愧ても悔ても余りあり
この題にした一句は、曹洞宗太祖・大本山總持寺御開山・瑩山紹瑾禅師の『伝光録』第17章に見られる。瑩山禅師は、今末法の世に生まれてしまったことを、自らの修行が足りないからだと慚愧に思うと主張された。双樹に滅を示してより八百余年、世界丘墟にして樹木枯悴し、人に至信なく、正念軽微なり。真如を信ぜず、唯神力を愛すと。言ひ訖りて、右手を以て漸く展て地に入て金剛輪際に至り、甘露水を取り、瑠璃器を以て持て会所に至る。大衆、皆見て皆帰伏悔過す。悲むべし如来在世より八百年、尚お是の如し。何に況や後百歳の今、僅に仏法の名字を聞くとも、道理如何なるべしとも弁まへず。到れる身心なき故に、如何なるべきぞと尋ぬる人なし。聊か其道理を得ることあれども、護持し来ることなし。設ひ知識ありて、大慈大悲の教誡に依て、聊か覚知覚了ありと雖も、或...愧ても悔ても余りあり
2025/01/08 08:12