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ブッダのわかったことを、言葉なしで迦葉に伝え、迦葉もわかった。なかなかわかるに至りがたかった阿難も、迦葉に呼ばれて「はい」と返事をした途端、説法は終わったと伝えられ、その瞬間に「わかった」。
自ら身を投げ出し衆生に寄り添う祖師たちの姿は菩薩業を思い出させる。ここは、優れた祖師たちの自在の働きについて述べているところだが、機用の働きが大きいからこそ、修行者の機に即して生死の際を同行し、そして本人に窮極の「それ」をわからせることができる。
露柱や燈籠といった、目の前の存在物は、禅の存在論の象徴的なものである。それらは、堅固で確かにそこに、そのままむき出しで存在してある。それらは無言でそこにあるのであるが、禅者は、それらに対峙して、それらに入っていかなければならない。
「如明鏡臨臺、胡來胡現、漢來漢現」は、禅の本質を垣間見させる、美しい語句だ。明鏡のように、相手の機も境もそのまま、自分の中に映し出す。自分は、認識する上で判断しないからこそ、相手がそのまま写り入って来る。
アキレスと亀の話を思い浮かべるのである。足の早いアキレス神でも、亀には追い付けない。なぜなら、前方にいる相手に追いつくには、必ず自分と相手との直線距離上の中間点を通過しなければならない。