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洞山の雪峰への問いは、相対的な分別についての禅の見解を、興味深い逸話で示唆してくれる。食事をするには、米を炊かねばならぬ。米を炊くには、米に混じった砂を水でゆすいで取り除かねばならぬ。米と砂を分別して、残すための米をしっかり見て、かつ不要の砂にも目を付けて、必要な米は選び、不要な砂を取り除く。
極大の世界に極小の世界は宿り、極小の世界には極大の世界が広がる。(極小と極大は融通無碍(ゆうづうむげ)に往き来する)ゆえに、極大を極小の世界にいれこむことができる。さて、その時、その世界をどう認識するのか。
禅は常に生死にかかわる所ぎりぎりのところで行われている。時に行者は、危険をも顧みず、虎のひげにさえ手をかけ、虎口に飛び込まなければならない。生死の境、そのあわいを透脱できれば死地を挽回し生地におもむける。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その5)
もちろんここで言っているのは、本当に物理的に人を殺めることを言っているのではない。修行者と力量ある師である作家との問答は、命を懸けた真剣勝負なのである。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その4)
「死中得活(死中に活を得る)」。この語句は禅を考えるうえで重要な契機を与えてくれる。このような語句が多く登場することは、禅が生死に渡ることを示す。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その3)
龍潭和尚は、徳山が仏の化身である老婆によって提起された「過去心・現在心・未来心」の公案を、徳山自身が体得できるよう、徳山の機微に合わせて接してやったのである。この徳山の説話は、禅における「わかる=悟る」の契機とその体験を垣間見させてくれる。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その2)
この問答も傑作だ。「心」の問題を取り扱っている。「点心」と「点那箇心」がひっかけてあり機知にと富む問答になっているが、徳山にとっては、おばあさんの言葉は、「心」の問題を突き詰めてくる容赦のない問いとして迫ってきたであろう。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その1)
禅では、形にとらわれない、執着しない、拘泥しないということが求められる。そのためには、時にこの徳山のような激しい行動が必要だ。心は行動に現れる。行動は心を形作る。形に捉われない心は、時にこんな奇矯とも取れる行動となって現れるし、奇矯な行動はとらわれのない心の表れでもある。
禅に「向上」「向上一路」という語がよく登場する。禅が目指す究極の境地を言う語でもあるし、また一つの境地に決してとどまることをしない(たとえ、それが究極の境地であっても)禅が、常に現状を打破し現在をつき抜けていく時のやむことのない努力を表す語でもある。
言葉は、自分の心境を表したり、自分に対する境界(環境)の様を描写して名付けるものである。山河大地は、自然とそこにあり、私たちに対峙するものである。自然とそこに存在するものをどうやって我々は認識するのか。
禅では、私が世界に対峙して、その世界(境界)の見方が求められるし、そういう見方ができるように修練することが禅でもある。そのものの見方とは、世界(境界)をありのまま、ありのままに見るということだ。
趙州が禅僧たちに示して言う、「禅の究極の道に至ることは難しい事ではない。ただ、あれこれ分別して選ぶことをしないことだ。境界を判断してそれをわずかに言葉にしただけで、それは分別・判断であり、ことを明白にしたということである。
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その3)
達磨大師は人から人の心へとのみ伝えることのできる心に刻まれた真実を伝え、人々の迷いを晴らすため、インドから中国へやってきた。
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その4)
禅では「刀」の喩えが多くもちいられている。刀は、迷いを断ち切る象徴でもあるが、過去、こだわりを断ち切る事でもある。
心頭滅却すれば火もまた涼し 碧巌録 力が入らないで、はやくねむります。ご訪問、起きてからにします、(`・ω・´)ゞ 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m マネーショート 副題は華麗なる大逆転!!!15日 朝 もののふ黒字銘柄を売る必要性はない!とわたしは思う。外資か?汚い奴。捨てさせて甘い汁?という??さぞやうまかったろう。そういう 朝であった。狼狽売りが続...