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江戸時代に刊行された『寮中清規』を入手して、読んでいた所、次の一節を見つけた。己れが徳行の全缺を忖って供に応ずるは、街坊化主に報ずる所以なり。功の多少を計り彼の来処を量るは、園頭磨頭荘主に報ずる所以なり。『亀鏡文』『亀鏡文』は元々、『禅苑清規』に収められているもので、同清規の著者である雲門宗・長蘆宗賾禅師によって編まれた。それで、或る意味この両句は、「五観の偈」第二句・第一句目の解釈法の1つであるといえよう。前後の文脈を読んでも、何故ここに、「五観の偈」の、それも最初の二句だけが使われているのか良く分からない・・・その上で考えてみると、この二句は、自分が何故、このような観法(一応「五観」なので)を行うのか、その理由を考えていることになる。そして、その対象が、叢林の経済・経営を支えていた当事者であると思われ...『亀鏡文』に見える「五観の偈」
たまたま「初学法(仏道修行の初心者が行う規範)」について調べていたところ、浄土宗西山派の「五観の偈」があったので紹介しておきたい。なお、これを現在も同宗派で使っているかは知らない。詳しい人は、コメントでもメールでも良いので、ご一報いただければ幸いである。典拠だが、『大正蔵』巻74に収める『新学菩薩行要抄』であり、浄土宗西山派三鈷寺流に籍を置いていた実導仁空(1309~1388)が口述したものであるという。以下の通りである。五観実相食を観じて其の来処を計る己の徳行を忖り全く三行を缺く心を防ぎ三毒を捨離するを宗と為す法性良薬の為形苦を療ず法身を資する為応に此の食を受くべし一応、訓読は『大正蔵』の返り点に順ってみたが、まぁ、現在我々曹洞宗が、道元禅師撰『赴粥飯法』を由来として使っているものとはずいぶんと隔たりが...浄土教系の「五観の偈」
今日は3月6日なので、語呂合わせで「三徳六味」について学びたいと思う。なお、この語句が、禅僧の問答のテーマになることがある。問う、「三徳六味を離れず、還た仏法有りや、也た無しや」。師云く、「秖だ爾の不問を怕るる」。進みて云く、「請うらくは師よ、道え」。師云く、「三徳六味、施仏及僧」。『雲門録』巻上『雲門録』は、簡潔な言葉で仏法の要点を示すところにその特徴があったりするので、この一節も、正しい意味というのは採りにくい。あくまでも、拙僧なりの読み方であることをお断りした上で、こう読んだ。三徳六味とは、あくまでも、供養である。よって、問者は供養を離れない仏法の有無を尋ねているといえよう。それに対して、雲門文偃は、この問者が、仏法の要点について聞いていないことを怖れるとした。そこで、問者は改めて、雲門に対し、正し...「三徳六味」の話(令和7年版)
知って損しないお茶の出し方・入れ方 来客・ビジネスマナーお茶の出し方と淹れ方
お茶の出し方と淹れ方 お茶はおもてなしの気持ちとマナー どんな時にお茶を出す?お茶はおもてなしの基本 友人宅や
の、脳膜! ノウマク!! さ、散漫! のうまく・さんまんだーーーっ!www のうまく さんまんだ ぼだなん えんまや そわか えーーー、失礼(汗)。 本日は散漫なお話にならないように注意しようと思って(笑)。 まだ例の話題がエックスで盛り上がっているようなのでまたお話を少しだけ追加したい。 それは、誰かのツイートからネタになったもので、 「>ご飯を一粒残さず食べる人を見るとイライラします。 >見て...
先日アップした【「三防心離過貪等為宗」について】の続きとして、簡単な記事を一本書いておきたい。先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となって...観法としての「五観の偈」について
これは、禅宗系の食事作法で用いる「五観の偈」の第三句が、タイトルに用いた「三防心離過貪等為宗」である。この読み方については、近代以降、何度か疑義を呈されていたようである。確かに、現行、読まれている通りの訓読法をすると、かなりややこしいこととなる。三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗と(為)す。・・・意味不明。これを、直訳すると、「三つ目には、心を防ぎ、過ちを離れることとは、むさぼり等を宗(拠り所)としている(と観ずるべきである)」となるだろう。「むさぼり等をよりどころ」?ここがツッコミどころである。だけれども、「宗」という言葉を訳すと、どうしてもこのように理解してしまいたくなる。よって、疑義を呈さざるを得ないのである。一方で、臨済宗などでは、次のように読んでいるという。三つには、心を防ぎ過貪等を離る...「三防心離過貪等為宗」について
「食に激高する人」、このお題はちょっと興味深いものがあります。 誰でも身近な人で思い当たる人がいるのではないか。「ああ、あの人」、とw。 食事に敏感な人。 別に好き嫌いっていうのでもない。 何も星一徹みたいにちゃぶ台をひっくり返すのとも違うw。(古っw) 何かそういう人は食べる時がとてもセンシティブなのです。食事というものが。 邪魔されたくないとか、ケチをつけられたくないとか、聖域のように守ってい...
私にとっては人生は無理の多い、常に気張っていないとならない相手だ。 いつも何かしら私は困難を抱えている。 人生は油断はできず、ウッカリすればやるべきことを見逃してしまう。見つけたはずが忘れてどこかに置いてきてしまう。 そうなればとたんにそれは手のひらからこぼれ消え失せる。 過ぎてしまえば後悔しても取り返しはつかない。 私はまるで通り過ぎた踏み切りを車窓から身を乗り出して見送っているようだ。遮断機...
わずかに例外はありますが、基本はご飯茶椀を持って箸でご飯をまとめ、口に運んで食べるというのが作法なわけです。 ドンブリに口をつけてワシワシとやるのはせいぜい若いうち。 「犬食い」なんて言われてしまいます。 アタシが子供の頃はちゃんとこの「犬食い」の何がいけないのか説明がありました。 いわく、 「ボソボソして箸で掴めないような飯、ヒエや粟の入った粗末な飯を食って育ったからそんな風に食べるのが習慣に...
いまさらいい歳をして「生活の改善」なんてアホみたいに聞こえるかも知れませんが、いつだって「カイゼン」の余地というのはあるものです。 何だって「良くしよう」というのはあっていいと思います。 昨日にお話した関節あたりの不調だってカイゼンすべき姿勢があったりするそうです。ちょっとした立ち上がり方の工夫だけでよくなることもあるとか。 「カイゼン(4170)」なんて会社もあるぐらいですw。 企業のDXの補助を業...
寿司テロ 外食チェーン店での客の迷惑行為が話題になっています。以前も似たような話があった記憶があります。今回の「寿司テロ」にせよ「バイトテロ」にせよ、その結果は、当の本人たちの軽はずみな考えに見合わない深刻なものになることは知らないはずもないのでしょうが、このような迷惑行為は、厳罰化や防止策の抜本的な見直しが行なわれない限り後を絶たないのだと思いました。 迷惑行為が、同席者の“ウケ”を狙ったものなのか、SNSでバズることが目的だったのかはさておき、食べ物を粗末に扱うことや、後から来る別の客のことを考えない行ないに弁解の余地はありません。 店側が被る被害の甚大さからすると、「寿司テロ」のキャッチ…