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六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。untitled
ある人、自己の欠点を知悉し得ない処に、一切の悩みと悲しみとは生まれる。ゆえにまた一切の苦悩の超克と解脱は自己の「如是性」の徹見あるのみ。と宣う。さは如何に。如是性
天下にはきれいな声と決められた声は無いのだ。我が耳のよろこぶ声が何よりも楽しい声だ。世間にはきれいな顔と決められた顔は無いのだ。おのが目の見惚れた顔が何よりも素敵な顔だ。人生には正しい選択と定められた選択は無いのだ。おのずからの選択が何よりも尊い選択だ。イエスも釈迦もマホメットもなにをモーセも頼めるのは自分しかなかったであろうよ。自分の寄る辺
自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。忘己利他
著者に関心を持ったのは、以前日経夕刊の記事を読んでから 昨秋にスペイン大使館で行われた講演会に参加して、その時にこの本を近々発行することを聞き、今月、書店で購入した。 ここには2度目の四国巡礼につ
『碧巌録』より 第七則 法眼答慧超 / 法眼慧超問佛(その1)
「そりゃ、おまえさんだよ」という法眼の応えは、仏は自分の中にあるということか。ここでは、仏性の問題を考えねばならない。「仏性」は、仏となる可能性のことで、男でも、女でも、生きとし生けるものはすべて仏となれる秘めた可能性を持っている。