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経験とは、誰もが自分の間違いにつける名称である。とは誰が言ったか。試練にさらされることで思考が研ぎ澄まされ、人生というものをより切実に理解できるようになった。と言ったのは誰だったか。間違いないのは、その人はそれを経験した人だ。ということに気付き始めた経験からそう思う。経験について
(picture/originalunknown)君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。-マルクス・アウレーリウス「自省録」より苦悩する君へ
期待なしに人生を生きること具体的な結果を必要とせずに生きることこれが自由というものかもしれません。句読点の入れどころがわからない。名言であるかどうかはわからないけれど一つの至言ではありそうだ。詠み人知らず
(gif/originalunknown)心は火に似ています。火はそれ自体では燃えませんし、これといった形もないものですが、火が付くというように、それが物に着いて初めてその体を成すようになります。炭火があり、焚火があり、燈火などいろいろありますが、炭を取り去り、薪を取り去り、燈を取り去ってしまって、火というものを掴むことはできません。それぞれ、炭に着いて、薪に着いて、蝋燭に着いて、初めてその形を表すのです。心もまた同じように、必ず何かに着いてその形を表すもので、単に心というものだけを掴むことはできないのです。善いものに着けば善となりますが、不善に着けば不善となるのです。心こそ心惑わす心なり、こころ、こころに、こころゆるすな。心は火のようなもの