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ある人、自己の欠点を知悉し得ない処に、一切の悩みと悲しみとは生まれる。ゆえにまた一切の苦悩の超克と解脱は自己の「如是性」の徹見あるのみ。と宣う。さは如何に。如是性
飛べないよとかんがえている哺乳類より飛べるかもとかんがえている哺乳類のほうが好きだしましてや飛んでいる哺乳類が存在することに私は感動している。わしら、哺乳類。
災難に逢う時節は災難に逢うがよく候死ぬる時節には死ぬるがよく候是はこれ災難をのがるる妙法にて候。良寛さんは好きというよりも存在してくれたことに有難さを感じています。私にとっては、愚で愁で厳でなお了。というものをちらりはらりと大事の時に見せてくれるところなのです。良寛さん
春は青く夏は朱く秋は白く冬は黒い。人生も四季の如く移ろう也や否や。人の一生、その成り行きは焼かれるまでわからんとも言うが。それ我が移ろいの終わるとき。そうしきと呼ばれる。四季のこと。
生きる時はただ生き死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない。薪は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時の在り方に過ぎない。ー道元禅師正法眼蔵
ちるさくらのこるさくらもちるさくらー詠み人知らずたったよしのもみるひとけりゃはなももみじもたにのちりー頼山陽みんひとのためにはあらでおくやまにおのがまことをさくさくらかなー白隠禅師桜花によせて花讃題。
死を想え。メメント・モリはそうした共通感覚にふさわしい響きを持って問いかける。死というものを。いわんや生を。*今日で毎日遺書を書くつもりでblogを初めてはや7506日目である。ということでもういつ死んでも悔いはない。また、様々なこと思い出すブログかな。ということでこの間の想い出も少しはある。ということで、「メメント・モリ」と「アーカイブ」というカテゴリーをつくってみたったりしました。今死んだ。
経験とは、誰もが自分の間違いにつける名称である。とは誰が言ったか。試練にさらされることで思考が研ぎ澄まされ、人生というものをより切実に理解できるようになった。と言ったのは誰だったか。間違いないのは、その人はそれを経験した人だ。ということに気付き始めた経験からそう思う。経験について
この浮世は仮の世ともいうじゃないですか、一時の財のあるなしも仮の姿、どうでしょうここはひとつ借りる人も貸す人も、借ると思わず貸すと思わず、でどないなもんでしょう。てなわけにはいくまいなぁ。借財の言い訳