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私はあがり症で不安障害の40代の子育て中の専業主婦ですあがり症の事や九星気学筆文字アートなど好きな事を書いています。よろしくお願いします こんにちは☆文子で…
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知るも知らぬも進むところがおらが道、前になく後ろにできるおらが道、振り返ればなんと危うく続いたものよ。逢茶喫茶逢飯喫飯、暫時漸々修学あるのみであります。どうなることやらおらが道。さぐりかんぐりぽちぽちぽつぽつおらが道。この道を行けばどうなる、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。おらが道。
そもそも自分で人生の意味を問うてはいけません。自分は人生に問われている立場であり、自分が人生の答えを出さなければならないのです。―ヴィクトール・フランクル問い。
若返りたいと思いますか?と問われて、無遠慮で思慮のない未熟さに戻りたいとは思わない、と答える。年を経て得たものはありますか?と問われて、なにも無いが失くしたものはたくさんあるぞ、嫉妬とか羨望とか見栄とか性欲とか。またこれまで大したことは全くしてこなかったというぐらいの自信もある。私は、前期高齢者という老人を今実感している。これらについて文句は一切ない。実感、老人力。
「リンゴの落下はモノ(substance)であり現象でしかなく、「この世のあらゆる物質は互いに引っ張り合っている。地球とリンゴもそうで、地球のその力に負けてリンゴは落ちたのだ」という万有引力こそがコト(event)なのである」。学者さん風に言うとこういうことが、随筆風に言うと、「書くものを持ったら書きたくなり、鳴るものを持ったら鳴らしたくなり、金槌を持ったら釘を打ちたくなり、権力を持ったら藪から棒に使いたくなる。筆や楽器や金槌や金はモノでありそれ自体は悪くないのだが、持てば起こすのがコトへの誘惑である。モノに気を付けないと自制心の弱い人間はいらんコトをする。よくよく吟味することだ」。というような風に使えなくもない。ものとこと。
職人とばれる人たちがいる。仕事師として私はこの気質の人々は大好きだし尊敬もしかつ憧れてきた。これぞ職人、の発したこんな言葉をすこぶる粋に感じるのである。「放送はいいよなぁ、返品されねえものなぁ、・・・返品してやりてえ番組ばっかりだもんなぁ、職人があんな品つくってみろよ、返品の山だぜ」。「残らない職人の仕事ってものもあるんですよ。ええ私の仕事は一つも残ってません。着物のしみ抜きをやっています。仕事のあとが残っちゃ仕事になりません」「自分の仕事、自分の能力、そこから欠点が見つけられない奴は職人じゃございません。欠点が見つけられない奴が作家と呼ばれたがります」。職人気質
「ものの心(こころ)をしるは、すなわちものの哀(あわ)れを知るなり」「たとえば、嬉しかるべき事に際して嬉しく思うのはその嬉しかるべきという事の心をわきまえているから嬉しいのだ。また悲しかるべき事に際して悲しく思うのはその悲しかるべきことの心をわきまえているから悲しいのだ。だからことに触れて、その嬉しく悲しいことの心をわきまえてていることを、ものの哀れを知るという」。「たとえば、めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、すなはち是、もののあはれをしる也」そのような人を、「心ある人」という。紫文要領や石上私淑言(いそのかみささめごと)ではそのように説明される。心ある人粋な人、心ない人野暮な人、つまり、「哀れやなあ」と言う言葉の使いようは、蔑みでも同情でもなく、もっと品よく使う...心ある人
「離家三四月落涙百千行万事皆如夢時時仰彼蒼」菅原の道真公の五言絶句である。管公では、「こちふかばにほいおこせよ梅の花あるじなきとて春をわすれそ」など短歌も大好きである。齢(よわい)を重ねるごとにこの寂寞の風情、というものを味合うことしきりとなる。過行くもののあわれを落ち着いて許容するには、刻(とき)を重ねることに如(し)くはなさそうだ。菅公の心情幾許や。
こんにちは^^日本習字支部 晴香書道・習字教室です 新規のかたは引き続き募集しておりますので遠慮なくご相談くださいますよう
おはようございます~^^日本習字支部 晴香書道・習字教室です 新規のかたは引き続き募集しておりますので遠慮なくご相談くださいます…
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運は巡ってくる。と思いながらもそれだけではいかんようで、運ぶということも大事な気がする。よしあしのだいたいの輪郭は運命によって定まるとしてもだ。たとえば運というものがコップ一杯の器だとすれば、そこにはコップ一杯分しか運が入らないにしても、これに何を入れるかは自分の目利きにある。安物よりうまい酒を入れられるかどうかは、自分の腕にあるのだ。中に入れられる品物によって、そのコップ一杯の価値は定められる。容量は宿命的に定められているとしても、その内容の品質は自分の運ぶ力いかんによって上下左右されるような気がする。運と実力。
こんにちは~^^日本習字支部 晴香書道・習字教室です 2025年度4月号からのお手本継続手続き申し込みを締め切らせていただきました。ご…
私の身の上に起こる数々の事柄は、そのすべては偶然も必然であるとともに、この私という存在にとってそれは最善なはずだ。と観じればこそ私たちは、それに対してこれを嫌ったり拒んだり退けたりせず、素直に受け入れて、そこに隠されている神の意思を読み取らなければならない。ここで神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一の力のことであり、宇宙に内在している根本的な生命力のことを謂う。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶ。したがってそれはまた、自分に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯を指す。-参照/森信三「最善観」より私は思う。善では足らない、最善とおぼしめよ。と。最善観
将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違った別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやってみようか、堅実にやってみようかと、いろいろ自分の思い通りやってみられる。しかもその結果が直ちに盤面に現れる。そのうえ遊戯とは思われぬくらいムキになれる。将棋は面白い。金のない人がその余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。あんまり勝たんとしてはいけない。自分の棋力だけのものは、必ず現すという覚悟で、悠々として盤面に向かうべきである。そして、たとえ悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。そのうちには、どんな敗局にも勝機がぼつぼつと動...将棋
腰かけて「みる」か。とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。疑いながら試しに右へ曲がるのも、信じて断固として右へ曲がるのも、その運命は同じです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。試みたとたんにあなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんで存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。-太宰治「御伽草子」より往生際
行く末に宿をそことも定めねば踏み迷うべき道も無きかな今日はあそこの宿まで行って泊まろう、と思って急いでいるといかんせん、途中で道に迷ってしまった。結局そこまで行けず、ああなんてこった。しかし、既定、予定、思い入れ、などの定めをするから、迷い、焦りが生まれるのであって、それがなければ、そもそも「迷う」ということに意味はない。失敗と言うこともなければ、後悔と言うことも生まれない。行く当てのない旅は楽しい、と昔誰かが言っていたが、先を急ぐと、粋な発見や綺麗な風景を見落としてしまう。一休さん
期待なしに人生を生きること具体的な結果を必要とせずに生きることこれが自由というものかもしれません。句読点の入れどころがわからない。名言であるかどうかはわからないけれど一つの至言ではありそうだ。詠み人知らず
世の中に混じらぬとはあらねども一人遊びぞ我は勝れる。と詠んだのは確か良寛さんだと思うが、人の浮世もままええものじゃが、離れておることが、わしゃ面白い。ということでは一茶も似ている。小林一茶、幼名、弥太郎、六歳の折の発句である。我ときて遊べや親のない雀小林一茶