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『碧巌録』より 第十六則 鏡清草裏漢 / 鏡淸啐啄機(その3)
仏陀を撃ち殺すとは穏やかではない。だがここに禅の機微がある。ブッダが教えを説かなければ、教えのことは誰も知らないし、誰もその教えに思い煩うことはない。
『碧巌録』より 第十六則 鏡清草裏漢 / 鏡淸啐啄機(その2)
禅には、「啐啄同時」という機がある。内からの啐する力と、外からの啄する力が合わされば、しかもそれがその時期に同時に合わされば、ひなは殻を破って外に出てこられる。
仏教徒でも、ブッダの教えの束縛から抜け出る必要があるのか。禅では、ある。仏陀が求めたもの、得た真実を、禅者も追い求める。しかし、それがつかめたら、それにこだわらない。それを忘れる。束縛を脱したところの自由自在の境地がある。