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以前、【「暫到」考】という記事を書いたのだが、その際、「暫到」という用語について、どうも近現代で用いられた意味とずれている印象を得た。その後、近現代の用法の典拠となったと思われる文脈を見出したので、確認しておきたい。掛搭願ふ雲水、結夏は三月末、結冬は九月末に来錫す、先づ旦過寮に包を卸し、威儀を具し、知客寮の行者に通覆し、知客に拝し、次に住持に拝謁は、侍者に通じ、允を得て、知客引て、方丈に詣で拝す、茶話了て、旦過に休す、これは乍入の拝なり、次に掛搭を願ふは、再び知客に啓す、知客より知事等に通じ、生処来歴を詢問して、住持に白し、許を得て、安下の所に休息せしむ、この間を暫到と云、大掛搭の日定りて、久参僧を一人参頭とす、参頭、夏前の掛搭僧をみな領し、先づ知客寮に到て、門の右に列して、参頭白して云く、暫到相看と、知...「暫到」考其二
以前から思うことの1つに、「暫到」って、本当はどういう意味なのか?ということがある。現在の宗門では、僧堂修行に赴くと、まずは「暫到和尚さん」と呼ばれる。で、「暫到」の「暫」というのは、「しばらく」という意味であるから、これを素直に受け取ると、しばらくの間到れる者、という意味になると思われる。要は、長期間いることを前提にされていない者、という意味のはずなのだ。そう思っていたら、江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠禅師が、以下のような記載をしていた。忠曰く、暫くの時、某寺に到る。当に久しからずして、而も去るべし。故に暫到僧と曰う。『禅林象器箋』巻6「第六類稱呼門」「暫到」項ここに、「久からずして、去る」とある通り、「暫到」というのは、その叢林に長居することを前提にされていない者のはずなのだ。いや、実はこの用語、宗...「暫到」考