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宗匠の説示というのは、意識を断ち切り、情識での判断を超え、生死を超え、現象に惹かれておこるこころの汚れを超えて、本来の悟りの境地にはいる。だが、そこにどんな痕跡も残さない。
思いもかけないものを提起して、人から言葉を奪ってしまうのが禅。禅匠からの提起は、言語による思考を奪ってしまう。そうすると修行者・学人は、言葉、すなわち相対を離れたところに出てゆかざるを得なくなる。
『碧巌録』より 第八〇則 趙州孩子六識 / 趙州初生孩子(その3)
遇茶喫茶、遇飯喫飯。一つのことに徹底することが必要なのだ。だが、こだわらない、放下する、向上一路が禅のあり様なのだ。
『碧巌録』より 第八〇則 趙州孩子六識 / 趙州初生孩子(その2)
得道の人は無心の大地山河にたとえられる。こだわる心が引っかかるそういったものをすべて無にして、ただ運行していく。無心だからこそ、慈愛深くすべてを受け入れることができる。最後に、禅はひとつの境地にとどまることを許さない。得たものを捨てて超えていく。
『碧巌録』より 第八〇則 趙州孩子六識 / 趙州初生孩子(その1)
禅は心の問題を扱う。心があらゆるものをつくり出し、そのつくり出したものが心を動かすのだから、心の流れを断ち切り無心になることをめざす。
『碧巌録』より 第七八則 十六開士入浴 / 開士悟水因 (その3)
求めれば、相手は去る。ただただ、日常の行住坐臥を生き抜くことだ。そこと一体になれれば、自由の境地に至れる。
『碧巌録』より 第七八則 十六開士入浴 / 開士悟水因 (その2)
心の問題は実に厄介だ。だが、自分の心を懸命に明(あき)らめてみよ、そうすれば心などない、ということが、あれほどこだわっていた自分の心などどこにもない、ということがわかる。
『碧巌録』より 第七八則 十六開士入浴 / 開士悟水因 (その1)
その昔16人のボサツたちは、礼式に従い入浴している時、水が、汚れにも触れず、体にも触れず、その中間に水は水として安穏として存在しているという水の本質により悟りを得た。
真理にさえ、悟りにさえ停滞しては、立ち止まってはいけない、というのが禅の教えだ。では、そこを超えたところには何があるのか。ゴマ餅で表象される、具体物、日常性、何物にもとらわれないこと、深く考えをむすばないこと、そこにそのままあること。
『碧巌録』より 第七四則 金牛和尚呵呵笑 / 金牛飯桶(その2)
ここでも、禅は自らの体験、一瞬の心の動きのことであると言っている。(言語を否定しつつ、言語で「それ」を指し示す矛盾)
『碧巌録』より 第七三則 馬大師四句百非 / 馬祖四句百非(その2)
禅的真理(悟り)を得ようとするものには、わざわざ真理を語らない。ではどうやって真理に到達し、その真理と契合するのか。
『碧巌録』より 第七三則 馬大師四句百非 / 馬祖四句百非(その1)
禅は「意味」の追求をやめねばならない。「意味」のない世界に耐えねばならない。さらに、「耐える」ということをも突き抜けて、ただ「生きる」、ただただ「生きる」を行為する。
百丈はまた雲巖に問うた、「のどや口をふさがれて、どう言う」。雲巖が答えた、「そうやられて、和尚様でも一言いうことができましょうか」。百丈が言う、「このありさまでは、私の法を継ぐ者は絶えてしまうであろう」
往々にして、答えは質問そのものの中にある。質問者が、自分の中に答えを持っている。その答えをどうやって引き出すのかが、禅の指導者の役割だ。
自由気ままにふるまっていても、大事なところからは少しも離れていない。すべての川は流れを異にするものの、行きつく先はすべて海。
仰山が三聖に尋ねた、「おまえの名は何という」。三聖が言う、「慧寂でございます」。仰山が言う、「おい、慧寂はこのわたしだぞ」。三聖が言う、「慧然でございます」。仰山はアハハと大笑いした。
ここでも、禅は言葉でもなく、知識でもなく、自らの了解の体験なのだということを示す梁の武帝を通しての逸話となっている。
巖頭が寺へやってきた僧に問うた、「どこから来なすった」。僧が答える、「長安です」。巖頭が言う、「おお、長安と言えば、黄巣の賊どもがいなくなった後、奴らが天から降ってきたと言いふらしていた剣は回収できたのか」。僧が答える、「回収いたしました」。巖頭が首を伸べて前に進み出ると、「ストン」と言った。僧は言う、「和尚様の首は落ちましたぞ」。巖頭は、「わはは」と大笑した。
『碧巌録』より 第六五則 外道問仏有無 / 外道問佛(その3)
鏡と存在事物との喩えは、禅で多用される。心を鏡面のようにせよ、その心の鏡にに森羅万象がそのまま映り込み流れ行くようにせよ。
『碧巌録』より 第六五則 外道問仏有無 / 外道問佛(その2)
「~である」と肯定するのではなく、「~ではない」と否定していくのは仏教でよく取られる論理論法である。「~ではない」と言われれば、では「~なのか」と分別心が沸き起こる。しかし、またそれも否定して、「そうではない」と言う。するとまた、では「~なのか」という心が生じる。それをも否定して、また「そうではない」と否定言辞を重ねる。そうして否定し尽くした先に、論理ではたどり着けない仏教的な真理がある。それは「~である」と肯定の言辞ではたどり着けないし、指し示すこともできないので、仮に否定を重ねるが、本来は各人が各人でそれを体験してわかるしかない。
『碧巌録』より 第六五則 外道問仏有無 / 外道問佛(その1)
この沈黙の間に、ブッダは外道の尊者に何を伝えたのであろうか。もちろんブッダが述べているように外道の尊者は、もうすでに熟し落ちる寸前。ブッダの沈黙の中で伝えられたものを、自分の内面で体験し、「わかった」のだ。
南泉は言った、「生死を超える一句を言ってみよ、もし言えれば、この猫を斬らずにおこう」。その場における反応は、火打石が火花を散らすようにも、雷の光がひらめくようにも、迅速でなければならない。趙州は、わらじを頭に載せて出て行ってしまった。趙州が修行のために参習しているのは、生きている語句であって、死んだ語句ではない。活きた語句とは、その内実が日々新たに、時々刻々に改まるものである。
『碧巌録』より 第六二則 雲門中有一宝 / 雲門祕在形山(その1)
情識に捕らわれていれば、そこから抜け出せない。その緊縛を切って、その人の本来面目を全面的に明るみに開示させることのできる「ことば」の働きが、殺活ということ。
鏡面のような澄んだ意識の表面に、わずかにさざ波が立つと、それに応じて存在の世界が現成(げんじょう)する。鏡面のような澄んだ意識の表面に何も起こらずそのままであれば、世界は立ち現れない。
『碧巌録』より 第六〇則 雲門拄杖子 / 雲門拄杖化為龍(その2)
心を明らめようと苦労した、二祖の慧可(えか)のことを思い出させる。心、心、心と探し求めていって、心などないと師の達磨(だるま)に言われ、一切が明らかになった。
禅は、言語を超えていくものであるにもかかわらず、ある言葉に徹底的に思いを凝らす。言葉に思いを凝らすのも禅の営み、すなわち「参禅」となる。
簡単なことが難しい。それができるようになるために修練するのだけれど、禅の修練は、捨てること、しないことを修練する。
『碧巌録』より 第五七則 趙州至道無難 / 趙州田厙奴(その2)
難しいことはない、簡単だ、ただ、分別する心、判断する心を持たないことだ。だが、簡単なことが、難しい。簡単なことができるようになる、それには修練が必要だ。
『碧巌録』より 第五六則 欽山一鏃破三関 / 欽山一鏃破三關(その1)
優れた覚者があらわれたことが今までないとか、教えを説いたことがない、心印が伝授されてきたことがない、というのはもちろん逆説である。自分の外にそれを求めるなという事であり、それを体感し、わかる体験をするのはほかならぬ「おのれ」しかないということなのだ。
『碧巌録』より 第五五則 道吾漸源弔孝 / 道吾漸源弔慰 (その2)
「だからなに?それでなに?」という言葉が、こだわりを解くのだ。こだわりが解ければ、突き抜けることができる。一切がすべてにつながる。
『碧巌録』より 第五五則 道吾漸源弔孝 / 道吾漸源弔慰 (その1)
禅では、まったく同じ文言で対話を重ねることが多い。ここでも、漸源が道吾に尋ねそして得た文言が、漸源と石霜との間に繰り返されている。漸源にとっては、同じ文言の問答は二度目のはずだが、一度目と二度目の問答では、漸源の内面が違う。漸源は同じ文言でも、その文言を二度目の時に内面から体験し一体となり、わかったのである。
雲門の平手打ちは、僧の中に眠る機関の発動を目覚めさせるもの。機が発動すれば精神はいききと、こだわりを抜けて自由自在に働きだせる。学人を鍛える雲門のちょっと手荒な指導法。
たとえば現象の世界のいちいちの事物や事績、その個々のものを深く深く極め去っていけば、その底はあらゆる事物や事績に繋がる共通の基底に踊り入る。その共通の基底の所に降り立つこと、浸透していくこと、そこへ抜け出してしまうことを「透脱」という。いちいちのものは、すべてのものに繋がっているのだから、「一所に透脱すれば、千所にも万所にも透脱できる」というのは当然だ。
『碧巌録』より 第五二則 趙州石橋略彴 / 趙州渡驢渡馬 (その2)
禅は言葉に縛られるのを嫌うけれど、趙州の問答は言葉が固定しないで常に揺れ動いている。その変化についていけなければ、そこは窮地となる。だが窮地から脱する手掛かりとなるのも、趙州の発した言葉なのである。趙州の言葉は、「平実安穩」のところで用いられたというけれど、日常茶飯の中に生死はある。
『碧巌録』より 第五二則 趙州石橋略彴 / 趙州渡驢渡馬 (その1)
趙州が最後に言い放った「渡驢渡馬」という見事な一句に、碧巌録の著書は、「一網打就。直得盡大地人、無出氣處。一死更不再活。」(一言で、全世界中の人々を救い上げてしまい、人は気を吐くところがない。ひとたび死ねばさらに生に戻ることはない)という評唱を付けている。
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