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「文化の日」である。この日は元々、1946年(昭和21)に『日本国憲法』が公布された日であり、同憲法が平和と文化を重視していることから、法律で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」という趣旨と定めた。そこで、今日はまず、以下の一節を見てみて、その後色々と考えてみたい。禅宗に「自由な」と云ふ形容詞がある。例令へば仙厓和尚などの画でも見ると、「誠に自由なものぢや」と曰ふ。また白隠和尚などの古則公案を取扱はれる様子を見るとこれも「自由なものぢや」との評が下される。〈中略〉此自由と云ふこと、大に面白い。或は脱洒とも云ふ、つまり何等の「かかりかつぱ」がないとの義である。先頃ふとしたことで、この「自由」を英語などに移すときは、どうしたら好いかと思うた。普通の場合ならfreedom形容詞でfreeとすることであらう。明治...今日は文化の日(令和6年度版)
最近夙に、近代の仏教研究者の業績に対し、懐疑的な視線を投げかけるようにしている拙僧、とりあえず鈴木大拙居士についても、その例外ではない。そこで、或る文章から、大拙居士の見解について検証しておきたいので、今日は記事にする次第である。大拙居士の盟友、西田幾多郎博士の文章から、道元禅師に関する記述を抜き出していたら、面白い記述を見付けた。無心と云ふことは、単に無分別とか如赤子とか云ふことではない。道元禅師が支那から帰つた時、何を学んで来たかといふ人の問に答へて、何も取立てて云ふことはないが、唯「柔軟心」を得て来たと云つたと云ふ。『日本文化の問題』、岩波書店『新編西田幾多郎全集』第9巻、55頁正直、不思議な記載である。不思議というのは、拙僧自身、このエピソードを知らないためである。江戸時代くらいまでの、道元禅師伝...鈴木大拙居士と道元禅師
鈴木大拙居士(1870~1966)の随筆で、曹洞宗の禅を以下のようにまとめていた。一方日本の曹洞禅があつて禅戒一如の思想や、一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方、「正法眼蔵」の研究、道元中心の禅などと云ふものが出来たが……大拙居士「公案禅と念仏禅」、『禅:随筆』大雄閣・昭和2年、350頁ここで気になったのは、「一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方」であり、これは曹洞宗の教えといえるのだろうか?確かに、この一句を御垂示等に用いられた事例も少なくないように思うが、ただ、少し議論を要すると思うのだ。例えば、江戸時代の学僧・天桂伝尊禅師が次のような批判を行ったことで知られる。老僧常道、汝等坐禅修行すといへども、但修習行儀無実究道理、只管打坐、仏祖眼睛、在規矩中、一寸の坐禅、一寸の仏などヽ云、瞎禿子の妄談を信じて、著眼...一寸坐れば、一寸の仏?