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『碧巌録』より 第三二則 臨済仏法大意 / 定上座問臨済(その1)
この説話にも臨済の厳しい禅の指導ぶりがよく表れている。仏法の大意を知ろうと、仏法の大意に近づこうとしていた定上座の中で、突然に氷解したものは何か。わかってしまえば、わかろうとしていたものはもうどうでもよい。わかろうとしていたものがなんであったかも、もうどうでもよい。確かに、わかる前と、わかった後では違う。それは定上座が体感して納得している。
『碧巌録』より 第三一則 麻谷振錫遶床 / 麻谷兩處振錫(その4)
「山水」は禅者の心をうつす形象でもあり、「存在」を代表させる象徴でもある。だから、「山是山、水是水」は、存在のありのままの在り方について述べていて、その存在と対峙して禅者は識閾をどんどん低くして行って、存在が己に浸透して一体となるようにする。そこで生じる認識が「わかった」なのである。
『碧巌録』より 第三一則 麻谷振錫遶床 / 麻谷兩處振錫(その3)
学ぶ人は、目標のところとなるまで工夫を凝らし勉強する。だが禅は、さらにそこを超えて行けという。教えを創始したブッダやそれを受け継ぐ祖師たちをも超えて、さらに徹底して向上していくというのが禅の心得。
『碧巌録』より 第三一則 麻谷振錫遶床 / 麻谷兩處振錫(その2)
「無」にこだわるものには「有」を、「有」にこだわるものには「無」を与え、その学人それぞれの心境や状況に応じた自由自在な応答ぶりこそが、禅匠の力量だとこの問答は言っているのだ。
『碧巌録』より 第三一則 麻谷振錫遶床 / 麻谷兩處振錫(その1)
「一言相契即住、一言不契即去」には、禅の在り方がよく出ている。「わかる」は言葉を超えた体験であるが、「わかる」を導いてくれるものは「言葉」なのだ。
『碧巌録』より 第三〇則 趙州大蘿蔔 / 趙州大蘿蔔頭(その1)
三世の仏たち、歴代の祖師たち、もちろん彼らは「賊」などではない。だが修行者がこだわってしまったり、かかずらってしまったりすれば、彼らは修行者のかたきとなってしまう。不親切な「賊」のごとき修行者に働きかけ、こだわりやかかずり合いを奪って、ものの見方を転換して、晴れ晴れとさせてくれる者こそは、優れた師である
魚が水中を泳げば水が濁り、鳥が空を飛べば羽毛が落ちる。このように跡をくらますことは難しく、必ず痕跡が残る。即ち心が動けば必ず認識が起こり、世界が立ち現れてくる。
『碧巌録』より 第二八則 涅槃和尚諸聖 / 南泉不説底法(その2)
鏡はすべての存在をありのままにそのまま映し出し、取捨選択することはない。私たちのうちにある「鏡」である心も、あらゆる現象を映し出すのであるが、映ったものを判断し取捨選択するので、「心」と「境」が一体となったあの「わかった」という瞬間からは遠くなる。
『碧巌録』より 第二八則 涅槃和尚諸聖 / 南泉不説底法(その1)
言ってしまえば、過ぎ去ってしまい、もはや真実ではない。いや、言葉にしようとすることで、もう離れてしまっている。どうやってもとあったものと一体になるか。分離したものを体得して「わかった」となる瞬間を待つしかない。
僧問雲門、樹凋葉落時如何。雲門云、體露金風。ありのまま、しかも厳しい真実が露わになる。だがそれは、常にそうなのである。
「独坐大雄峰」には、二つの解釈が成り立つという。「大雄峰」は、ただの地名であるが漢字はどうしても即物的なその成り立ちから、イメージを喚起する。そこで、百丈が、どっかりと禅定してそれが外から仰ぎ見られるほどの独秀だというのが、百丈の禅の心境を表しているというもの。
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その5)
この「盧老不知何處去、白雲流水共依依」の句には、あとをとどめぬ禅のあり様が言い表されている。禅は、執着すること、とどまること、痕跡をとどめることは許されない。到達したあとには、無心に白雲流水がたなびき流れていないといけないのだ。
いついかなる時も、目の前に現れた、ありとあらゆる出来事は、自分を磨く為の修行であり、本当の宝に気付く為の因縁。
從門入者不是家珍。 門(もん)より入(い)る者(もの)是(こ)れ家珍(かちん)に非(あら)ず。 (碧巌録、へきがんろく 雪竇重顕禅師、せっちょうじゅうけんぜんじ) この言葉は、唐(中国)の時代を生きた雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師が、巌頭全奯(がんとうぜんかつ)禅師と共に、行脚していた時の逸話と言われています。雪峰義存禅師は、「三登九至(さんとうきゅうし)」又は「三登投子九至洞山(さんとうとうすき...
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その4)
禅の問答では、師は修行者の力量を問う。嚴陽尊者に出会った僧は、身構えた。尊者が示したものは、杖ではあるが、尊者が問うているのは「杖」ではない。なざすことのできない、「杖」で象徴される禅の宗旨である何かだ。
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その3)
二六時中、つまり今生きているこの1日のうちのすべての間、行住坐臥、つまり私たちの行ったり、来たり、立ったり、座ったり、掃除したり、ものを食べたりといったすべての行動が、打成一片、すなわち行動・行為・環境と自分の意識とが溶融して一つになるようにする、意識しないようになる、それが禅宗らしい修練の日日である。
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その2)
20年間同じ問いを発し続けたのは、仏恩に報いるためである。そして誰一人として答えられない公案であった。そこから、禅における言葉の関係の考察に入る。
劉鐵磨と溈山の応酬は間髪を入れない。そこに躊躇や疑義を挟めば、精神は死ぬ。彼らの応酬に意味があるのか。普通に考えたら、合理的な意味を持ち、目的を達するための有意な会話ではない。だが、禅は「意味」も越えねばならない。意味がなくても行為し行動しなければならない。
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その3)
禅が目指すのはもちろん、「妙峯孤頂」の境地であるが、そこはどのような世界なのか。存在は存在として、独露している。相対的な差別相の世界を超越しているのだから、目、耳、鼻、舌、身体の感覚も手掛かりを失い、冷熱、物質といった物理法則も及ばない。しかも、禅はその「妙峯孤頂」にとどまることも忌む。「妙峯孤頂」を常に超えていくことを求める。
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その2)
山や自然の境は対すれば、おのずから静寂・静謐の雰囲気が迫ってくる。だが、そこにとどまるを良しとしないのが禅だ。常にとどまらず、流動し、生き生きと変化する。停滞やなずみは「死」として退ける。
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その1)
物は試練によって本性を表す。人も試練によって本物になっていく。禅ではどうやって人を試すのか。やはり言葉が触発の大きな契機になる。
禅における言葉、言句の問題。教えや理論を解いた言葉には拘泥しないが、「わかる」を触発する機は、言句なのだ。その言句である「公案」を思考する。だが、「わかる」には、その言句を突き抜けねばならぬ。
修行にやってきた僧たちに趙州が言う、「喫茶去」と、院主に言う「喫茶去」とでは何が違うのか。院主は、趙州に名を呼ばれ意識が覚醒しようとしている。そこに、「喫茶去」という言葉が降りてくる。院主が、その意味を分かり・体感するにはほんの一瞬の機転の間しかない。
存在がそのままにゅっと現れる。その存在は生死を突き動かす。死ぬか生きるか、その生死の境目での禅匠の雪峰の存在感を示したもの。
禅は言葉を重んじるものの、その言葉がその人本人の経験や見地、境地を反映した独自のものであることが大切だ。本当に自分の中から出た言葉だけが本物なのだ。
公案は言葉だ。その公案の言葉についてさんざん考える。だが、その言葉に捉えられず、跡形(あとかた)を消し去って、何にもとらわれない
霊雲の公案は、ブッダ出現の前後で主観と客観が大きく分かれてしまった前でも後でも、存在は存在として堅固にそこにあるということ。その存在が露わとなって迫ってくるとき、物・境界の方が露わとなって自分に迫ってくるとき、それをそのまま受け止めるということ。
もともと静寂な境地があった。だが、そこに問いを立てる。するとそこから波紋が広がり静寂は乱される。そうなると、世界は主観と客観に分かれ、「われ」と「なんじ」が対立する。
蓮の花は水中で葉のなかにあって開く準備をし、水中より上がってきたときに開花する。だが智門は一種の逆転の発想で、水中にある時が蓮の花で、水中より出た時が蓮の葉だという。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その6)
禅は精神が生き生きとしていることを重んじ、停滞しているところを死地、流動して停滞のないところを生地とする。だから、ブッダの教えに泥む(なずむ)ことさえ否定する。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その5)
生地、死地、活句と死句と、禅が問題とするのはやはり、生死、死活の分際だ。龍牙という禅僧は、あえて生地を選ばず死地に飛び込んだ。こうして自身の生きる道を確立したという。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その4)
ここにはないどこかにその探し求めているものを尋ね当てようとするのが、おおくの人のするところだ。しかし、ただここにすでにあるもの、それがあるということに気づくということ、気づけばそれはもうわかったということ、その消息が五洩と石頭との物語に語られている。
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その3)
禅では、躊躇すること、言い淀むこと、精神の働きが停滞することを嫌う。力をため込まれたばねが弾けるように、雷が一瞬ひらめくように、精神を働かせて言葉を返すか、さっと体を動かし行動することを重んじる。
>雨滴声、とは転倒で、それを聞く自己が雨の音である。なるほど、そうであるならば、僧云、鏡清顚倒迷己逐僧、なんて続ければ、もう一段、深い底を持つ。鏡清の言葉が自己に向かわないのは残念だ。虚堂雨滴聲、誰もいない家の雨だれの音。一発で問いと答を言い当てる直観はお見事。問いを共有した時点で、同時に答も決まってくるが、観察者の視座が決められてしまったのは残念だ。観察者は誰もいない家には入れても、例えば、もは...
『碧巌録』より 第二十則 龍牙西来意 / 龍牙西來無意(その1)
禅匠の持つ大きな気宇を示したもの。大海をひっくり返すことも、大山を蹴倒すことも物理的には狭小な人間にはできないが、心は無限で、大海も入れることができ、大山も住まわせることができ、そしてそれらを虚空に抛却することだってできる。
雨滴声越州镜清寺顺德禅师问僧:门外是什么声?僧云:雨滴声。清云:众生颠倒,迷己逐物。雨滴聲擧、鏡清問僧、門外是什麼聲。僧云、雨滴聲。清云、衆生顚倒迷己逐物。雨滴声(うてきせい)挙(こ)す、鏡清(きょうせい)、僧(そう)に問(と)う、門外(もんげ)是(こ)れ什麼(なん)の声(こえ)ぞ。僧(そう)云(いわ)く、雨滴声(うてきせい)。清(せい)云(いわ)く、衆生(しゅじょう)は顚倒(てんどう)して己(お...
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その5)
一つのことを徹底することが、千のところ万のところに通じ徹底すると考えるのが禅である。ゆえに禅は、いま、そこを、足下を徹底的に掘り下げよというのである。
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その4)
俱胝が童子の指を断じる。いささか乱暴のようではあるが、禅ではこれがよくある。なぜかと言えば、生死を超えるには、生死のぎりぎりのところに立ち、身命を惜しんではいられないからだ。
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その3)
禅では、言葉を「葛藤」、わずらわしいものとして忌避し、「そのもの」をずばり指し示したり、「そのもの」に直に到達することを重んじる一方で、俱胝和尚と実際尼僧との逸話のように、電光石火の如くそこで言い得ることも重んじる。
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その2)
禅が重んじることのひとつに「徹底」がある。寒い時は寒さに徹し、暑い時は暑さに徹す。その時に、その時のことを徹底して行うのだ。
『碧巌録』より 第十九則 俱胝指頭禅 / 俱胝只堅一指(その1)
塵のような極小の世界の中に、全宇宙が宿り、ひとつの花がひらく過程は、全世界が展開していく過程を含んでいるのである。そういう世界観がここでは見事に展開している。
『碧巌録』より 第十八則 粛宗請塔様 / 忠國師無縫塔(その3)
溈山が仰山の名を呼び、「そこだ」と指して気づかせてやる、目覚めさせてやる。無明を晴らしてやるために、深い真闇にいるものにそのものの名を呼び掛ける。これに類する話は前にもあった。
言葉のある世界も、言葉のない世界も超えたところにあるのが沈黙の世界だ。それは「無」の世界ではない豊かな世界だ。その沈黙に触れ合い一体となることができれば、覚者の智慧は伝わってくる。
無縫塔は、天衣無縫の如く、継ぎ目がないので作り様がない。初めから完真のものは、その完真のままで受け入れる。その事をどうやって伝えるのか、伝えたらよいのか。もちろんそれは言説を超えている。豊かで深い沈黙によって伝える。
『碧巌録』より 第十七則 香林西来意 / 香林坐久成勞(その2)
宗匠たちは実に堅実で地に足がついていて、そこには煩わしい仏教の知見や教理などはなく、時節に臨んでその時その時に自在に力量を発揮する。いわゆる、「その場その場で行われたことが仏法になり、あらゆる機会に仏法を説けば、あらゆる場所が道場になる」というものだ。
『碧巌録』より 第十六則 鏡清草裏漢 / 鏡淸啐啄機(その3)
仏陀を撃ち殺すとは穏やかではない。だがここに禅の機微がある。ブッダが教えを説かなければ、教えのことは誰も知らないし、誰もその教えに思い煩うことはない。