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明庵栄西禅師(1141~1215)は、中国に二度留学して、二度目の留学時には臨済宗黄竜派の虚庵懐敞禅師から法を嗣いで帰国されている。なお、帰国後、栄西禅師は、中国天童山の伽藍修築のため、日本から木材を送るなどしたという。そこで、栄西禅師が遷化された後、日本から弟子の明全和尚と、道元禅師など一行が中国に渡った時、栄西禅師の年忌を修行したという。その経緯について、『日本国千光法師祠堂記』(『続群書類従』9上)に書いているので、見て行きたいと思う。臨終を予め期して、両手に印を結び、安坐して化す。寿は七十五、臘は六十二。後十年、其の徒明全、復山中に来たりて、捐楮券千緡を諸庫に寄せて、転息して七月五日の忌、冥飯を設ける為とす。衆の本孝なり。このようにある。そこで、ここで考えてみたいのはこの供養自体がいつ行われたかと...天童山に於ける栄西禅師供養について