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ちょっと気になる文脈があったので、学んでみたい。戒、唯だ仏制するのみ余人に通ぜず行宗云わく、大千界の内、仏を法王と為す。律は是れ仏勅なり、唯だ聖制のみ立す。自余の下位は但だ依承すべし。良に以れば如来は行果極円にして、衆生、軽重の業性を究尽す。等覚已下、猶お堪る所に非ず。況んや余の小聖をや。輒ち敢て擬議せんや。国家の賞罰号令の如くなること有るは、必ず王より出づ。臣下、僭越すれば、庶人、信を失す。亡敗すれば日無し。仏法も亦た爾り。若し他の説を容れれば群生奉らず。法、久住せざる故なり。『緇門警訓』巻3、版本に従って訓読要するに、戒とは仏陀が定めたものだが、他の人が定めることは出来ない、という趣旨の文章である。まず、行宗とは、律宗系の文献に見える名前だが、律宗僧の祖師の一人か。それが、大千界の内、仏を法王とし、律...『緇門警訓』に見る「仏制としての戒」の説示
『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)
令和4年度臘八摂心7日目である。明日は成道会の記事なので、この記事が今回の短期連載、最後の記事となる。『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』の末尾の文章を見ておきたいと思う。生死永く息み、一粒の還丹、金を点じて汁を成し、身心客塵、透漏無門なり。迷悟且く説き、逆順論を休む。細に昔日を想い、冷坐尋覓すれば、然も不別なりと雖も、也た大狼藉なり。刹那の凡聖、人の能く信ずること無し。匝地忙忙にして、大に須らく謹慎すべし。如し其れ知らずんば、端坐思惟、一日築著す。伏惟伏惟。『緇門警訓』巻上以上が、今回見ている『坐禅銘』の末尾の部分である。意味としては、前回の記事をご覧いただきつつ学んでいただければ良いのだが、心の働きにとらわれがなく、自由自在であれば、生死輪廻が長く止まり、水銀から戻った丹薬が、わずか一粒でも金の汁を出す(この辺は...『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)
『緇門警訓』に見る坐禅の説示5(令和4年度臘八摂心短期連載5)
令和4年度臘八摂心2日目である。昨日から、『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』を見ているので、続けて見ていきたいと思う。禅、何ぞ不坐ならん、坐、何ぞ不禅ならん。了得すること是の如くなれば、始めて坐禅と号す。坐する者何人ぞ、禅是れ何物ぞ。而も之に坐せんと欲せば、仏を用って仏を覓む。仏、用覓せずんば、之を覓むるも転た失す。坐、我観せず、禅、外術に非ず。『緇門警訓』巻上坐禅というと、どこか一体のものだと思っているが、どうやら、禅と坐とで分ける考えがあったらしい。とはいえ、上記の文章では、それを批判し、むしろ、禅が坐で、坐が禅であるという考えを推し進め、了得すれば「坐禅」になるとしている。その上で、坐と禅とが一体となった「坐禅」から、続けて「坐する者」が何者で、「禅」とは何者か?と尋ねている。これは、坐とは人が行うべきもので...『緇門警訓』に見る坐禅の説示5(令和4年度臘八摂心短期連載5)