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明庵栄西禅師(1141~1215)といえば、臨済宗黄竜派の系統を日本に将来され、鎌倉の寿福寺や、京都の建仁寺、博多の聖福寺を開山されるなどしており、まさに日本禅宗の開祖に相応しい活躍をされた方である。なお、我々曹洞宗の高祖道元禅師も、「師翁」として慕う方である。その栄西禅師だが、中国留学を2度ほど敢行しており、1度目は1168年に5ヶ月ばかり、特に2度目は1186年から5ヶ年の入宋を行い、天台山などにいた虚庵懐敞禅師の法嗣となった。そして、中国留学中に、或る「飲み物」を貰っていることを記されている。栄西、昔、唐に在る時、天台山より明州に到る。時に六月十日なり。極熱にして気絶す。時に店主有りて言いて曰く「法師遠く来たって汗多し、恐らくは病を発さん」と。すなわち丁子一升に、水一升半許を取って、久しく煎じて二合...栄西禅師が飲んだ丁子茶って?
明庵栄西禅師(1141~1215)は、中国に二度留学して、二度目の留学時には臨済宗黄竜派の虚庵懐敞禅師から法を嗣いで帰国されている。なお、帰国後、栄西禅師は、中国天童山の伽藍修築のため、日本から木材を送るなどしたという。そこで、栄西禅師が遷化された後、日本から弟子の明全和尚と、道元禅師など一行が中国に渡った時、栄西禅師の年忌を修行したという。その経緯について、『日本国千光法師祠堂記』(『続群書類従』9上)に書いているので、見て行きたいと思う。臨終を予め期して、両手に印を結び、安坐して化す。寿は七十五、臘は六十二。後十年、其の徒明全、復山中に来たりて、捐楮券千緡を諸庫に寄せて、転息して七月五日の忌、冥飯を設ける為とす。衆の本孝なり。このようにある。そこで、ここで考えてみたいのはこの供養自体がいつ行われたかと...天童山に於ける栄西禅師供養について
『正法眼蔵随聞記』には、道元禅師が実際に栄西禅師に参じていたからこそ言及出来たであろう文脈が複数存在している。当方はそれを理由に、おそらく道元禅師は栄西禅師と相見し、参学していたと考えている。無論、従来の先行研究では、これらの文脈は全て、明全和尚などの栄西禅師門人から聞いたもの、という風に判断している場合もある。だが、当方は先行研究の根拠が、その当該著者の主観的雑感でしかないことに不満を抱いている。つまり、この辺、証明は出来ないのだ。さておき、今回の記事では以下の一節を見ておきたい。示云、故僧正建仁寺に御せし時、独の貧人来て道て云、「我家貧にして絶煙及数日、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是を救ひ給へ」と云ふ。其時、房中に都て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽ぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、...栄西禅師が犯した罪は何だったのか?
旧暦の日付では、という条件は付くけれども、7月5日は栄西禅師の忌日とされる。以前も見たことがあるのだが、この辺は少し後の時代にはなるけれども、以下の記事を参照しておきたい。さて、かの僧正、鎌倉の大臣殿に暇を申して、京に上りて、臨終仕らん、と申し給ひければ、御年たけて、御上洛煩はしくも侍り。いづくにても御臨終あれかし、と仰せられけれども、遁世聖を世間に賤しく思ひ合ひて候ふ時、往生して京童部に見せ候はん、とて、上洛して、六月晦日の説戒に、最後の説戒の由ありけり。七月四日、明日終るべき由披露し、説戒目出くし給ひけり。人々、最後の遺戒と思へり。公家より御使者ありけるに、客殿にして御返事申して、やがて端座して化し給ひにけり。門徒の僧どもは、由なし披露かな、と思ひけるほどに、同じき五日、安然として化し給ひけり。かたが...7月5日栄西禅師忌(令和5年度版)