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釈尊涅槃会を前に、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学んでいるのだが、『遺教経』という語句が道元禅師の教えに出ていたので、見ておきたい。寮中、応に大乗経並びに祖宗の語句を看て、自ら古教照心の家訓に合すべし。先師示衆に云く、你、曽て遺教経を看るや。闔寮の清衆、各おの父母・兄弟・骨肉・師僧・善知識の念に住して、相互に慈愛し、自他顧憐して、潜かに難値難遇の想い有りて、必ず和合和睦の顔を見よ。失語有るが如きは、当に之を諌むべし。垂誨有るが如きは、当に之に順ずべし。此れは是れ見聞の巨益なり。能く親近の大利なるものか。忝くも厚殖善根の良友に交わり、幸に住持三宝の境界を拝す。亦た慶快ならざらんや。俗家の兄弟すら、猶お異族に比せず。仏家の兄弟、乃ち自己よりも親しむべし。黄龍南和尚云く、孤舟共に渡るすら、尚お夙因有り、九...『遺教経』を読む場所について
さて、今日は曹洞宗で釈尊涅槃会に合わせて読まれる『遺教経』の一節を見ていきたいと思う。汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に、諸の放逸を捨てること、怨賊を離れるが如くすべし。大悲世尊所説の利益は、皆以て究竟す。汝等、但だまさに勤めてこれを行ずべし。若しは山間に在っても、若しは空沢の中に於いても、若しは樹下に在っても、静室に閑処するも、所受の法を念じて忘失せしむること莫れ。常にまさに自ら勉めて精進して、これを修すべし。為すこと無くして空しく死すれば、後に悔有ることを到さん。我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すると服せざると、医の咎に非ざるなり。又、善く導くものの、人の善の道に導くが如し。これを聞いて行わざるは、導くものの過に非ず。『仏垂般涅槃略説教誡経』本経典では、一心に集中して、放逸を捨てるよう...『仏垂般涅槃略説教誡経』を学ぶ(令和6年版)
釈尊涅槃会を前に、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学ぶ時期としているのだが、或る文脈に気付いた。心の畏るべきこと毒蛇・悪獣・怨族よりも甚だし。大火の越逸なるも、未だ喩えとするに足らず。譬えば、人有り、手に蜜器を執って、動転軽躁し、ただ蜜のみを見て、深坑を見ざるがごとし。また、狂象の鉤無く、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して禁制すべきこと難きが如し。まさに急やかにこれを挫いて放逸ならしむること毋るべし。この心を縦にすれば、人の善事を喪う。これを一処に制すれば、事として弁ぜずということなし。この故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏すべし。『遺教経』ここで、「折伏」すべきだといわれているのは、「比丘の心」である。修行者の心である。つまり、恣に活動しがちな心を、良く統御するように説いている。そして、そこに「折...「折伏」すべきは一体何か?
毎年2月の前半は、釈尊涅槃会を控えつつ『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学ぶように心掛けているのだが、今回は道元禅師による引用例を学んでみたい。昔日、僧有りて法眼禅師に問うて曰く、「如何なるか是れ古仏」。法眼曰く、「即今、也た嫌疑無し」。僧、又た問う、「十二時中、如何が行履せん」。法眼曰く、「歩歩踏著す」。他に亦た道有り、「夫れ出家人、但だ時及び節に随う。便ち寒ならば即ち寒、熱ならば即ち熱を得。仏性の義を知らんと欲すれば、当に時節因縁を観ずべし。但だ分を守りて時に随いて過ぐる、好し」。備さに他の意を観ず。如何なるか是れ時及び節に随い、如何なるか是れ分を守るや。知るべし、色上に於いて非色の解を作す莫れ、亦た色解を作さざれ、亦た両頭に走らざれ。如今、嫌疑を忘れ、他と与に古仏と同住同行す。然りと雖も、争か猶お...修行者は蜂のように……
江戸時代の読本作家・滝沢馬琴(1767~1848)が編集したとされる文献に、『俳諧歳時記栞草』というのがあって、要するに俳句を詠む時の歳時記ではあるのだが、その「春・夏の部」に、ちょっとした記事を見付けた。今日はそれを紹介したいと思う。遺教経会九日より十五日迄、○瑞応山大報恩寺の釈迦訓読会とも云、堂は、洛の上立売朱雀の西に有、元天台宗なり、近世真言宗となる、方丈を養命坊と号す、千本の釈迦堂是なり、〔紀事〕この寺に藤原の秀衡建るところの堂、并に平の教経幼年の砌、手習せしと云寮有、一説に秀衡の堂、教経の室、いにしへよりある処にして多く廃頽す、近世これを再興すと云、又一説に猫間の中納言光隆卿の家士、岸高拾、千本の地に大報恩寺を建て、如琳上人を請すと。しかれば秀衡の堂、教経の寮、みな誤か、毎年此節雪ふり風烈す、故...「遺教経会」のお話し
2月15日は仏教の開祖・釈迦牟尼仏が般涅槃(要するに亡くなったこと)した日とされ、「釈尊涅槃会」などが行われる。それに因んで、釈尊の最後の教えを学ぶことにしたい。釈尊の最後の教えについては、いわゆる「涅槃部」という括りがある経典群があるのだが、その後、大乗仏教で改編された『大般涅槃経』が作られ漢訳されたりしているので、日本ではかなりの種類の釈尊最後の教えが伝わっていたりする。その中でも、個人的には『遺教経』を読む機会が多いので、この経典について考えてみたい。そもそも、『遺教経』とは通称であり、詳しくは『仏垂般涅槃略説教誡経』という。以前も指摘したことだが、この「垂」の字は、例えば「口宣を垂らす」というような意味合いに見えるところ、ここでは「垂んとして」と読み、仏陀が「般涅槃に垂んとして(そろそろ入滅しそう...『遺教経』雑考(令和5年度版)
今日1月6日は、諸事情から「八大人覚」を学ぶ日、と勝手に決めている。そこで、今日は以前から見てみたかった、安世高訳『八大人覚経』にしたいと思うのだが、元々この「八大人覚」とは、訳語の一であって、他にも「八念」や「八大人念」などの訳語もある。そうなると、「八・大人・覚」という区分が必要な用語であることが分かる。そこで、早速に『八大人覚経』を見ていきたい。仏弟子と為れば常に昼夜に於いて、至心に八大人覚を誦念す。第一に世間の無常を覚悟す。国土危脆にして四大の苦は空なり。五陰無我にして生滅変異し、虚偽にして主無し。心、是れ悪の源、形を罪藪と為す。是の如く観察すれば、漸く生死を離るる。第二に多欲を苦と為すと覚知す。生死疲労は貪欲より起こる。少欲無為なれば、身心自在なり。第三に心に厭足無きを覚知す。唯だ多く求むれば罪...今日は「八大人覚」を学ぶ日(令和5年度版)