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拙僧、以前から「只管打坐」については、或る先輩僧のご指導もあって、「坐禅の時には坐禅を行う」こととして理解している。すると、或る人からちょっとした指摘を受けた。それは、「道元禅師は「坐禅儀」で、『黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禅のみなり』と五祖弘忍禅師を讃歎しているのだから、坐禅以外の修行はありえなかったのだ」という趣旨である。無論、拙僧、この箇所について知らないわけではない。しかし、この「唯務坐禅のみなり」という一節を読んでも、やっぱり叢林修行の中で、他の修行は行っておられたと考えている。ただ、その整合性をどうやって付ければ良いか、それが決着していなかった。ただ、最近、必要があって読んでいた『正法眼蔵』の一節を見て、やっぱり拙僧の考えで良かったのだと思うようになった。まずは、その一節を確認し...衆務を虧闕せず
たとえ無茶苦茶な坐禅でも、コツコツ継続すれば、自分自身の人生観、宇宙観、哲学が出来上がる。
正しい坐禅の実行によって、深く深く集中力を練り上げ、真実の命、今ここ、に成り切っていくには、坐禅の正しい作法、姿勢が大変重要になってきます。それでも、発心寺27世住職 原田祖岳老大師様は、「たとえ無茶苦茶な坐禅であっても、熱心な坐禅の実行をコツコツと継続すれば、自分自身の人生観、宇宙観、哲学が出来上がる。」「坐禅の効果は無形で分かりにくいが、坐禅を始める前と継続後とでは、精神上、人格上の変化、効果が...
「掃除とは人生を整える事、自分の為に心地よく清めるのです。」
威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし) (正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 道元禅師) 威儀(身なり、姿、恰好、姿勢)を整え、正す事が、仏道を行じる事であり、修行であり、仏様のお教えそのものであり、歩むべき道である。 作法(立ち振る舞い、所作、礼儀、態度)を整え、正す事が、仏道の実践、仏様の体現そのものであり、宗旨(曹洞宗の教えの根本)であり、私達曹洞宗においては、一日の全...