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『碧巌録』より 第九則 趙州東西南北 / 趙州四門(その5)
「主観」と「客観」が分裂する以前の、存在の世界はどのようなものであったろう。そこに、「教え」などというものはない。しかし、人間は、この世に生まれてくる宿命として「主」を打ち立てる。「主」があったとしても、「客」が依然として「客」のままでいて、その「客」が「主」にはいってこれる世界、それが究極に禅が達しようとしていること。
『碧巌録』より 第九則 趙州東西南北 / 趙州四門(その4)
生死、出入、愛憎、等々の相対的な世界にこだわるなということ。その相対的な世界を超えたところに進んでいくには、おのおの、個人個人が関門を突破することが大事。
『碧巌録』より 第九則 趙州東西南北 / 趙州四門(その3)
善か悪か、愛しいか嫌いか、このように分別したり選択したりすることがあれば、そこに心が生じる。本当は心なんてどこを尋ねても存在しないのに、生じた心によって、人は苦しむ。
『碧巌録』より 第九則 趙州東西南北 / 趙州四門(その2)
禅の言葉は、自分の心境や禅機を託すものもあるが、弟子や相手に与えて考えさせるものもある。禅は言葉に捉われること嫌うが、悟りに向かうその方向を示唆してくれるものが言葉である。
『碧巌録』より 第九則 趙州東西南北 / 趙州四門(その1)
鏡が、ありのままを映し出すことは禅の話の中によく出てくる。鏡には、作意が無いからだ。そこで、鏡とは何かといえば、それは境界(=私たちの周りを取り囲む、自然界や人事の世界)を映し出す、私たちの心のたとえなのだ。