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いついかなる時も、目の前に現れた、ありとあらゆる出来事は、自分を磨く為の修行であり、本当の宝に気付く為の因縁。
從門入者不是家珍。 門(もん)より入(い)る者(もの)是(こ)れ家珍(かちん)に非(あら)ず。 (碧巌録、へきがんろく 雪竇重顕禅師、せっちょうじゅうけんぜんじ) この言葉は、唐(中国)の時代を生きた雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師が、巌頭全奯(がんとうぜんかつ)禅師と共に、行脚していた時の逸話と言われています。雪峰義存禅師は、「三登九至(さんとうきゅうし)」又は「三登投子九至洞山(さんとうとうすき...
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その2)
20年間同じ問いを発し続けたのは、仏恩に報いるためである。そして誰一人として答えられない公案であった。そこから、禅における言葉の関係の考察に入る。
禅の公案に「主人公」というものがある。今朝、朝刊を読んでいたら、ふとこれがあの「主人公」ではないか、また「唯我独尊」という公案もこれに類するものではないかと想うことがあった。向谷地生良氏の「当事者研究」といものについての記事であったが、「苦労」は「反省」から「研究」へと発想を変えることで自らを自らの手に取り戻すことができる。そのことを氏は「自分の苦労の主人公になる」と言う言葉で表現されているように思えた。借金苦、病苦、生活苦・・当事者自身がじぶんの苦情を理解することで救われる苦労もあるというものだ。ちなみに以下、記事を一部抜粋してみる。「当事者研究」をご存じだろうか。幻覚や幻聴、摂食障害、リストカット、統合失調症といった「苦労」を抱える当事者が、自身の症状が起こるパターンやプロセス、構造を「研究」する取り...主人公
公案は言葉だ。その公案の言葉についてさんざん考える。だが、その言葉に捉えられず、跡形(あとかた)を消し去って、何にもとらわれない
『碧巌録』より 第七則 法眼答慧超 / 法眼慧超問佛(その2)
「丙丁童子来求火」という公案は、則監院が言うように、火の化身である神が、火を求めるということである。つまりは、人は皆己自身が「仏」であり、仏になる可能性を内に秘めているのに、外に「仏」を求めていることを示したものである。
今日、1月9日は語呂合わせで「一休さん」に掛けて、「とんちの日」になる。今年は一休さんに因む説話『一休ばなし』を見ていきたい。この『一休ばなし』だが、なるほど一休禅師自身、『狂雲集』を見る限り、かなり奇行を重ねた人生であったことは間違い無いが、その実際の一休伝とは別に、様々な俗伝として成長したのが、『一休ばなし』として集大成された。更には同様の一休俗伝の編集は続き、結局はアニメによって理解されるようになった「一休さん」にまでなったのである(岩波書店新日本古典文学大系『仮名草子集』解題参照)。さて、今日は『一休ばなし』巻4-2「愚痴なる者話則を乞ふ事」を見ていこうと思う。一休和尚の下に或る時檀家が来て申すには、「このお寺に出入りしていると、人々が『話則の一則も抜くことが出来たか』などと申して、我々の愚かさを...1月9日一休さんで「とんちの日」
『心を持ってこい(言霊学をまなぶこと)』 『世界は外にあるのか内にあるのか〜イマココ〜(言霊学)』世界は、今 騒がしいその騒がしさは、どこにあるのか世界が騒…