「五観の偈」
ちょっと前から目を通すようにしている日蓮宗系の『草山清規』(明治29年刊)なのだが、その中にも「五観」があることが分かった。それで、これは典拠があるのか?と思い調べていたところ、日本の天台宗系の規範にも出ているようなので、「法華系『五観の偈』」ということでまとめてみた。そこで、台巌編『法華礼誦要文集』(村上勘兵衛、明治11年)から「五観」を引用してみたい。観実相食計其来処忖己徳行全欠三行防心離過三毒為宗法性良薬為療形苦為資法身応受此食引用に当たって旧字体を新字体に改めるなお、同著ではフリガナも無く、ただこの本文のみが掲載されている。なお、6年後に出た同著のカタカナ付きではフリガナがあるのだが、一句目が「クワンジツサウジキケゴライショ」などとあって、ただ音読みしている様子が分かる。そこで、今度は意味が通るよ...法華系「五観の偈」について
日本に臨済宗黄竜派の法系を将来された明庵栄西禅師といえば、『興禅護国論』『喫茶養生記』『受禅戒作法』などの著作に合わせて、叢林修行の基礎を記した『出家大綱』(正治2年1月6日著、余談だが道元禅師御生誕の頃になる)が知られている。今日は、栄西禅師が記された「五観」を見ていきたい。その前に、曹洞宗では、道元禅師が伝えられた「五観の偈」が『赴粥飯法』に記されていて、その出典や解釈については、江戸時代の面山瑞方禅師『受食五観訓蒙』(『曹洞宗全書』「注解四」)にて明らかにされるところでもあるので、それをご覧いただきたいところであるが、一応本文のみ記しておこう。一計功多少量彼来処(一には功の多少を計り、彼の来処を量る)。二忖己徳行全欠応供(二には己が徳行の、全欠を忖って供に応ず)。三防心離過貪等為宗(三には心を防ぎ過...栄西禅師の「五観の偈」
「いただきます」に込められた意味とは?~一杯のお粥から見えるもの~
本日は、皇紀🎌2685年令和7年西暦2025年3月26日水曜日です。 みなさん、「いただきます」という食事のあいさつにどういった意味が込められているか知っていますか🍚? 私が中学生だった時、理科の先生が「お命をいただきます」という意味だと教えてくれたことを今でも覚えています。 実は「いただきます」という言葉にはこんな思いが込められているのです! 天地(あめつち)の恵みと、多くの人々の働きに感謝して、生命(いのち)のもとを慎んでいただきます。 私はこのことを参政党の重松ゆうこさんのユーチューブの動画で知りました。 (どの動画だったか探したのですが、分かりませんでした) ★重松ゆうこさんのユーチュ…
先日アップした【「三防心離過貪等為宗」について】の続きとして、簡単な記事を一本書いておきたい。先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となって...観法としての「五観の偈」について
これは、禅宗系の食事作法で用いる「五観の偈」の第三句が、タイトルに用いた「三防心離過貪等為宗」である。この読み方については、近代以降、何度か疑義を呈されていたようである。確かに、現行、読まれている通りの訓読法をすると、かなりややこしいこととなる。三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗と(為)す。・・・意味不明。これを、直訳すると、「三つ目には、心を防ぎ、過ちを離れることとは、むさぼり等を宗(拠り所)としている(と観ずるべきである)」となるだろう。「むさぼり等をよりどころ」?ここがツッコミどころである。だけれども、「宗」という言葉を訳すと、どうしてもこのように理解してしまいたくなる。よって、疑義を呈さざるを得ないのである。一方で、臨済宗などでは、次のように読んでいるという。三つには、心を防ぎ過貪等を離る...「三防心離過貪等為宗」について