メインカテゴリーを選択しなおす
瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の文献を見ていたところ、以下の一節が気になった。若し又た土縁・六念及び戒牒を帯びれば、具さに之を書副う。『瑩山清規』さて、問題はこの「六念」についてである。それで、これについては、典拠はおそらく『禅苑清規』巻1「掛搭」項なのだろうと思われるが、同書では以下のように指摘されている。今、本名度牒・六念・戒牒、共に三本を執りて、全く、使衙に赴いて呈験し、判公憑を欲す。『禅苑清規』巻1「判憑式」これは、「掛搭」項中の「判憑式」という項目中にいわれていることで、「判憑式」というのは、中国で僧侶が州の境界を出て遊行する際の許可状(旅券)を申請する際の書式であるという。それで、僧侶が携帯するべき書類について、「度牒・六念・戒牒」があるというのだが、中国の唐代までは「度牒・戒牒」のみだっ...「六念」について
ちょっとした雑考であるが、もしかするとこれは、拙僧が禅宗の僧侶だからかもしれない。おそらく、一部の日蓮宗系の教団とかだと、この辺が信仰や教義上の生命線となり、必死になって議論している人もいることだろう。まぁ、拙僧どもは、その意味で禅天魔だから関係無いか。さて、初期曹洞宗教団の「本尊」について、ちょっとした考察をしてみたい(というか、先行研究が複数存在しているので、それらを読みたい人は、読まれると良いと思う)。まず、高祖道元禅師が自ら開かれた京都深草興聖寺と越前大仏寺(後の永平寺)について、以下の記述が知られる。聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。いはゆる、東西にあひむかへて、お...初期曹洞宗教団の「本尊」に関する一考察
一昨日の記事をアップした関係で、昨日も今日も記事の日付が後ろにずれてしまった。ということで、「清明」の記事を用意していたのだが、すっかり一日遅れになってしまった。二月末、若しくは三月初、三月の節日に入る、是の日、清明なり。皆な鎮防〈火〉燭を書いて、札に三宝印を行ず。日中諷経の次で、消災咒一遍を誦し、諸堂・諸寮の柱に押貼す。或いは大檀越并びに諸庵、及び諸檀越の舎に賦す。此の日、大国換火す。若しくは換火を鑽るには、楡・柳を用いるべし。楡を錐と為し、柳を台と為す。或いは柳を錐と為し、楡を台と為す。火、若しくは換うるが如きは、諸堂及び山中の諸庵、諸もろの小屋の火、皆な之を換うるべし。『瑩山清規』巻上「年中行事」以上の通り、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師の頃には既に、「清明貼符」を行っていた。そもそも、清明には「鎮防火...昨日が清明だったとのこと
そういえば、4月3日の禅林行持といえば、「夏衆戒蝋牌草」を出すというのがあった。四月三日、必ず夏衆戒蝋牌草を出す。名づけて草単と称す。尚お戒蝋の次第を正さんと為すなり。式に云く、日本国加州山寺海衆の戒蝋、後の如し、陳如尊者堂頭和尚正元元戒某甲上座正應元戒某甲上座右、謹んで具呈す、若し誤錯有らば、各おの指揮を請う。謹んで状、元亨四年四月三日堂司比丘〈某甲〉拝状三日の粥罷自り、放参了りまで出して、之を収む。此の如く三日間、出入の後、収め置くなり。若し衆の指揮有らば、其れに随いて牌上に載定す。『瑩山清規』巻上「年中行事」まず、上記の一節は何かというと、禅林の安居に於いては、「戒臘(出家得度してからの年数)」で僧侶の順番を定めたので、その順番を書いた下書き(夏衆戒蝋牌草)を4月3日に出して、安居のために集まってき...4月初頭の禅林行持について
坐禅終了時の鳴鐘について、どうも2つの呼び方がある気がしていた。拙僧は以前、「抽解鐘」という名称を聞いていた気がするのだが、他に「放禅鐘」という言い方をしている人もいる。そう思っていたら、経行終了時と坐禅終了時とで名称が違うという表現をしていた人もいた気がするのだが、どうなんだろうか?この辺、決まっているのかな?と思い調べてみたら、結果は以下の通りであった。・「抽解鐘」経行または坐禅を終る時、小鐘一声。『昭和改訂曹洞宗行持軌範』339頁昭和27年の『昭和改訂』本では経行と坐禅の両方ともで、終了時の「小鐘一声」を「抽解鐘」だとしている。拙僧が最初に聞いていた名称はここが典拠となっている。だが、これがこうなった。・「放禅鐘」経行又は坐禅を終るとき、小鐘一声。『昭和訂補曹洞宗行持軌範』394頁鳴鐘法としては全く...坐禅終了時の鳴鐘の名称について
曹洞宗は行持綿密であり、作法是宗旨の宗風であるとされるが、その根拠になったのは道元禅師『永平清規』と、瑩山禅師『瑩山清規』であったといえよう。特に、『瑩山清規』の特徴は年中・月中・日中・臨時の各行持を組織化したことであり、この通り行ずれば、叢林での修行が成立するのである。さて、今日はその中で、月中行事の「十五日」について、見ておきたい。十五日粥時に歎仏、粥罷に人事、祝聖諷経、上堂・巡堂朔望と一致。斎罷に布薩す、作法、別紙有り。『瑩山清規』巻下詳細を見ていきたいが、まず「粥時に歎仏」とあるが、これは朝食の時に、「歎仏」することを指しているが、行法は『赴粥飯法』由来だろうか?その前に、瑩山禅師御自身のご見解を見ておきたい。四日以下、居常に十仏名、歎仏無し。只だ云く、仰惟三宝咸賜証知、仰憑尊衆念。『瑩山清規』「...『瑩山清規』に見る「十五日」の話
今日2月23日は、語呂合わせで「2(富)2(士)3(山)」の日である。それで、曹洞宗の祖師方の中には、富士山に実際に登られたり、富士山を題材に偈頌などを詠まれた事例がある(以下は、以前に東海道新幹線の車内から撮った富士山)。なお、大本山永平寺を開かれた道元禅師は、富士山をご覧になったと思われる。機会は1回、もしかしたら2回だったのかもしれない。確実なのは、宝治年間に行われた鎌倉行化である。宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云わく、山僧昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月の昨日帰寺し、今朝陞座す。『永平広録』巻3-251上堂以上の通りであるが、道元禅師は宝治2年(1248)8月3日から、翌年3月13日までの期間、鎌倉に赴かれたのである。どのルートを通られたかには諸説...今日は富士山の日(令和6年版)
今日2月22日は、猫の鳴き声「ニャンニャンニャン」に引っ掛けて「猫の日」である。我々仏教界と猫は、おそらくインドの頃から親しくて、北伝の『中阿含経』や大乗仏典である『大般涅槃経』にも登場し、また禅宗的には、やはり【南泉斬猫話】で、ぶった切られるお話しが有名である。そもそも、禅宗寺院に限らず、各地の寺院では境内に穀物を貯蔵する倉庫などを持っていた場合が多かったと思われ、鼠害対策が不可欠であった。よって、もっとも飼いやすい猫をその対策に充てたという。ただ、現在、猫を愛玩動物として考える人が多いように、昔も同様であった。和尚示して云く。貪欲の多き者は、便ち是れ少人なり。虎子・象子等、ならびに猪・狗・猫・狸等を飼うこと莫れ。今、諸山の長老等の猫児を飼うは、真箇、不可なり。暗き者の為(しわざ)なり。凡そ、十六の悪律...今日は「猫の日」(令和6年版)
明日2月15日は、釈尊涅槃会である。そこで、その準備について論じた文脈を見ておきたい。二月十五日、涅槃会なり。力に随いて供具を弁ず。兼日、衆中の大小、山中の諸人、各おの七文銭を出して、涅槃仏を供養す。札上に之を貼る。庫下より之を勤めて、供具を調う。是れ永平の旧儀なり。供具弁備して後、上堂、例の如し、但だ拈香して云く・・・(疏は略す)『瑩山清規』「年中行事」このように、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師が洞谷山永光寺山内行持をまとめられた『瑩山清規』では、涅槃会の準備として、各おの七文銭を出して、「涅槃仏」を供養すべきだという。この「涅槃仏」について、詳細は不明なるも、おそらくは「涅槃図」或いは「涅槃像」が山中にあったものと思われる。入寺の日、即ち吉事有り、所謂涅槃像、加賀国野市の藤次、捨て入れ安置す、常楽我浄の四...明日は釈尊涅槃会(令和6年版)
今日は拙僧の本師の忌日である。来年が二十三回忌なので、今年はいわゆるの年回ではないが、法嗣としては、大寂定中にある先師をお慕いし、ご生前の養育の恩へ報謝の念を申し上げるのみである。ところで、「先師忌」という観点で見てみると、例えば曹洞宗の高祖・道元禅師には、本師・天童如浄禅師の忌日に於けるご供養を寛元4年(1246)以降、ほぼ毎年修行されており、それは「上堂」の形式であった。しかし、その後、太祖・瑩山紹瑾禅師の時代には、いわゆる諷経も行われていた様子が分かる(ただし、急いで自ら註記すると、道元禅師の時代に諷経が無かったとはいえない。その判断が出来ない、という表現が正しい)。さて、その意味では、先師忌の法要差定としては、以下の一節を参照しておきたい。九月十四日先師大乗和尚忌なり。十三日の晩間、法堂の荘厳は、...今日は先師忌(令和6年版)
洞門に於いて、御袈裟の参究といえば、高祖道元禅師の『正法眼蔵』「伝衣」「袈裟功徳」両巻から始めるのが常道ではあるが、それ以外としては、やはり太祖瑩山紹瑾禅師『伝光録』から見ていくべきであろう。既にご承知置きいただいているとは思うが、禅宗の系譜には、御袈裟に関わる事跡が残る祖師が多く、それを伝えた『伝光録』にも勿論、御袈裟の話が見えるのである。其金襴の袈裟といふは、正しく七仏伝持の袈裟なり。<彼の袈裟に三つの説あり。一つは如来胎内より持すと。一つは浄居天より奉ると。一つは猟師これを奉ると。又、外に数品の仏袈裟あり。達磨大師より曹渓所伝の袈裟は、青黒色にて屈眴布なり。唐土に到て青き裏を打てり。今六祖塔頭に蔵めて国の重宝と為す。是れ智論に謂ゆる如来麁布の僧伽黎を著くと、是なり。彼の金襴は金氈なり。経に曰く、仏の...瑩山紹瑾禅師が説かれる御袈裟の話
曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)に於かれては、「入室」に力を入れておられたことは明らかで、特に「立僧入室」は瑩山禅師門下の教育に於いて、重大な意義を持つ行持であった。ところで、「入室」は道元禅師の時代から行われていた。この道取は、大宋宝慶二年丙戌春三月のころ、夜間やや四更になりなんとするに、上方に鼓声三下きこゆ。坐具をとり、搭袈裟して、雲堂の前門よりいづれば、入室牌かかれり。まづ衆にしたがふて法堂上にいたる。法堂の西壁をへて、寂光堂の西階をのぼる。寂光堂の西壁のまへをすぎて、大光明蔵の西階をのぼる。大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて、焼香礼拝す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず、妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。ときに西川の祖坤...『瑩山清規』に於ける「入室」について
令和6年も2日目となる。昨日の元旦に、石川県北部周辺を震源とする令和6年能登半島地震が発災し、多くに被災者も出ておられる。当該地域は、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)以来の古刹も多く、心からお見舞い申し上げる。ところで、今日は瑩山禅師の『瑩山清規』から「年始の行持」を見ておきたい。・粥時必五味粥・歎仏如常・粥次点茶行礼・次恒例上堂・祝聖修正(三朝)以上である。この段階で、後の年分行持に見られる内容が調っている。それで、改めて江戸時代の面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』「年分行法」の様子を見ておきたい。・修正礼賀(祝聖上堂または祝聖諷経、了而大衆礼賀)・禺中行法(転大般若または礼三千仏)・賀客接待・三寮祝茶それで、3日になると修正の法会は満散となる。ところで、拙僧的に気になるのは、「修正」の...洞門寺院に於ける年始行持について
ちょっと気になることがあったので、記事にしておきたい。曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)には、加賀大乘寺で行われた提唱を記録した『伝光録』があるが、その冒頭には以下のようにある。師、正安二年正月十一日に於いて始めて請益す。『伝光録』冒頭さて、ここで、『伝光録』は「請益」として行われた可能性があることが分かる。それで、瑩山禅師が晩年、永光寺で編集された『瑩山清規』には、「請益」について以下のように示されている。・六日異なる行法無し、若しくは請益。・十一日若しくは請益。一・六に請益を請うは、永平の古儀なり。・廿一日請益。『瑩山清規』「月中行事」・・・「十一日」の項目に、「一・六に請益を請うは、永平の古儀なり」とあるから、てっきり「1日・6日・11日・16日・21日・26日」と、毎月6回行っている...『瑩山清規』に於ける「請益」について
世間一般の認識として、十二月の異名である「師走」については、坊さんがかけずり回る様子から来ていると理解している方も多いと思う。例えば以下のような説が見える。◎十二月和名を師走と云は、むかしは此月諸家に仏名をおこなひて、導師ひまなくはしり行なれば、師走り月を略せりと。○又云、しはすは四時のはつる月なれば四極月なるべい、豊後に四極山と云有、此心かよへり、又極月といへるも此意也。○殷の世は此月を正月とす。三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、55頁以上の記事は、享保20年(1735)に刊行された『江府年行事』に収録された一節で、「師走」の語源には、複数のものがあったことが理解出来よう。拙僧的には、「師走」が妥当かどうかが気になっており、【師走に関する幾つかの記事】も書いた。そこで、肯定的な意見を見て...師走と臘月の話
今晩は断臂摂心を行う日であるとされる。断臂とは「臂を断つ」の意味であり、中国禅宗の二祖である慧可大師が、少林寺で面壁を続けていた達磨大師の元で弟子入りするときに、自分の臂を断って菩提心を発露した故事を指す。また、これは曹洞宗の独自の行持とされるが、その日に慧可大師を讃歎しつつ、徹夜坐禅を行うことが断臂摂心となった。断臂の供養のこと、諸清規に見へず。然れども日本の洞家は古来より、臘九夜は断臂坐禅とて、尋常坐禅せぬ寺院も、臘八と断臂とは懈怠せず。是は永平・瑩山の勝躅なり。面山瑞方禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻6「仏祖会行法考訂」このように、面山禅師は断臂供養について、臨済宗を含めた諸清規には見えないものの、曹洞宗では断臂坐禅を行ってきたとし、道元禅師の「断臂上堂」と、瑩山禅師の勝躅を讃えているのである。十二月...今晩は断臂摂心(令和5年度版)
今日は11月2日である。ところで、元亨元年(1321)にこんな出来事があったとされる。元亨元年〈辛酉〉本願の主、海野三郎〈信濃国に住す〉滋野信直、十一月二日、受戒して法名は妙浄とす。『洞谷記』海野三郎とは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師に、永光寺を建てるべき土地を寄進した女性(黙譜祖忍尼)の夫である。元々妻が信心深く、夫も続けて瑩山禅師の下で授戒し、仏縁を繋いでいる。『洞谷記』を見ると、この夫妻が熱心に瑩山禅師にお仕えする様子が分かるが、瑩山禅師も可能な限りこの夫妻の願いを叶えるべく御尽力された。無論、その願いとは、現当二世を祈ることであり、菩提を得ることこそがその願いになるが、この夫婦を以下のように讃えたこともある。然る間、瑩山の今生の仏法修行は、此の檀越の信心に依って成就す。故に尽未来際、此を以て本願主の...11月2日或る人の受戒
拙僧の手元にある『總持両祖行術録』に収録されている「開山和尚退院上堂」について、学んでみたい。開山和尚退院上堂瑩山老和尚、退席に臨んで、紹碩、衆と同じく請うに、上堂す、機前に卓立して、独り物表に超え、峨峨たる青山、蒸蒸たる山雲、父子長年相離せず、君臣道合して内外無し、〈叙・謝、録さず〉記得す、世尊拈華瞬目し、迦葉破顔微笑す、世尊曰く、「吾に正法眼蔵有り、摩訶迦葉に付属す」と、這裏に到て吾に有る底の事、如何、良久して曰く、頂門凸出す一円相、徧界蔵せず新總持、遂に衣を首座紹碩に付して曰く、梧桐葉落ち秋風興る、竹林自ら知る百卉の長きことを、渠が金衣著実の処を見て、大陽目に盈て自ら堂に当たる、卓、拄杖して、下座。〈此の袈裟藕糸、梧竹の紋、鴿色なり、世世に相承して今に到る〉『總持両祖行術録』13丁表、訓読は拙僧この...瑩山紹瑾禅師「開山和尚退院上堂」について