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『正法眼蔵随聞記』には、道元禅師が実際に栄西禅師に参じていたからこそ言及出来たであろう文脈が複数存在している。当方はそれを理由に、おそらく道元禅師は栄西禅師と相見し、参学していたと考えている。無論、従来の先行研究では、これらの文脈は全て、明全和尚などの栄西禅師門人から聞いたもの、という風に判断している場合もある。だが、当方は先行研究の根拠が、その当該著者の主観的雑感でしかないことに不満を抱いている。つまり、この辺、証明は出来ないのだ。さておき、今回の記事では以下の一節を見ておきたい。示云、故僧正建仁寺に御せし時、独の貧人来て道て云、「我家貧にして絶煙及数日、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是を救ひ給へ」と云ふ。其時、房中に都て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽ぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、...栄西禅師が犯した罪は何だったのか?
旧暦の日付では、という条件は付くけれども、7月5日は栄西禅師の忌日とされる。以前も見たことがあるのだが、この辺は少し後の時代にはなるけれども、以下の記事を参照しておきたい。さて、かの僧正、鎌倉の大臣殿に暇を申して、京に上りて、臨終仕らん、と申し給ひければ、御年たけて、御上洛煩はしくも侍り。いづくにても御臨終あれかし、と仰せられけれども、遁世聖を世間に賤しく思ひ合ひて候ふ時、往生して京童部に見せ候はん、とて、上洛して、六月晦日の説戒に、最後の説戒の由ありけり。七月四日、明日終るべき由披露し、説戒目出くし給ひけり。人々、最後の遺戒と思へり。公家より御使者ありけるに、客殿にして御返事申して、やがて端座して化し給ひにけり。門徒の僧どもは、由なし披露かな、と思ひけるほどに、同じき五日、安然として化し給ひけり。かたが...7月5日栄西禅師忌(令和5年度版)