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スーパーでたくさんの食品を買い、お金は減り、体重は増えても、自分の命の価値、人生の価値は、永久不変に変わらない。
是諸法空相(ぜしょほうくうそう)、不生不滅(ふしょうふめつ)、不垢不浄(ふくふじょう)、不増不減(ふぞうふげん)、是故空中(ぜこくうちゅう)、無色無受想行識(むしきむじゅうそうぎょうしき)(摩訶般若波羅蜜多心経、まかはんにゃはらみったしんぎょう) この世界の諸法(全てのもの、一切の存在、森羅万象の全て)は、姿、形、状態は、全てが空相(空)、すなわちは、仮の姿である。 何一つ、固定的で、永久不変で、...
何事も物は八分目、足るを知る、それを正しく受け取れる人こそが、今の全てに満足し、今の全てに感謝できる、心豊かな人
もし諸々(もろもろ)の苦悩(くのう)を脱(だっ)せんと欲(ほっ)せば、まさに知足(ちそく)を観(かん)ずべし。知足(ちそく)の法(ほう)はすなわちこれ富楽安穏(ふらくあんのん)のところなり。知足(ちそく)の人は地上(ちじょう)に臥(ふ)すといえども、なお安楽(あんらく)なりとす。不知足(ふちそく)の者(もの)は、天堂(てんどう)に処(しょ)すといえどもまた意(こころ)にかなわず。不知足(ふちそく)...
落ち込みにくい人とは、嬉しい事、幸せな事、楽しい事に対して、大袈裟な程に、素直に心から、全力で喜べる人
心配するな、大丈夫、なんとかなる。(臨済宗大徳寺派、りんざいしゅうだいとくじは 一休宗純、いっきゅうそうじゅん)この言葉は、一休さんという愛称でもよく知られている、室町時代の禅僧、一休宗純禅師が、自身が亡くなる前に弟子達に遺した手紙に書かれていた、たった一言だけの言葉です。一休禅師は、八十七歳で亡くなりましたが、亡くなる前に、弟子達に、このように言い残し、手紙を差し出したのだそうです。「今後、お寺...
我欲を捨て去り、煩悩を滅し、悩み、苦しみの世界から脱する為の方法、その王道こそが、坐禅。
徒(いたずら)に百歳(ひゃくさい)生(い)けらんは、恨(うら)むべき日月(じつげつ)なり悲(かな)しむべき形骸(けいがい)なり設(たと)い百歳(ひゃくさい)の日月(じつげつ)は声色(しょうしき)の奴卑(ぬび)と馳走(ちそう)すとも其中(そのなか)一日(いちにち)の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生(いっしょう)の百歳(ひゃくさい)を行取(ぎょうしゅ)するのみに非(あら)ず百歳(ひゃくさい...
坐禅はする程に、続ける程に、自分自身の命、縁により繋がっているあらゆる存在の尊さ、恩恵が、色濃く感じられていく。
生(しょう)を明(あき)らめ死(し)を明(あきら)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)の因縁(いんねん)なり生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし但(ただ)生死(しょうじ)即(すなわ)ち涅槃(ねはん)と心得(こころえ)て生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく涅槃(ねはん)として欣(ねご)うべきもなし是時(このとき)初(はじ)めて生死(しょうじ)を離(はな)...
全ての存在に慈しみの心を持ち、愛せる人は、全ての存在から慈しみの心を持たれ、愛される人。
無事是貴人(ぶじこれきにん)(臨済録 臨済禅師)この言葉の中の「無事」とは、大変な事、困った事が取り立てて起こらず、平穏無事に、普段と変わりない、平凡な日常が過ごせている、という意味ではありません。日々、自己を律して、仏道修行に猛進し、励もうとする心も、時に、煩悩に打ち負かされ、自己を律する事無く、怠慢な日々を過ごそうとする心も、そのような、善きも悪しきも、何かを求める心を完全に手離して、ありのま...
ありとあらゆる生きとし生けるものの幸せを願う事、それは、自分自身の幸せを願う事。
衆生(しゅじょう)を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)是(こ)れ即(すなわ)ち薩埵(さった)の行願(ぎょうがん)なり(修証義、しゅしょうぎ 道元禅師、どうげんぜんじ)世の人々を幸せにするには、四通りの尊い仏の教えがあります。一つ目は、布施(ふせ...
原始仏教から現代仏教に至るまで、代々実践され、受け継がれてきた、心を整える「止観(しかん)」。
諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)前述の言葉は、お釈迦様が説かれた仏教の教えの中でも、特に重要な4つの基本理念として、「四法印(しほういん)」と言われています。仏教においては、特に大切にされている教えであり、仏教の教えの根本でもある教えとされています。「諸行無常」とは、全ては常無し、全ては変化し続ける、という事で、こ...
呼吸は、自分で意識的に調整ができる整体法です。 そして同時に、宇宙の気を体内に取り入れることができるエネルギー補給でもあります。当ブログでは 呼吸 の大切さをいくつか書いてますが、呼吸を調整することで、意識や認識、思考すらも変わってきます。以前にも書いたように、呼吸を整えることは宇宙と繋がりやすくなります。だからインスピレーションが湧いたり、自分の認識の間違いに気づけたりもするのです。そして呼吸と...
拙僧、以前から「只管打坐」については、或る先輩僧のご指導もあって、「坐禅の時には坐禅を行う」こととして理解している。すると、或る人からちょっとした指摘を受けた。それは、「道元禅師は「坐禅儀」で、『黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禅のみなり』と五祖弘忍禅師を讃歎しているのだから、坐禅以外の修行はありえなかったのだ」という趣旨である。無論、拙僧、この箇所について知らないわけではない。しかし、この「唯務坐禅のみなり」という一節を読んでも、やっぱり叢林修行の中で、他の修行は行っておられたと考えている。ただ、その整合性をどうやって付ければ良いか、それが決着していなかった。ただ、最近、必要があって読んでいた『正法眼蔵』の一節を見て、やっぱり拙僧の考えで良かったのだと思うようになった。まずは、その一節を確認し...衆務を虧闕せず
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、己が為さぬなりけり。
一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)、自我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(ぐしゅつりょうじゅせん) (妙法蓮華経如来寿量品偈、みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ) ただ一心に、仏を見たいと願い、真実を見定めたいと強く念じながら、心を一つにして、集中して、没頭して、仏の道をひたすらに信じ切る事。 そのような心で、身命を惜しまず、捧げ尽くす気...
欲の少ない人は、多くを求めたいと思う心が無く、名誉や利益にも執着せず、悩み、苦しみが生じない、仏の世界を生きる人。
多欲(たよく)の人(ひと)は利(り)を求(もと)むること多(おお)きがゆえに、苦悩(くのう)もまた多(おお)し。 少欲(しょうよく)の人(ひと)は無求無欲(むくむよく)なればすなわちこの患(うれい)なし。 ただちに少欲(しょうよく)すらなおまさに修習(しゅじゅう)すべし。 (仏垂般涅槃略説教誡経、ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう) 今から2,568年前、旧暦の紀元前486年2月15日は、お釈迦様の...
一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
自分に与えられた仕事は、今、できる時に、精一杯の力で取り組む。それが禅の教えであり、仏の生き方。
他不是吾、更待何時。 他(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず、更(さら)に何(いず)れの時(とき)にか待(ま)たん。 (典座教訓、てんぞきょうくん 道元禅師) これは、道元禅師様が、禅の本場である宋(中国)に渡り、修行生活を送られていた頃のお話しです。 それは、ある夏の暑い日の事でした。 道元禅師様が昼食を終えられ、自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていました。 すると、仏殿(仏像を安置している建物...
たった一人の少しの坐禅でも、その行いの功徳、因縁は、 全世界、全空間へ伝播し、それが人類を救う事になる。
仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふなり。 自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり。 自己(じこ)をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるなり。 万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるといふは、自己(じこ)の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心(しんじん)をして脱落(だつらく)せしむるなり。(正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 現成公案、げんじょ...
真の安心、安楽という心の平安、幸福は、手に入れるものではなく、心からそのように感じる事。
同じ寺院で長い間修行を積んだ二人の僧侶がいて、二人は親友でした。 二人は、二、三ヶ月のうちに相次いでこの世を去りましたが、一方は極楽浄土に生まれ変わり、もう一方は虫となって糞の中に生まれました。極楽浄土に生まれた方は、ありとあらゆる無上の喜びを味わい、至福の時間を過ごしていました。けれど彼は、「友はいったいどこへ行ったのだろう。」と考えはじめました。そこで極楽浄土をくまなく探しましたが、友は見付か...
#存在の覚醒 #ゼロポイント 【1/18(土) 東京ワーク ~所感と解説~】
1/18(土)東京にてワーク開催しました。【存在の覚醒】今回のワークは、存在の覚醒がテーマとなりました。いちおう毎回ワーク募集時にテーマを仮に決めるのですが、当日の参加者さんの状態によりその場でテーマが組み変わります。今回はリピーターさんばかりだったので核心に直接迫っていく回となりました。3次元の身体の「存在の座」は丹田の中心からほんの少し下、肉体とイメージの境界線を入ったところにあるのですが(境界線...
「掃除とは人生を整える事、自分の為に心地よく清めるのです。」
威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし) (正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 道元禅師) 威儀(身なり、姿、恰好、姿勢)を整え、正す事が、仏道を行じる事であり、修行であり、仏様のお教えそのものであり、歩むべき道である。 作法(立ち振る舞い、所作、礼儀、態度)を整え、正す事が、仏道の実践、仏様の体現そのものであり、宗旨(曹洞宗の教えの根本)であり、私達曹洞宗においては、一日の全...
最近、「坐禅らしきもの」を再開した。 今年初めて坐禅体験をし、 その後も時々はやってみたのだが、 日々のやることに気を取られ… どんどん日々の習慣から消えてゆき、 今ではすっかりご無沙汰になってしまった。 ただ、再開したはいいのだが…個人的には 坐禅とは言いがたいと感じているから、 「らしきもの」なのである。 座る型は特に気にせず、楽に座るだけ。 そして、YouTubeで坐禅用の動画を流し、 目を瞑って、その場で静かに過ごす。 無心になろうと思うのだが、 坐禅体験をしてから、 グルグル色々なことを考えるように なってしまった…それは今も変わらず。 ゆえに、スッキリしないことが多い
臨済宗円覚寺派大本山円覚寺の横田南嶺管長が毎朝、You Tubeにて「毎日の管長日記と呼吸瞑想」を配信されています。2024年7月6日の配信は、夢窓国師のお話でした。 その話の中で、講談社学術文庫『 夢中問答 』にある文書を川瀬一馬先生が現代語訳されたものを引用されていました...
知ったキッカケは偶然だった。 何気なく旅行雑誌をパラパラ眺めていたら、 「坐禅」と「両足院」の言葉を見つけたのだ。 せっかく京都へ行くのだし、 ずっと体験したいと思っていた。 「今回こそ、ちゃんと体験して帰ろう」 京都の旅、メインディッシュのひとつ。 早起きをして、鴨川沿いを散歩しながら、 歩くこと約50分…付近まで到着。 ここから少し、敷地内をグルグル迷うことに。 (施設が少々複雑なので、細かい部分は省略) そんなこんなで…8時半になり、坐禅体験開始。 若い僧の方がご担当で、 こちらに問いかけながら、丁寧に教えてくれる。 何度か坐禅のタイミングがあって、 自分の近くに座って
鈴木大拙居士(1870~1966)の随筆で、曹洞宗の禅を以下のようにまとめていた。一方日本の曹洞禅があつて禅戒一如の思想や、一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方、「正法眼蔵」の研究、道元中心の禅などと云ふものが出来たが……大拙居士「公案禅と念仏禅」、『禅:随筆』大雄閣・昭和2年、350頁ここで気になったのは、「一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方」であり、これは曹洞宗の教えといえるのだろうか?確かに、この一句を御垂示等に用いられた事例も少なくないように思うが、ただ、少し議論を要すると思うのだ。例えば、江戸時代の学僧・天桂伝尊禅師が次のような批判を行ったことで知られる。老僧常道、汝等坐禅修行すといへども、但修習行儀無実究道理、只管打坐、仏祖眼睛、在規矩中、一寸の坐禅、一寸の仏などヽ云、瞎禿子の妄談を信じて、著眼...一寸坐れば、一寸の仏?
古都の空からごきげんよう愛犬家ゲイことMA⭐CHARUです。 この日は大神神社で2度坐禅会を毎週開催されてる平等寺でも1度お坊さんに間違われたけど坊主の…
古都の空からごきげんよう愛犬家ゲイことMA⭐CHARUです。 一昨年までは橿原神宮に参拝するとリセットされてたけど癌の闘病をした後からは大神神社によばれ…
先日、坐禅法を指導していたところ、僧堂(坐禅堂)への入堂時、聖僧様へは合掌低頭なのか?叉手低頭なのか?微妙に分からなくなった。いやでも、何となく叉手低頭で習ってきたように記憶していて、個人的にはそうすることで違和感が無いのだが、テキストを読んでいると迷うのである。入堂の法、合掌を面前に擎げて入る。〈中略〉前門より入は、上下間の者は、並びに南頬より入る。先づ左足を挙げて入り、次に右足を入れて行く。『赴粥飯法』いや、ちょっと待てよ。ここでは、合掌して前門を通るのだが、その後、問訊するとは書かれていない。なお、『行持軌範』になると以下のようになる。諸寮より入堂する者は、前門の南頬より先づ左足を挙げて入り、聖僧に揖し(叉手低頭)(以下略)『昭和改訂曹洞宗行持軌範』「第一暁天坐禅」項ここで、「叉手低頭」となっている...坐禅時の入堂法で聖僧へは合掌低頭か?叉手低頭か?
鎌倉にある臨済宗円覚寺の管長、横田南嶺先生が毎日、管長日記を朝の5時にYoutubeでアップされている。 平日は、子どもの学校の送迎の間に聞いているが、禅にまつわる話だけでなく、さまざまな分野の情報も提供してくださっていて毎朝、大変勉強になる。 2022年7月6日の管長日記...
12オリンパス OM-D E-M5 MarkIII M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO 気に入っていただけましたら、1日1回ポチッとお願いします。にほんブログ村...
冬の温スイーツ…大好評の Dampfnudel 蒸まんじゅうバニラソースがけ in ドイツ
こんにちはMegumi Piel(ドイツ在住)です。寒い日がつづく 今の時期、食べものは温かいものがとっても嬉しいですよね。 冬の時期、家族に大好評の温スイ…
坐禅してきました突然の発表(笑)本日、坐禅してきたんです。たまたま去年ポストに入っていた広報で見つけた坐禅会!すぐに予約をしていましたたまたま見つけたそして驚…
募集【ヴィパッサナー瞑想 ワークショップ[初級]心と体を整える】2/18(日) 開催
こんにちはMegumi Piel(ドイツ在住)です 来月2月は 瞑想ワークショップを 開催します。 ヴィパッサナー瞑想[初級] 心と体を整える …
臘八摂心は終わったが、摂心中に解説しきれなかった流布本『普勧坐禅儀』を学んでいきたいと思う。然れば即ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば、正に是、弁道なり。修証自ら染汚せず、趣向更に是、平常なる者なり。凡そ夫、自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす。唯、打坐を務めて兀地に礙えらる。万別千差と謂うと雖も、祗管参禅弁道す。何ぞ自家の坐牀を抛却して、謾らに他国の塵境に去来せん。若し、一歩を錯れば、当面蹉過す。古来より、上記引用文の最初の箇所をもって、まさに「普勧」の真実義を開陳されていると解されている。・この段は的く普勧の意なり。面山師『聞解』・これ則ち普勧の誠意、涙実に痛腸を出ずるなり。指月師『不能語』特に、面山師は自らの見解を龍樹尊者『大智度論』巻83に見える「「世尊...流布本『普勧坐禅儀』参究8(令和5年度臘八摂心8)
今晩は断臂摂心を行う日であるとされる。断臂とは「臂を断つ」の意味であり、中国禅宗の二祖である慧可大師が、少林寺で面壁を続けていた達磨大師の元で弟子入りするときに、自分の臂を断って菩提心を発露した故事を指す。また、これは曹洞宗の独自の行持とされるが、その日に慧可大師を讃歎しつつ、徹夜坐禅を行うことが断臂摂心となった。断臂の供養のこと、諸清規に見へず。然れども日本の洞家は古来より、臘九夜は断臂坐禅とて、尋常坐禅せぬ寺院も、臘八と断臂とは懈怠せず。是は永平・瑩山の勝躅なり。面山瑞方禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻6「仏祖会行法考訂」このように、面山禅師は断臂供養について、臨済宗を含めた諸清規には見えないものの、曹洞宗では断臂坐禅を行ってきたとし、道元禅師の「断臂上堂」と、瑩山禅師の勝躅を讃えているのである。十二月...今晩は断臂摂心(令和5年度版)
臘八摂心7日目。早速に流布本『普勧坐禅儀』を学んでいきたいと思う。若し坐従り起たんには、徐々として動身し、安詳として起つべし。卒暴なる応らず。嘗観すれば、超凡越聖、坐脱立亡、此の力に一任す。況んや、復、指竿針槌の転機を拈じ、払拳棒喝の証契を挙する、未だ是、思量分別の能く解する所に非ず、豈、神通修証の能く知る所為らんや。声色の外の威儀為るべし、那ぞ、知見の前の軌則に非ざらん者や。坐禅から立ち上がる場合、今はどこか、競うようにして一気に単から下りようとする場合がある。だが、実際にはそうであってはならない。ここで指摘されているように、「徐々として動身し、安詳として起つべし。卒暴なる応らず」となるべきである。つまり、数十分から数時間程度、坐禅の状態であったとき、その身体はかなり固まっている。そして、それから徐々に...流布本『普勧坐禅儀』参究7(令和5年度臘八摂心7)
臘八摂心6日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。所謂、坐禅は習禅に非ず。唯、是、安楽の法門なり。究尽菩提の修証なり。公按現成し、羅篭未だ到らず。若し此の意を得ば、竜の水を得るが如し、虎の山に靠するに似たり。当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先より撲落す。ここでは、坐禅と悟り、いわゆる修証観について論じられている。まず、「坐禅は習禅に非ず」の文脈であるが、これは特に、流布本系統の前後でいわれることであり、「坐禅儀」巻では、「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」ともいわれる。いわば、習禅とは、安楽の法門ではないし、不染汚の修証でもないと定義できる。また、ここについては更に、「行持(下)」巻に於ける達磨尊者への提唱を見ていく必要がある。・しばらく嵩山に掛錫すること九...流布本『普勧坐禅儀』参究6(令和5年度臘八摂心6)
臘八摂心4日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。夫、参禅は、静室宜し。飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし。作仏を図ること莫れ、豈、坐臥に拘らんや。今回から、徐々に「坐禅の儀則」の部分に入っていく。「参禅」については、「坐禅儀」巻に見えるように、「参禅は坐禅なり」という理解で良い。師家に公案を問うことを「参禅」といったりするが、曹洞宗ではこの語を坐禅の意味で取る。そして、続いて環境と、その坐禅に入る際の心構えになる。環境としては、ここでは簡単に、「静かなところが良い」「飲食には節度があるべきだ」と理解されるところだが、指月慧印禅師の『不能語』を拝読すると、前者については「万境の閒なり」とし、後者に...流布本『普勧坐禅儀』参究4(令和5年度臘八摂心4)
臘八摂心3日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。所以に須らく尋言遂語の解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落し、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲わば、急ぎ恁麼の事を務べし。これまで2回の記事に於いて「不染汚(無分別)の修証」について採り上げてきた。それが、『普勧坐禅儀』を読み解いていくための、基本線である。その上で、では、そのような「不染汚」とはどのようにして会得されるべきなのか?それを示したのが、この冒頭の2行であるといえる。前者については、仏道を習うときに、言語を逐って知解でもって把握するようなことを止めるべきだということであり、正しく不染汚を会得するならば、「回光返照の退歩」を学ぶべきだという。まず、前者について見ていくが、このような指摘が...流布本『普勧坐禅儀』参究3(令和5年度臘八摂心3)
臘八摂心2日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。直饒、会に誇り悟に豊かに、瞥地の智通を獲、得道明心して、衝天の志気を挙げ、入頭の辺量に逍遙すと雖も、幾くか出身の活路を虧闕せる。矧んや、彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見るべし、少林の心印を伝えし、面壁九歳の声明、尚聞こゆ。古聖既に然り。今人、盍ぞ弁ぜざらん。今日は以上の一節を学んでみたい。この部分について要約すれば、「大悟という魔境」からの脱却を考えていることになる。前項に於いては、道本円通を誤解しないように明記されているが、そこから「行」へと展開されていくのが、この箇所である。これは、現在の曹洞宗でも同様で、非常に憂慮しているのだが、道元禅師は「大悟体験(或いは己事究明などという人もいるし、見性という人もいる)」に重きを置...流布本『普勧坐禅儀』参究2(令和5年度臘八摂心2)
別所温泉の温泉街からほど近い山間のお寺「安楽寺」は曹洞宗の古刹で、非常に美しい国宝の三重塔があることで有名ですが、早朝に坐禅(座禅)体験ができるということで参加してきました。
マインドフルネスが流行っていますね。グーグルの本社にもマインドフルネス瞑想用の部屋があるとかで注目を集めています。ただマインドフルネスについて紹介される内容は割と複雑で習得するの...
まだ、大学院生だった頃、或る人に「道元禅師と親鸞聖人が会ったことがあると聞いたことがあるのですが、本当ですか?」と質問されたことがあった。結論からいえば、道元禅師御自身の著作はもちろん、伝記でも古伝の部類には、そのことを示唆する言葉すら存在しない。よって、会ったというのは伝承のレベルであって、およそ事実とはいえないと思う。ただし、一方で以前から、『正法眼蔵』の一部の巻について「親鸞聖人のために書かれた」という説があることは知っていた。その出所までは知らなかったのだが、関連した文脈を以下の典籍に見出した。・丸山小洋『古今名僧手紙禅』須原啓興社・大正5年本書は、題名の通りで、古今の禅僧(日本が中心だが、巻末には中国の祖師のも編入)が様々な機会に送った手紙から、その祖師方の人柄に触れようという話のようである。多...道元禅師と親鸞聖人の関係についての一私論
パンダに学ぶ生き方のヒント5月号 日々の生活の中で忙しさに疲れを感じている方は、 この記事を参考にされるとちょっとした安らぎを感じられるかもしれません
プロフ欄にも書いてある通り、自分は長年の鬱にプラスしてパニック障害と統合失調症を併発して療養中だ。ちゃんと通院して、医者の指導のもと服薬している。鬱を何回も再…
奥さんのひろこちゃんが瞑想会を開催します。 ご興味のある方はこちらから詳細が見れます。 https://www.hirokoart.jp/information にほんブログ村 美術 水彩画へ 人気ブログランキング ひろこちゃん(奥さん)のホームページ↓ www.hirokoart.jp
【1/21(土)14:00~17:00 、17:30~20:30「東京ワーク参加募集」】
***** Rubin’s work 東京ワーク開催日時のお知らせです。 ◆1/21(土) 14:00~17:00 、17:30~20:30※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、前半もしくは後半のみの参加も可です。(初参加の方はなるべく前半から受講してください)場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。 ◆今回は、【基礎】・一瞬で集中に入るための軸と姿...
今日は野村春眠さんの サラリーマン出家騒動記、講談社 今回もひかれたレールを 踏み外してもそこにはそこに 世界がひらけててなんとか なるんだよというお話 出家して年月を経てまた戻ってきて 作家として社会で生きることもできる セミリタイアしてサラリーマンに戻る 何かに囚われな...
締切12/15(木)【ヴィパッサナー瞑想ワークショップ】12/18(日)+α 開催
こんにちはMegumi Piel (ドイツ在住)です。 12月のワークショップヴィパッサナー瞑想 [初級2] 中心軸を整える お申込の締切は 12/15(…
『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)
令和4年度臘八摂心7日目である。明日は成道会の記事なので、この記事が今回の短期連載、最後の記事となる。『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』の末尾の文章を見ておきたいと思う。生死永く息み、一粒の還丹、金を点じて汁を成し、身心客塵、透漏無門なり。迷悟且く説き、逆順論を休む。細に昔日を想い、冷坐尋覓すれば、然も不別なりと雖も、也た大狼藉なり。刹那の凡聖、人の能く信ずること無し。匝地忙忙にして、大に須らく謹慎すべし。如し其れ知らずんば、端坐思惟、一日築著す。伏惟伏惟。『緇門警訓』巻上以上が、今回見ている『坐禅銘』の末尾の部分である。意味としては、前回の記事をご覧いただきつつ学んでいただければ良いのだが、心の働きにとらわれがなく、自由自在であれば、生死輪廻が長く止まり、水銀から戻った丹薬が、わずか一粒でも金の汁を出す(この辺は...『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)