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#第二五則 蓮華庵主不住 蓮華峯拈拄杖
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『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その6)
一瞬たりとも停滞してはいけない、とどまればそこは死地であるということ。
2025/03/09 14:22
第二五則 蓮華庵主不住 蓮華峯拈拄杖
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『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その5)
この「盧老不知何處去、白雲流水共依依」の句には、あとをとどめぬ禅のあり様が言い表されている。禅は、執着すること、とどまること、痕跡をとどめることは許されない。到達したあとには、無心に白雲流水がたなびき流れていないといけないのだ。
2025/03/08 16:34
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その4)
禅の問答では、師は修行者の力量を問う。嚴陽尊者に出会った僧は、身構えた。尊者が示したものは、杖ではあるが、尊者が問うているのは「杖」ではない。なざすことのできない、「杖」で象徴される禅の宗旨である何かだ。
2025/03/04 16:20
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その3)
二六時中、つまり今生きているこの1日のうちのすべての間、行住坐臥、つまり私たちの行ったり、来たり、立ったり、座ったり、掃除したり、ものを食べたりといったすべての行動が、打成一片、すなわち行動・行為・環境と自分の意識とが溶融して一つになるようにする、意識しないようになる、それが禅宗らしい修練の日日である。
2025/03/02 13:57
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その2)
20年間同じ問いを発し続けたのは、仏恩に報いるためである。そして誰一人として答えられない公案であった。そこから、禅における言葉の関係の考察に入る。
2025/03/01 14:00
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その1)
一瞬のひらめきの中に活路を見出し、躊躇していては命を落とす。一所不住で、つねにとどまらない。
2025/02/15 11:46