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巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究②(令和6年度臘八摂心短期連載記事2)
さて、昨日から臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。普勧坐禅儀観音導利院興聖護国禅寺沙門道元撰述扨先つ普勧と云二字は大般若五百二十五に仏告善現如是法門は諸の菩薩若は利根鈍根皆な悟入して無障無碍とある、因之故に文中にも不論上知下愚と有なれば冷暖...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究②(令和6年度臘八摂心短期連載記事2)
臘八摂心は終わったが、摂心中に解説しきれなかった流布本『普勧坐禅儀』を学んでいきたいと思う。然れば即ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば、正に是、弁道なり。修証自ら染汚せず、趣向更に是、平常なる者なり。凡そ夫、自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす。唯、打坐を務めて兀地に礙えらる。万別千差と謂うと雖も、祗管参禅弁道す。何ぞ自家の坐牀を抛却して、謾らに他国の塵境に去来せん。若し、一歩を錯れば、当面蹉過す。古来より、上記引用文の最初の箇所をもって、まさに「普勧」の真実義を開陳されていると解されている。・この段は的く普勧の意なり。面山師『聞解』・これ則ち普勧の誠意、涙実に痛腸を出ずるなり。指月師『不能語』特に、面山師は自らの見解を龍樹尊者『大智度論』巻83に見える「「世尊...流布本『普勧坐禅儀』参究8(令和5年度臘八摂心8)
臘八摂心7日目。早速に流布本『普勧坐禅儀』を学んでいきたいと思う。若し坐従り起たんには、徐々として動身し、安詳として起つべし。卒暴なる応らず。嘗観すれば、超凡越聖、坐脱立亡、此の力に一任す。況んや、復、指竿針槌の転機を拈じ、払拳棒喝の証契を挙する、未だ是、思量分別の能く解する所に非ず、豈、神通修証の能く知る所為らんや。声色の外の威儀為るべし、那ぞ、知見の前の軌則に非ざらん者や。坐禅から立ち上がる場合、今はどこか、競うようにして一気に単から下りようとする場合がある。だが、実際にはそうであってはならない。ここで指摘されているように、「徐々として動身し、安詳として起つべし。卒暴なる応らず」となるべきである。つまり、数十分から数時間程度、坐禅の状態であったとき、その身体はかなり固まっている。そして、それから徐々に...流布本『普勧坐禅儀』参究7(令和5年度臘八摂心7)
臘八摂心6日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。所謂、坐禅は習禅に非ず。唯、是、安楽の法門なり。究尽菩提の修証なり。公按現成し、羅篭未だ到らず。若し此の意を得ば、竜の水を得るが如し、虎の山に靠するに似たり。当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先より撲落す。ここでは、坐禅と悟り、いわゆる修証観について論じられている。まず、「坐禅は習禅に非ず」の文脈であるが、これは特に、流布本系統の前後でいわれることであり、「坐禅儀」巻では、「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」ともいわれる。いわば、習禅とは、安楽の法門ではないし、不染汚の修証でもないと定義できる。また、ここについては更に、「行持(下)」巻に於ける達磨尊者への提唱を見ていく必要がある。・しばらく嵩山に掛錫すること九...流布本『普勧坐禅儀』参究6(令和5年度臘八摂心6)
臘八摂心4日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。夫、参禅は、静室宜し。飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし。作仏を図ること莫れ、豈、坐臥に拘らんや。今回から、徐々に「坐禅の儀則」の部分に入っていく。「参禅」については、「坐禅儀」巻に見えるように、「参禅は坐禅なり」という理解で良い。師家に公案を問うことを「参禅」といったりするが、曹洞宗ではこの語を坐禅の意味で取る。そして、続いて環境と、その坐禅に入る際の心構えになる。環境としては、ここでは簡単に、「静かなところが良い」「飲食には節度があるべきだ」と理解されるところだが、指月慧印禅師の『不能語』を拝読すると、前者については「万境の閒なり」とし、後者に...流布本『普勧坐禅儀』参究4(令和5年度臘八摂心4)
臘八摂心3日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。所以に須らく尋言遂語の解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落し、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲わば、急ぎ恁麼の事を務べし。これまで2回の記事に於いて「不染汚(無分別)の修証」について採り上げてきた。それが、『普勧坐禅儀』を読み解いていくための、基本線である。その上で、では、そのような「不染汚」とはどのようにして会得されるべきなのか?それを示したのが、この冒頭の2行であるといえる。前者については、仏道を習うときに、言語を逐って知解でもって把握するようなことを止めるべきだということであり、正しく不染汚を会得するならば、「回光返照の退歩」を学ぶべきだという。まず、前者について見ていくが、このような指摘が...流布本『普勧坐禅儀』参究3(令和5年度臘八摂心3)
臘八摂心2日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。直饒、会に誇り悟に豊かに、瞥地の智通を獲、得道明心して、衝天の志気を挙げ、入頭の辺量に逍遙すと雖も、幾くか出身の活路を虧闕せる。矧んや、彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見るべし、少林の心印を伝えし、面壁九歳の声明、尚聞こゆ。古聖既に然り。今人、盍ぞ弁ぜざらん。今日は以上の一節を学んでみたい。この部分について要約すれば、「大悟という魔境」からの脱却を考えていることになる。前項に於いては、道本円通を誤解しないように明記されているが、そこから「行」へと展開されていくのが、この箇所である。これは、現在の曹洞宗でも同様で、非常に憂慮しているのだが、道元禅師は「大悟体験(或いは己事究明などという人もいるし、見性という人もいる)」に重きを置...流布本『普勧坐禅儀』参究2(令和5年度臘八摂心2)
この坐より摂心。今日から8日まで曹洞宗寺院では臘八摂心を修行する。この行持については、【摂心―つらつら日暮らしWiki】を参照いただくと良いだろう。さて、毎年の臘八摂心では、何かの典籍を一週間(プラス数日)かけて読み込むことにしているのだが、今年はいよいよ道元禅師著、宗門坐禅の根本聖典『普勧坐禅儀』(流布本系統)にしてみたい。また、予め申し上げておけば、今回は敢えて祖山本『永平広録』の訓読に従って読み込み、それによって宗旨を把握してみたい。また、江戸時代以前の註釈書に依りつつ、道元禅師の他の著作を読みながら全体を把握することにしたい。よって、これにより従来いわれてきたことと異なる内容になるかもしれないことも合わせてお断りする次第である。なお、従来の区分の方法では、流布本系統が持つ四六駢儷体の構造から、全1...流布本『普勧坐禅儀』参究1(令和5年度臘八摂心1)