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一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
拙僧などは、機会があれば必ず道元禅師『学道用心集』を学ぶのだが、その中で、以前から学びをするべきだと考えている表現がある。今日は、それを学んでみたい。夫れ学道は、道に礙えらるなり、道に礙えるる者は悟跡を亡ず。仏道を修行する者は、先ず須く仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須く自己本道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減無く、悞謬無きなり。是の如くの信を生じ、是の如くの道を明らめ、依りて之を行ず。乃ち学道の本基なり。『学道用心集』「道に向かって修行すべき事」、原漢文前10章に分かれている『学道用心集』の第9章の一部が上記引用文である。そこで、今回見ていきたいのは、「学道の本基」である。なお、「本基」という用語、用例は決して多くは無いが、上記の一節と、『正法眼蔵』「面授」巻に見られる。かの三十七品菩提...「学道の本基」とは何か?