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今日2月15日は釈尊涅槃会である。以前アップした【曹洞宗に於ける涅槃会について】という記事を作る過程に於いて、中国禅宗の北礀居簡禅師(1164~1246)に釈尊涅槃会に因んだ「斎忌疏」があると知った。そこで、今日はその内容を見てみようと思うのだが、北礀禅師には『北礀詩集』全10巻があるので、まずはそれを一読した。すると、「斎忌疏」という名称を持つ「疏」自体は発見できなかったが、類似する「疏」を見出したので、今日はそれを学んでみたい。二月十五仏涅槃疏伝灯白日無し、長不夜の光明を開く、瞑に兮黄昏を作し、本不常の代謝を見ては、其の法固応を与えり、尓曷ぞ身の先之に徇るが故に花笑鴬啼に於けるが若し、示に鐘残漏尽を以て、輪は再転を希ふ、曽て吾が転輪を聞いて耶、道は当成に記す、既に予が行道を見て矣、重ねて万字を摩す、双...北礀居簡禅師「斎忌疏」について(令和6年・釈尊涅槃会)
さて、今日は曹洞宗で釈尊涅槃会に合わせて読まれる『遺教経』の一節を見ていきたいと思う。汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に、諸の放逸を捨てること、怨賊を離れるが如くすべし。大悲世尊所説の利益は、皆以て究竟す。汝等、但だまさに勤めてこれを行ずべし。若しは山間に在っても、若しは空沢の中に於いても、若しは樹下に在っても、静室に閑処するも、所受の法を念じて忘失せしむること莫れ。常にまさに自ら勉めて精進して、これを修すべし。為すこと無くして空しく死すれば、後に悔有ることを到さん。我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すると服せざると、医の咎に非ざるなり。又、善く導くものの、人の善の道に導くが如し。これを聞いて行わざるは、導くものの過に非ず。『仏垂般涅槃略説教誡経』本経典では、一心に集中して、放逸を捨てるよう...『仏垂般涅槃略説教誡経』を学ぶ(令和6年版)
北伝仏教では釈尊の涅槃会を2月15日に行っており、例えば曹洞宗では、この涅槃会を前に次のような行持を修行する。二月一日・読遺教経涅槃会の法供養を修するため、本日より十四日まで晩課のときに遺教経を読誦する。知殿あらかじめ涅槃像を室中に掛け、香華灯燭を弁備する。殿鐘上殿、住持入堂し上香、普同三拝して着座、維那、挙経する。遺教経終わって、舎利礼文を大衆合掌して同誦すること三遍。一唱ごとに頂礼、三唱三礼。次に普回向、普同三拝して散堂する。『曹洞宗行持軌範』「年分行持・二月一日」項曹洞宗寺院では、毎年2月1~14日まで、晩課にて『遺教経』を読誦する。元々、晩課とは、固定された読誦経典があるわけではなく、融通が効く行持であった。よって、涅槃会仕様に変更する様子である。そして、この釈尊涅槃会を、より強く想うために、室中...曹洞宗に於ける涅槃会について
今日、2月15日は釈尊涅槃会である。なお、我々日本仏教は北伝仏教での言説の影響を受けて、今日となっている。例えば、影響を与えたかもしれない文献として、以下の一節などはどうか。是の如く我れ聞けり、一時、仏、拘尸那国力士生地、阿利羅跋提河の辺、娑羅双樹の間に在り、爾の時、世尊と大比丘八十億百千人衆、前後圍遶す。二月十五日に涅槃に臨む時、仏、神力を以て大音声を出だす、其の声、遍満し、乃至、有頂まで、隨其の類音に随いて普ねく衆生に告ぐ、「今日、如来、応供、正遍知、衆生を憐愍し、衆生を覆護し、衆生を等視すること、羅睺羅の如し、為作帰依を作すは、屋舎室宅と為す、大覚世尊、将に涅槃せんと欲す、一切の衆生、若し疑う所有れば、今、悉く問うべし、最後の問いと為す」。大乗『大般涅槃経』巻1「寿命品第一」いわゆる大乗『大般涅槃経...今日は釈尊涅槃会(令和5年度版)
釈尊が般涅槃された後、残された者たちは釈尊の遺骸を供養するべく、遺言に従って準備を進めていた。しかし、涅槃部系の経典を見てみると、釈尊の遺骸を火葬にしようとしたけれども、火が点かなかったという。その状況が変わったのは、実質的に釈尊の後継者となった摩訶迦葉尊者が、クシナガラに到着したためであった。そこで、色々と調べてみると、『迦葉赴仏般涅槃経』が『大正蔵』巻12「涅槃部」に収録されている。この経典はまさに、釈尊の涅槃に際して、摩訶迦葉尊者が赴いた話を掲載している。よって、今年の釈尊涅槃会を前に、同経典を読んでみたいと思った。まず、迦葉尊者の位置付けについて、同経典では始まる。昔、仏、在世時、摩訶迦葉、諸比丘中に於いて最長年高なり、才明智慧もて、其の身、亦た金色の相好有り。仏、説法する毎に、常に其れに対坐を与...『迦葉赴仏般涅槃経』について
岩波文庫でも読むことができる、『大般涅槃経』(『ブッダ最後の旅』、南伝のパーリ仏典を訳した)では、釈尊の葬儀について、阿難陀尊者にはかかずらうな、といったという。その点、北伝でも『遊行経』という経典で、同じことをいっているので、見ておきたい。時に阿難、即ち座より起ちて、前の仏に白して言わく、「仏の滅度の後、葬法は云何」。仏、阿難に告ぐ、「汝、且く黙然して、汝の所業を思え、諸もろの清信士、自ら楽いて之を為す」。時に阿難、復た重ねて三啓す、「仏の滅度の後、葬法は云何」。仏、言わく、「葬法を知らんと欲せば、当に転輪聖王の如くすべし」。阿難、又た白す、「転輪聖王の葬法は云何」。仏、阿難に告ぐ、「聖王の葬法、先づ香湯を以て其の体を洗浴し、新劫貝を以て周遍し身に纏い、五百張の畳を以て、次いで之を纏うが如し。内身を金棺...『遊行経』に見る葬儀否定論
江戸時代の読本作家・滝沢馬琴(1767~1848)が編集したとされる文献に、『俳諧歳時記栞草』というのがあって、要するに俳句を詠む時の歳時記ではあるのだが、その「春・夏の部」に、ちょっとした記事を見付けた。今日はそれを紹介したいと思う。遺教経会九日より十五日迄、○瑞応山大報恩寺の釈迦訓読会とも云、堂は、洛の上立売朱雀の西に有、元天台宗なり、近世真言宗となる、方丈を養命坊と号す、千本の釈迦堂是なり、〔紀事〕この寺に藤原の秀衡建るところの堂、并に平の教経幼年の砌、手習せしと云寮有、一説に秀衡の堂、教経の室、いにしへよりある処にして多く廃頽す、近世これを再興すと云、又一説に猫間の中納言光隆卿の家士、岸高拾、千本の地に大報恩寺を建て、如琳上人を請すと。しかれば秀衡の堂、教経の寮、みな誤か、毎年此節雪ふり風烈す、故...「遺教経会」のお話し
『遊行経』は、阿含部に含まれる『涅槃経』となる。いわゆる釈尊の最期の遊行の様子を示したものなのである。その中に、釈尊が最後の弟子となった須跋(スバッタ)に対して、自身の出家の年齢を述べる箇所がある。我、年二十九にして、出家し善道を求む、須跋、我れ成仏し、今、已に五十年なり。戒定智慧行して、独処にして而も思惟し、今、法の要を説き、此の外に沙門無し。『遊行経』第二後、『長阿含経』巻4北伝では、19歳出家、30歳成道が知られているが、以上だと、29歳で出家し、成仏してから50年とあるので、良く言われる「6年」とか「12年」とかいう修行期間はどうしたのだろうか?とか思うが、どちらにしても、阿含部には上記の通り、29歳出家説を示す経典も含まれていたわけである。ただし、日本でもそうだが、江戸時代が終わるくらいまで、或...『遊行経』に見る釈尊出家の年齢